第1話 華やかな婚約期間
私の人生は、まるで薄氷の上に咲いた一輪の花のようだった。眩いばかりに美しく、しかし、ほんの少しの熱で溶け去ってしまうような、危うい均衡の上に成り立っていたのだ。その脆さを、当時の私は知る由もなかった。それは、連城蓮との婚約が決まった、あの春の、穏やかな陽光が降り注ぐ日から始まった、完璧な幸福だった。
蓮との出会いは、まさに運命という言葉以外では表現できない、映画のような情景の中にあった。母、林芳美が遺した「アークデザイン」という小さな会社が、初めて大規模な企画発表会を催した日のこと。私はまだ、母の背中を追いかけることに精一杯の、世間知らずな駆け出しの経営者だった。慣れない大勢の来場者への挨拶に、喉は張り付き、手のひらにはじんわりと汗が滲んでいた。緊張で足元が覚束ず、笑顔が引きつっていくのが自分でも分かった。そんな私の隣に、そっと、まるで気配なく現れたのが蓮だった。
連城グループの御曹司――その名を聞けば、誰もが羨望と畏敬の眼差しを向ける、この国の経済界を牽引する名家の嫡男。彼の周囲には常に、煌びやかな人垣ができていた。しかし、彼の眼差しは、周囲のざわめきを遮断するように私を真っ直ぐに捉え、その声は、春の風のように私の耳元に届いた。
「林さん、お顔色が優れませんね。少し緊張されているように見えます。私も、このような場では昔はそうでした」
蓮の声は、低く、しかし驚くほど穏やかで、私の心の硬い氷を、瞬時に溶かしてしまうほどの温かさを持っていた。その微笑みは、まるで静かな湖面に月光が差し込むような、神秘的な魅力を湛えていた。あの瞬間、彼の存在が私の心の奥底に、静かに、しかし確かに刻み込まれたのを感じた。
それから、私たちはあっという間に恋に落ちた。蓮は、私にとって完璧な男性だった。どこまでも整った顔立ちに、知的な品格を纏う佇まい。どんな難題にも冷静に対処し、決して声を荒げることなく、常に私の意見に耳を傾けてくれた。彼の隣にいると、まるで世界中のどんな嵐も、私には届かないような気がした。彼の指先が、そっと私の頬を優しく撫でるたび、私はその幸福が永遠に続くものだと、疑う余地もなく信じることができたのだ。私の心の奥底に眠っていた不安の種は、彼の優しさに触れるたびに、まるで春の雪のように跡形もなく溶けていった。
プロポーズは、満開の桜並木の下だった。都心の喧騒から少し離れた、知る人ぞ知る美しい場所。薄紅色の花びらがはらはらと舞い散る中、彼は私の目の前で、ゆっくりと膝をついた。差し出された小さなベルベットの箱の中には、まるで白銀の星屑を閉じ込めたかのような、繊細な輝きを放つ婚約指輪が収められていた。
「美咲、僕の人生の全てを君に捧げたい。君と、これからの人生を、どんな時も共に歩んでいきたい」
その言葉と、彼が私を見つめる真摯な眼差しに、私の瞳からは、止めどなく涙が溢れ出した。それは、歓喜と、安堵と、そして彼への限りない愛情が混じり合った、温かい雫だった。まるで夢を見ているようだった。この完璧な幸福が、いつまでも続くのだろうか――ほんの一瞬、そんな漠然とした不安がよぎったが、すぐに蓮の確かな温もりが、その儚い影を打ち消した。彼の両腕に抱きしめられ、私は世界で一番幸せな人間だと、心から信じていた。
私の亡き母、林芳美は、生前「アークデザイン」という小さなデザイン会社を立ち上げ、数々の革新的なデザインを生み出した、まさに天才と呼ぶにふさわしい人物だった。彼女は、ただ美しいものを作るだけでなく、人々の生活を豊かにし、未来を創造するデザインこそが真の価値を持つと信じていた。私は母のその情熱と、誰にも真似できない独特の美学を深く尊敬し、彼女の魂が込められたこの会社を何としても守り、発展させたいと強く願っていた。蓮もまた、私の母の才能と、アークデザインの持つ独自性を深く理解し、私の夢を心から応援してくれた。
「君の夢は、僕の夢だ。どんな困難が待ち受けていようとも、二人で力を合わせれば、必ず乗り越えられる。僕が、君とアークデザインを支える」
彼の言葉は、まるで荒れる海に投じられた、揺るぎない錨のように、私の心をしっかりと支えてくれた。私は蓮と共に、このアークデザインを、そして二人の未来を、光り輝くものとして築き上げていけるのだと、疑いもなく信じていた。私たちの前には、どこまでも明るく、希望に満ちた道が無限に広がっているように見えた。
そう、あの時は。薄紅色の花びらが舞う、まるで永遠に続くかのような春の陽光の中で、私の世界は完璧に見えたのだ。しかし、その輝きの中に、すでに深い影が忍び寄っていたことなど、当時の無垢な私には知る由もなかったのである。