第20話 迫りくるサイレン、そして健太郎の介入
沙織と蓮の顔は、絶望と恐怖で歪んでいた。彼らが築き上げてきた偽りの世界が、私の手によって、音を立てて崩れ去っていく。沙織は、床に落ちた計算書を見つめながら、小刻みに震えていた。その瞳には、憎悪と、そして底知れぬ恐怖が混じり合っていた。蓮もまた、顔面蒼白で、虚ろな目をしている。彼の心の中にも、私に対する恐怖と、そして自身への後悔が、渦巻いていることが見て取れた。
「どうしたのですか、沙織? 蓮さん? まだ何か、隠していることがあるのですか?」
私の声は、静かだったが、その一言一言が、彼らをさらに追い詰める拷問のように響いた。沙織は、震える手で、スカートのポケットを探る。そして、美咲に見られないよう、隠れて誰かに緊急の連絡を入れようとしているのが分かった。しかし、美咲は全てを見透かしていた。
(健太郎に連絡するつもりね。でも、それが、あなたの最後の悪あがきになるわ)
私の脳裏に、連城健太郎の顔が浮かんだ。彼がこの事態を知れば、必ず介入してくるだろう。それが、私の計算通りだった。
その時だった。
「ウー、ウー、ウー……」
遠くから、救急車ともパトカーともつかない、サイレンの音が聞こえ始めた。最初はその音が小さかったが、徐々に、しかし確実に、その音は大きくなり、沙織のマンションへと近づいてくるのが分かった。
沙織の顔は、一瞬にして完全に蒼白になった。彼女は、携帯電話を握りしめたまま、その場に立ち尽くす。蓮もまた、顔を上げて窓の外を凝視した。その瞳には、恐怖と混乱が混じり合っていた。
「まさか……」
沙織が、震える声で呟いた。彼女は、それがまさか、私の一連の反撃の一部であるとは、想像もしていなかったのだろう。彼女は、パニックに陥り、私を憎悪と恐怖の入り混じった瞳で見つめた。
「林さん、あなた……何をしたの?!」
沙織の声には、私に対する恨みと、そして自身の破滅への絶叫が混じり合っていた。
「何をしたか、ですって? あなたたちが私に仕掛けた罠を、少しだけ、あなたたちにお返ししているだけですよ」
私の声は、冷静だった。表情一つ変えずに、私は彼らを見つめた。サイレンの音は、もうマンションのすぐ下まで来ているようだった。赤と青の光が、マンションの窓に反射し、部屋の中を不気味に照らし出す。
沙織は、顔を覆い、床に膝から崩れ落ちた。彼女の体は、激しい震えが止まらなかった。蓮もまた、顔面蒼白で、その場に立ち尽くしていた。彼の心の中にも、私に対する恐怖と、そして自身への後悔が、渦巻いていることが見て取れた。彼らが、今にも逮捕されるという絶望的な状況に追い込まれた瞬間だった。
「さあ、当ててみて。今、全財産を失い、家を追われるのは、一体誰かしら?」
私の言葉は、彼らの耳には、まるで地獄の業火が迫ってくるかのような宣告に聞こえただろう。彼らが私に与えた絶望を、今度は彼らが味わう番だ。私は、その光景を、冷徹な瞳で見つめていた。私の心には、母への誓いと、裏切り者たちへの裁きが、静かに燃え盛っていた。
そして、サイレンの音は、マンションのエントランスで、ぴたりと止まった。足音が、複数、廊下を近づいてくる。ドンドン、と規則正しいノックが、ドアを叩いた。
沙織は、ハッと息を呑んだ。もはや、逃げ場はない。観念したかのように、震える手でドアノブに手をかけた。
しかし、その瞬間、私のスマートフォンが、静かに震えた。森本先生からのメールだ。簡潔な一文が、私の視界に飛び込んできた。
『林さん、緊急連絡。警察に、上からの指示が入ったようです。連城健太郎の介入です。彼らは、一旦、引きます』
私の心臓が、一瞬にして凍り付いた。健太郎。彼は、警察すら操るほどの、絶大な権力を持っているというのか。私が追い詰めたはずの盤面が、彼の介入によって、再び混沌に逆戻りする。
ドアの向こうから、警官の声が聞こえる。「失礼いたしました。上からの指示により、本件は一度、持ち帰らせていただきます」。足音が、遠ざかっていく。サイレンの音も、やがて消え失せた。
沙織は、その声を聞くと、信じられないといった様子で、ゆっくりとドアノブから手を離した。彼女の顔には、絶望と安堵、そして、私への強烈な憎悪が混じり合っていた。蓮もまた、窓の外を見つめ、何が起こったのか理解できないといった表情で、呆然と立ち尽くしていた。
私は、唇を噛み締めた。健太郎は、私が想像していたよりも、遥かに巨大な悪意の塊だった。彼の一時的な介入によって、私は最初の「顔面パンチ」を阻まれたのだ。しかし、私の心に、悔しさ以上に、この強大な敵を必ず打ち破るという、より強い決意が燃え上がった。
この戦いは、まだ始まったばかりだ。




