第14話 母の遺した「鍵」
冷え切った体を引きずり、私は無意識のうちにアークデザインのオフィスへと足を向けていた。母の魂が宿る場所へ。そこへ行けば、きっと、何かが見つかる。私を、この闇から救い出す、光が。
鍵を開け、薄暗いエントランスに足を踏み入れる。静まり返った室内には、重苦しい沈黙が横たわっていた。まるで、この会社の魂が、私と同じように打ち砕かれてしまったかのようだ。自分のデスクに座る気にもなれず、私は、母が使っていた一番奥の部屋へと向かった。芳美の部屋は、生前の面影そのままに保たれていた。使い込まれた製図板、色褪せたデザイン画、そして彼女が大切にしていたアンティークの地球儀。全てが、母の存在を雄弁に物語っていた。
私は、母がいつも座っていた革張りの椅子に、そっと腰を下ろした。冷たい革の感触が、私の体に僅かな痛みを与えた。私は、母が命懸けでこの会社を守ろうとした思いを、全身で感じ取ろうとした。
(お母さん……あなたが、私に残してくれたもの……)
私の視線は、部屋を見回した。壁に飾られた、母が手がけた数々の作品。その一つ一つに、母の情熱と、人々の生活を豊かにしたいという願いが込められていた。そして、私の目に留まったのは、母が生涯をかけて研究していた、とあるプロジェクトの初期スケッチ。抽象的で複雑な図形が描かれたそのデザイン画は、母がかつて私に語った言葉を、鮮明に思い出させた。
「美咲、この会社はね、ただのデザイン会社ではないの。未来を守るための、大切な鍵なのだから」
私は、その「鍵」が、母が残した遺品の中に隠されていると直感した。母は、どんなに小さな契約書でも隅々まで目を通し、決して安易な署名はしない慎重な人だった。沙織の裏切りを予見していたとすれば、必ず何か対策を講じているはずだ。私は、母の部屋の隅々を、まるで探偵のように探し始めた。
デスクの引き出し、本棚の裏、地球儀の底……。しかし、どこにもそれらしいものは見当たらない。私の焦燥が募る。もし、何も見つからなければ……。その不安が、私の心を締め付けた。
その時、私の視線が、使い込まれた製図板に落ちた。長年、母がその上でデザインを描き続けてきた、歴史の証のような製図板。その裏側に、僅かな歪みがあることに気づいた。私は、製図板を壁から外し、裏返す。すると、そこには、小さな木製の引き出しが隠されていた。
私の心臓が、激しく高鳴る。震える手で、その引き出しを開ける。中には、厳重に封印された、分厚い書類が収められていた。表紙には、見慣れない文字で『林芳美 家族信託基金設立に関する付帯書類』と記されている。そして、その下には、一通の短い手紙。母の直筆だ。
『美咲へ。もしこの書類をあなたが目にしているのなら、それは私が最も恐れていた事態が起きたということでしょう。沙織を、信じるな。この基金は、あなたを守り、アークデザイン、そして未来を守るための、私の最後の願いです。森本弁護士に連絡なさい。彼が、あなたの力になるでしょう』
母の手紙は、短く、しかし強い意志と、私への深い愛情に満ちていた。私は、母が、この裏切りを予見し、私を守るために、どれほどの知恵と労力を費やしたかを悟った。涙が、私の頬を伝う。それは、悲しみだけではない、母への感謝と、そして「必ず戦い抜く」という、強い決意の涙だった。
私の心に、冷たい復讐の炎が、静かに、しかし力強く燃え上がった。母が遺したこの「鍵」が、私をこの闇から救い出す、唯一の光となるだろう。私は、もう泣き崩れるだけの無力な令嬢ではない。母の言葉が、私の背中を押す。私は、戦う。この裏切られた全てに、私は反撃する。