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「かはっ……」
「まだまだこんなモンじゃねえよな」
私は慌てて距離をとった。これ以上痛みが続けば壊れてしまう。
「ゴキブリかよ」
「はっ……! はっ……!」
広い部屋だ。だから自分の後ろを守る壁がない。
「逃げ回るのは勇武の宮入家の恥じゃねえのか?」
「……」
私が彼女を睨め付ける。武器はない。朝右衛門はいない。私は一人だ。
「いいね。目が死んでない」
「近衛軍、宮入大尉を舐めるな」
「ははっ。オウ、名乗りか。いいじゃねえか。じゃ、改めて」
鬼原が二回、三回と軽くステップを踏み、身体の力を抜いた。
「蛮州三棟梁が一人。博徒頭、鬼原恵。参る」
「お前はいつもそうだ。こまっしゃくれて余裕かまして最後にバレる。情けないやつだ」
「い、言うじゃないか、一応お礼は言っておいてやるよ」
「もっとお礼を言え」
追手に捕まっていた棗は情けなく命乞いをしていた。両手をあげ、ずれかけたメガネをどうにか戻そうとしていた。
私はその追手たちを殴り飛ばした。
「早く行くぞ」
「どこに?」
追手たちに追い討ちをかけようとしていた(蹴り飛ばそうとするところを止めたが)棗はすでに涙はない。
「鬼原の屋敷だ」
「また戻るの……? やだなあ」
「あいつは幻術で博徒を統べた女だぞ。伯爵殿が危ない」
「幻術、か。煙管の煙で惑わす」
「そうだ。お前を振り切るほどの何かを伯爵殿は見たんだ」
「……行こう、朝右衛門」
棗が走り出す。
「お前が行く必要はないぞ。早く逃げておけ。怖いんだろ?」
追っかけながら私は言った。
「ああ、怖いよ……」
小さな身体を必死で動かし、棗は走る。
「でも、私は従者だよ。伯爵殿の従者」
「今限りだろう?」
「そうかもね。だけど、結構居心地いいんだ」
「うちよりもか?」
遅い。追い抜かしてしまいそうだ。
「そうだね。いずれ伯爵殿になられたら本当に従者にしてもらえるかも。そうなれば宮入家に就職かな」
「そうか」
私は棗を担ぎ上げた。
「わっ」
「お前は遅い。私が担いだ方が早いさ」
「……小さくて失礼したね」
「それに伯爵殿が怪我しているかもしれん。傷医が必要だ。さ、行くぞ。銀次が来れば厄介だ」
「お前は知っているか?」
「何を?」
担いで向かう道中、追っ手は来ていない。私は棗に聞いた。
「もし伯爵殿が幻術を使われていたら何を見せると思う?」
「分からないけど……、どうだろうね、私なら怖いものを見せられるかも」
「そうだ。幻術というのは大体怖いものだ。掴みどころがないから恐ろしい」
「大尉殿にあるのかなあ」
「分からんのか?」
「機関銃より怖いものがあるなら。そんなものは大砲くらいになるのかな。でも、傍目で見る大砲だなんて怖くもないよ。むしろかっこいい」
「お前ならなんだ?」
「言わないよ。朝右衛門は」
「私も言わない」
話しているうちに屋敷が見えてくる。朱塗りの門には当然のように門番がいた。
「止まれ!」
門番の手には槍があった。最低限の矛を持つ事で、客人を守る役目を持っていることを見せつける。それだけの存在だ。
「何者か!」
「狐珠朝右衛門。そこを退け、門番」
「そう言われて引き下がる門番がいると思うか!」
担いでいた棗を下ろした。
「乱暴に持ってからに。私は米俵じゃないんだぞ」
「腕が疲れる」
「重いってことかい!」
噛みつきそうになる棗を無視し、門番たちに向かう。
「怪我するぞ」
「ふざけるな、帰れ!」
「通さんのだな」
二人組の門番は扇のものらしき赤の着物を来ていた。動きやすそうで羨ましい。外にいるのは少し寒いだろうが、いざという時動けば良いだろうから。
「なら仕方ない。少し眠ってもらうぞ」
片手を覆い、ぼきぼきと鳴らす。刀は投げてしまった。私にある武器など、この拳しかない。
「——おいっ、誰か呼べ!」
門番が言った言葉はそれが最後だった。飛び込むように、彼の顔に拳を突き刺す。
「がっ」
振り抜いた拳の奥に、もう一人の門番。こちらは怯え切っていた。心が痛む。
殺すわけじゃない。そう自分に言い聞かせた。
「げっ」
腹に膝を入れた。それだけで悶絶する。
「お見事」
「嬉しくないな」
本音だ。暴力的だと思われるのも嫌だ。
「おかわりが来る前に行くぞ」
「了解、少尉殿」
「お前もだろう。そこの長物でも持っておけ」
私は門番の槍を持つ。ずしりときた。もう一本は棗に渡す。
「従者長に習ったろ?」
「何年も前なんだよ」
棗は情けなさそうに言った。
「行くぞ」
笛の音が聞こえる。異常事態を知らせるものだろうか。
細く甲高い笛の音が聞こえる。私は霞む視界で背中を床につけていた。
元々目は見えづらくなっていたのにようやく気づく。当たり前のようになっていたが、そろそろメガネを作る必要があるのかもしれない。
「オウ、やるじゃねえか。結構苦戦したぜ」
「……ぐ」
叩きつけられ、蹴り飛ばされ、壁に打ち付けられた。身体中が痛い。咳き込む。血が混じっているのが見えた。
「さすが英雄の大尉殿だ。そんなやつを殴れる機会ってのも、そう無いことだからな」
大きな身体をまげ、私の顔を覗き込む。
「強情張る必要もねえぜ。なあ」
「うるっ、さい」
「へっ」
莫迦にするように笑い、首を掴まれる。そのまま掲げられ、食い込んだ指が私の気道を締め上げる。
「があっ、ぎっ」
「もっと色気のある悲鳴をあげてくれよ。いや、これがいいか? へへ、なかなかいい感じだ」
「はなっ、せ」
私の指は鬼原のそれに比べて頼りない細さしかなかった。引き剥がそうにも非力すぎ、戦闘するのにはあまりに華奢だ。
そうだ、この指。
私の指し示した方向に部下は行った。
彼らは彼女らを殺したのは私だ。それは指を介して行われた。
もし戻れるのなら、一人か二人、どうにかこの指で引っ張り上げれないものか。
口から泡が漏れ出、視界はまた歪む。
足をばたつかせ、鬼原の腕や手をめちゃくちゃに叩きつけるが、蚊が刺したほども感じないようだった。鬼原の整った顔は口角を異様にあげ——。
「シャアッ!」
掛け声と共に、私を床に叩きつける。
「ご……っ!」
「良い顔だ……。すっげえ。最高に楽しいぜ、伯爵様。最高だ。てめえは生かしておかなきゃならねえっての、忘れそうになるぜ」
「がぶっ……っげ」
息ができない。首を絞められる。その気になればあっさりと絞め落とせるのに、ジリジリと一番苦しいところを続けている。
言葉も出ない。ただ息をするだけの音が口から出るだけ。
両手で掴んでも包みきれないほど鬼原の腕は太く、大木が突き刺さったみたいで。
「先頭にあんたが立ってくれないとダメなんだよな。ああ、私たちの国だ。もう少しで現実になる」
うっとりとした鬼原の顔が目の前にある。私がさっきから朦朧としながらも腕を殴ったり引き剥がそうとしているのなんか、意にも介してないようだった。




