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「は……」
私は目を疑う。さっきまでいた大柄な銀次が岩屋の奥まで転がっていた。
「伯爵殿! 無事ですか!」
その代わりに私の前にいたのは。
「あ、朝右衛門?」
「ええ。離れていてください!」
私は咄嗟に格子から離れる。何かが煌いた。そう思った途端に、格子が落ちる。
「え」
カターン、と間抜けな音がした。
「さあ行きましょう! 急いで!」
私は言われるがままだ。聞きたいことは山ほどある。だけど、そんなことをしている暇はない。私は棗を担ぎ、四角の入り口となった格子から抜け出す。
「走って!」
朝右衛門が後ろにいる。私は岩屋、そのかすかな灯に向けて走り出した。
「朝右衛門! よく来てくれたな! 死ね!」
後ろから銃弾が飛んでくる。銀次の声が響く。
「銀次か……! 厄介だ!」
「お前と俺! どちらが強いんだ⁉︎」
「やかましい! 後だ後!」
岩屋中に響く声で、何が起きたかバレてしまうだろう。私は焦りながら灯りを目指す。それは通路にある燭台だ。それより、遠くにある丸みのある光。そこが出口だ。足元に気をつける。耳元に銃弾の通る音がした。
「な、な、何が起きているんです! 大尉!」
棗の声がした。私は一度降ろす。そして彼女にビンタを食わせた。何が起きているのかわからない彼女は、目を白黒させていた。
私は、出来得る限りの大きな声を出した。
「棗少尉! 目標あの光! 吶喊! 続け!」
光はどんどんと近づいてくる。私の後ろからは常に銃弾が飛来していた。棗の息がうるさい。
殿には狐珠朝右衛門がいる。なぜだかそれは凄く安心した。
「やだっ、もうやだっ、たす、助け」
「うるさい、走れっ!」
「伯爵殿、もっと早く!」
また銃声。岩屋の壁を貫き、瓦礫が落ちる。
「跳弾に注意して!」
朝右衛門の声だ。私はどうにか岩屋の入り口まで辿り着いた。後ろには棗。瓦礫で怪我したのか、それとも擦り傷か、腕から血が出ている。
「朝右衛門! 早く!」
「只今参ります!」
朝右衛門が出てくる。後ろには銀次が見えた。
「朝右衛門! 逃げるか!」
銀次の声が聞こえる。ライフルさえあれば間違いなく当たる。向こうは弾切れなのか、銃剣をつけ——。
「朝右衛門! 待てぇっ!」
朝右衛門の足元にライフルが突き刺さった。
「……では、逃げましょう」
すぐさま背を翻し、朝右衛門は岩谷から離れ、すぐそばにあった森に逃げ込んでいた。私と棗はそれに従うしかない。
「そ、そうね、に、逃げないとね」
息ひとつつかない朝右衛門に比べ、私はようやく呼吸するのが精一杯だった。棗に至ってはへこたれそうになっている。
「ここから離れなければなりません、伯爵殿。ここは鬼原の土地。正直奴らから逃げるのは骨です」
「……どうするつもり?」
「……」
案は無し、と言うことか。あの状況から逃げ出せただけでも御の字なのだ。ここからどうするか、までは考えられない。
「棗、大丈夫?」
「……そんなふうに見えますか」
「大丈夫そうね。よかった」
「もう歩けません」
「その言葉が出るなら大丈夫。まだ保つ」
私からすれば楽勝だ。棗は泣きそうになっていたが、それすら余裕に見える。
「朝右衛門、担いで」
「私は伯爵殿を守らにゃならん。無理だ」
「そんな……」
「生きたけりゃ死ぬ気で歩け。狐族は幻術も使える。鬼原家に捕まれば命はないぞ」
「うう」
へこたれ、膝をついていた棗はどうにか起き上がる。羨ましい。私だってそうしたい。
「早く森を抜けましょう。幻術を使うにはこれ以上ありません……、辛いですか?」
「全然、この程度なら大丈夫よ」
「そうですか。では気休めですが、これを」
朝右衛門が手渡したのはライフルだった。さっき投げつけられたもので、銃剣には土がついていた。
「よく持ってきたわね」
朝右衛門は苦笑いをした。
「銀次には不釣り合いなものです。あいつには似合わない」
「知り合いね」
「腐れ縁ですよ……道場にいた頃が懐かしいな」
同門、なのだろう。薄暗い森でよく見えないが、彼女の瞳に浮かんでたのは懐かしさだろうと思った。
夜の闇、木の葉が星灯りを隠してしまう森の暗さは想像以上だった。私には何も見えない。暗闇だけが目の前にあり、何か間違えば瞼を閉じているのではとすら思える。
「伯爵殿、絶対私の裾を離してはなりませんよ」
「分かってる……っ」
怖さのあまり、手に力が入ってしまう。朝右衛門こそ大丈夫だろうか。引っ張りすぎて転けたらそれこそ一大事だが、彼女の体幹の強さは私程度が引っ張っても揺らがない。
「一番後ろも気にしてくれ」
背中から棗の声がした。
「棗、お前は夜目が効くんだ。しっかり周りを見渡せ」
「分かってるって……私が一番大変なんだ。後ろから縛られたら終いだよ。だから常に喋っておく」
「伯爵殿の耳に埃を詰め込むんじゃない」
「そんなこと言うなよ」
「場所がバレるだろう。静かにしろ、静かにするんだ……」
夜の闇がこんなに恐ろしいものとは思わなかった。松明だって使えない。人質が逃げたというのはすでにバレているはずだ。当然追手はこちらに向かっている。
サクサクと進む朝右衛門も焦っているようだった。早く早くと焦り、私の手が汗で滑る。置いていかれればそれまでだ。私は朝までこの闇に耐えなければならない。
一人で、この闇に。
「大尉殿、中隊長殿」
私は振り向いた。耳元で囁いた声。
「な、棗っ」
「は、はっ?」
後ろに声をかける。棗の顔は見えない。なのに。
何かが見えた。暗闇の中に。
「大尉殿」
私の耳、変になったのか?
両耳から聞こえる声。それは私を慕った小隊長、私を情けない妹のように取り扱った下士官に似ていた。
「中隊長殿」




