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親友が密かに署名した婚前契約書  作者: 朧月 華


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第21話 沙織の過去

マンションの下で、パトカーのサイレンがぴたりと止んだ。赤と青の光が、窓に反射して部屋の中を不気味に照らし出す。その光は、まるで地獄の業火が迫ってくるかのように、沙織と蓮の顔を蒼白に染め上げていた。沙織は震えが止まらず、握りしめた携帯電話が床に落ちるのも構わず、私を憎悪と恐怖の入り混じった瞳で見つめていた。


「嘘よ……嘘だと言って、美咲! あなた、そんなこと……」


沙織の声は、ほとんど悲鳴に近かった。彼女は、私が本当に警察を呼んだことに、そして自分たちが今、窮地に陥っていることに、ようやく気づいたようだった。蓮もまた、顔面蒼白で、その場に立ち尽くしていた。彼の心の中にも、私に対する恐怖と、そして自身への後悔が渦巻いていることが見て取れた。だが、私は彼らの絶望を、冷徹な瞳で見つめ返した。


その時、マンションのエントランスのドアが勢いよく開け放たれる音が、ここまで届いてきた。足音が、複数、廊下を近づいてくる。ドンドン、と規則正しいノックが、ドアを叩いた。


沙織は、ハッと息を呑んだ。彼女の顔には、もはや傲慢な嘲りの色はなく、ただ純粋な恐怖と、絶望が浮かんでいた。しかし、次の瞬間、彼女の瞳に、奇妙な、しかし強い光が宿った。それは、諦めではなく、何か新たな企みを始めたかのような、危うい輝きだった。


「待って、美咲! 警察を呼んだのはあなたかもしれないけれど、私を追い詰めたところで、あなたは何も得られないわ!」


沙織は、突然、私に向かって叫んだ。その声は、震えながらも、どこか必死な響きを持っていた。私の眉根が寄った。彼女は、まだ何かを隠している。私を欺くための、新たな嘘を。


「何のことですか、沙織。あなたたちが私に与えた苦痛に、償わせるだけです」


私が冷ややかに答えると、沙織は深く息を吸い込んだ。その瞳は、私を真っ直ぐに見つめ、まるで最後の切り札を切るかのように、告げた。


「そうじゃない! 美咲、私は蓮さんや健太郎さんと組んで、あなたを騙した、そう思っているのでしょう!? でも、本当は違う! 私も、あなたと同じ、被害者なのよ!」


沙織の言葉に、私は一瞬、息を呑んだ。被害者? この女が何を言っているのか。蓮もまた、沙織の突然の叫びに、驚いたように彼女を見つめていた。


「何を馬鹿なことを言ってるんですか。証拠は全て揃っている。あなたが私を騙し、母の会社を奪ったのは、紛れもない事実です」


私が一蹴しようとすると、沙織は必死の形相で、さらに言葉を重ねた。彼女は、まるでこの瞬間を逃せば、全てが終わってしまうとでも言うかのように、早口で話し始めた。


「美咲、あなたは知らないでしょうけれど……私は、健太郎さんの隠し子なのよ!」


その言葉が、私の耳に届いた瞬間、私の頭の中に、閃光が走った。隠し子? 連城健太郎の? 私の心は、驚きと混乱で激しく波打った。蓮もまた、隣にいる沙織を信じられないといった表情で見つめている。彼の顔には、怒りと、そして強い衝撃が浮かんでいた。


沙織は、震える手で、胸元から一枚の古びた写真を差し出した。それは、幼い沙織の隣で、若き日の健太郎と、そして見慣れない女性が微笑んでいる写真だった。その女性は、沙織と瓜二つの顔立ちをしていた。沙織の母親。


「私の母は、健太郎さんがまだ連城グループの末端で、成り上がるために足掻いていた頃の、初恋相手だったわ。健太郎さんは、彼女を愛していた。けれど、連城家の血を引く正式な妻を得るために、私と母を捨てたのよ。私は、健太郎さんにとって、ただの不都合な過去でしかなかった」


沙織の声には、幼い頃からの深い恨みと、そして悲しみが混じり合っていた。彼女の瞳の奥には、憎悪と同時に、父からの愛情を渇望していたかのような、複雑な感情が揺らめいていた。


「私は、母子家庭で、貧しい環境で育ったわ。世間からは『連城グループの隠し子』と嘲られ、屈辱の日々だった。それでも、母は私に、健太郎さんと同じ血が流れているのだから、いつか連城家を見返すことができると、そう言い聞かせ続けてきた。それが、私の唯一の希望だったのよ」


沙織の言葉は、私の知る沙織とはあまりにもかけ離れた、過酷な過去を物語っていた。私は、蓮の隣にいるこの女が、私に裏切りを仕掛けた悪女であると同時に、深い傷を抱えた、もう一人の被害者である可能性に、戸惑いを隠せないでいた。


ドアを叩く音は、今も続いている。しかし、私の意識は、沙織の告白に釘付けになっていた。私の知る世界が、また一つ、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。


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