前の世界
茜と居酒屋で向かい合って座るのは、本当に久しぶりだった。
ビールのジョッキを片手に、互いに近況を語り合う。アナウンサーとしてテレビに出ている彼女はやっぱり華やかで、私の会社員生活とはまるで違う。だけど、話しているとすぐに大学時代の距離感に戻れた。
ひとしきり笑ったあと、私はグラスをテーブルに置いて、思い切って切り出した。
「……茜、ちょっと真面目な話していい?」
「なに、改まって」
彼女が首を傾げる。私は少しだけ息を整えた。
「私ね……まだ、この世界の“常識”に馴染めてないんだ」
「え?」
驚いたように目を丸くする茜に、私は続ける。
「みんな普通にその場でしてるでしょ。でも、私……どうしても恥ずかしくて。今でもトイレでしてるの。……この前、自宅で我慢しきれずに失禁しちゃってから、気が付いたら世界の常識が変わってて……」
そこまで言ったときだった。
茜の顔がパッと明るくなった。
「――あ、やっぱり! 彩もそうなんだ!」
「え?」
思わず間抜けな声を漏らす。
茜は笑いながら、しかし目だけは真剣に私を見つめていた。
「私もね、知ってるの。前の世界を」
……。
頭の中が真っ白になった。
今まで、楓や萌、会社の人たちにどれだけ聞いても、誰も“前の世界”を覚えていなかった。失禁が当たり前じゃなかった頃のことを、誰ひとりとして。
だから私はてっきり――自分だけが特別なのだと思っていた。
「……嘘でしょ。茜も、あの頃のこと……覚えてるの?」
「うん。ちゃんと覚えてるよ。みんなトイレでしてた頃のことも、授業中に我慢してトイレに駆け込んでた自分のことも。全部」
その瞬間、心臓が大きく跳ねた。
やっと、やっと同じ記憶を持つ人に会えた。




