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大きな背中がある。
「棗、さっさと行け。走るんだ」
そのおおらかな感触にしばしまどろんでいた。
「あっち行けばいいのかな、それとも」
「外を目指すんだ。この際傷だらけでも逃げられれば御の字だ」
朝右衛門の声がする。
「ん……、朝右衛門?」
「気づきましたか、宮入殿」
大きな背中である。走る時の上下の揺れが私に安心感を与えた。
「ひどい有様です」
「そうなのね……。凄く、痛い……」
「鬼原と正面から殴り合ってしまえばそうもなります。とにかく逃げましょう」
「おろして、歩けるから」
私はまどろんでいるわけにはいかない。自分の力で出来る事はしなくては。
「危険です。歩けるんですか」
「ええ」
大丈夫、と言いたかったが、実際は大丈夫でもない。それでもどうにかしなくては。目が見づらい。出血が多いのか足はふらつく。
「ダメです大尉。朝右衛門、降ろすな」
降ろそうとした時、棗が口を挟んだ。
「歩けたからなんですか。今の大尉は私より弱いんです。足手纏いですよ」
「大丈夫、だってば」
「患者は傷医の言う事を聞きなさい。大丈夫じゃないから言っているんです。朝右衛門、こっちだ」
「棗」
懇願してどうにかなるならいくらでもしたい。私は足手纏いになるのが嫌だった。どうせなら見捨ててくれてもいい。鬼原に殺されたって別に良かった。私は部下を殺し、自分だけ生き残った情けない貴族将校に過ぎないのだ。
だからと言って、鬼原の案に賛成するのはどうしても無理だった。殺されるか、鬼原に賛同するかなら前者を取るしかない。
私は一応歴史が好きだ。自分の家の歴史だって学んだし、学校で習う範囲を超えて学んでいる自覚がある。
そしてその中で、鬼原の先駆者とも言える政策をとった国や君主は何人かいた。
そんな国や君主の末路は悲惨なものだ。残酷なまでに苛烈な政策をとった彼らは誰にも同情されない最期を遂げていた。確かに民族浄化に成功した場合もあるし、それが歴史上に全くないわけではない。
しかしそれは相手が少数民族だったり、技術の差が相当に離れている場合に限られる。この場合の技術の差というのは相手が槍や石を使っている際に、こちらはライフルと機関銃で武装しているような圧倒的な例だ。
扇はそのどちらでもない。徴兵制をとっていて圧倒的な兵力があるし、それを終えた者は予備役として市井で生活する。何より大八洲より桁がひとつ違うほど大勢の領民がいる。この時点で過去の成功例にひとつも合致しない。
幻術でどうにかすればいい? 亜人には圧倒的な力がある?
鬼原はきっとそれに縋ることになるだろう。だけれどそれが本当だったとすれば、彼女の親や先祖はまだ大陸にいるはずだった。幻術や拐かしでどうにかならないから大八洲に根を張っているのである。
「いざとなればあなたたちだけ逃げなさい」
「大尉。そんな事は言わないでください」
棗が言った。
「今更ですよ。あなたを投げ捨てても生き残れるか分かりませんからね」
「確率は上がる」
「二割が四割にでもなると?」
実際はそれより跳ね上がるだろう。棗には朝右衛門がいる。私にも朝右衛門がいる。だけど朝右衛門には誰もいない。この状況下で一番の足手纏いは私なのだ。
「おい、棗」
「こっちです。風はここから来てる……」
「分かるの?」
私が口を挟む。棗は何も返さずそのまま風の方らしき場所に向かっていた。
屋敷の赤が消える。庭の緑がひどく眩しく見えた。
「外だ……! 外ですよ。もう少しです!」
棗が外に向かう。私を担いだ朝右衛門も続いた。
棗が門に向かおうと庭に足を踏み入れた。その時だ。
鈍い音がして棗が吹き飛んだ。ゴロゴロと庭を転がり、最後には身体を伸ばしたかのようになる。
「あ……?」
緑に目を奪われていたのかもしれない。あるいは私たちが最後の最後、詰めを誤ったのかもしれない。
「朝右衛門‼︎」
庭には銀髪の鬼がいた。
「銀次……! 本当に、本当にしつこい奴だ!」
朝右衛門の顔。背中に背負われている私には彼女の顔など見えないがひどく顰めているのは分かった。
「俺とお前の決着がまだついていないぞ!」
「今取り込み中だ!」
「お前はいつもそうだ! だから逃がさん! 俺とお前が死ぬまでやるぞ!」
大笑いした銀次が飛びかかる。背中に私がいたせいか朝右衛門は銀次をかわせなかった。
鈍い音がした。
銀次の刀。それは朝右衛門のものだった。
「グア……ッ」
必死で足を踏ん張る朝右衛門。私を庇ったのだ。
彼女の鮮血は首筋の側から噴き上がっていた。
「はは、ははは! 流石に俺を舐めすぎだ! 人を守るなど死刑執行人として言語道断!」
「黙れ、銀次……!」
「お前は人殺しだろうが! さあ、今度はお前の番だ!」
「うるさい、くそ……」
顔に彼女の血がかかる。私の視界は赤く染まっていた。朝右衛門は私を降ろす。
「申し訳ない、伯爵殿。私の血が」
「あ、朝右衛門……、大丈夫?」
大丈夫なわけがない。血液が流れ出ていて、彼女の目がふわついている。私は口を開け閉めするしかできなかった。
「大丈、夫、です。この程度——」
「さあ、お前の番だぞ!」
銀次の大声が彼女のかすかな声をかき消す。
「う、うるさいっ! 黙りなさい下郎が!」
私が負けじとだした声に、銀次が呆けた顔をした。




