常識のずれ
翌日、私は楓と萌とランチをしていた。昨日の美容室での出来事が、どうしても気になって仕方がなかったからだ。
「ねえ、昨日美容室に行ったんだけどさ……担当の人、我慢してたのに、その場ではしなかったんだよね。入口のところまで走ってって。あれってなんで?」
私の問いに、楓が首をかしげつつ答えた。
「え、それ普通じゃないですか? 美容室でその場でするとか、さすがにないです」
「そうそう」萌も続ける。
「髪に尿がしみこんだら掃除が大変ですし、下にこぼれたらハサミを持ってる美容師さんが滑って転んだりするかもしれないじゃないですか。もしお客さんにぶつかったら危ないですし」
なるほど……言われてみればそうだ。
「じゃあ、やっちゃいけない場所って他にもあるの?」
「配線が多いところですね」楓が即答した。
「ショートしたら大惨事になっちゃいますから」
萌も頷く。
「だから、みんな職場でも廊下とか、配線が少ない場所でしてますよね」
ああ……そういえば。確かに、なんとなく集まって“水音が響く”のは、決まって廊下の角や会議室の後ろだった。言われるまで気づかなかったけど、無意識にみんな危険を避けていたのか。
私はさらに尋ねた。
「でも、テレビに映る人ってどうしてるの? 生放送中とか……」
萌がすぐに答えた。
「映ってるときにはしないですよ。収録だと失禁シーンは基本カットされますし。だから番組によっては、急にズボンとかスカートの色が変わってることありますけどね」
楓がクスクス笑いながら付け足す。
「生放送のときも、休憩中とかCM中にしてるんだと思います。だって、わざわざ放送しませんよ。うんちのときにトイレ行く映像をそのまま流さないのと同じで」
「なるほど……」私は頷いた。
失禁は当たり前。だけど、マナー違反はある。バラエティ番組なんかではあえてネタにしたり、たまに生放送中のハプニングもあるらしいけど……感覚としては、居眠りとかゲップみたいなものなんだろう。
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その夜、私は家に帰り、テレビをつけた。
ちょうど生放送の歌番組をやっていて、女性アナウンサーが司会を務めていた。
テレビに映っているアナウンサーは、私の大学時代の同級生――茜だった。
茜は大学のミスコンで優勝したくらいの美人で、いつも周囲に人が集まっていた。華やかで堂々としているのに、友達には気さくで。私も仲が良かったから、卒業してからも半年に一度くらいは会っていた。
「頑張ってるなぁ……」
画面越しに、私は思わずつぶやく。生放送の歌番組で、大勢の歌手やタレントを相手に軽快に進行している姿は、昔からの友達として誇らしかった。
……でも。
「あれ?」
気づいてしまった。
立ち姿は凛としているのに、その膝の角度がわずかに内側に寄っている。片足からもう片足へ、体重を移し替える間隔が不自然に短い。笑顔を作っていても、目の奥が一瞬だけ曇るのを私は見逃さなかった。
そう――これは、茜が“我慢している”ときの仕草だ。
大学時代、授業が終わった途端にトイレへ駆け込んでいく姿を、私は何度も目撃してきた。本人は「なんか我慢しちゃうんだよねー」なんて笑っていたけれど……その癖は今も健在らしい。
私は息を呑んで画面を凝視した。
茜は台本を片手に笑顔で歌手にコメントを振っている。だが、左手の指先がマイクの下で震えていた。目線を切り替えるとき、まつげがかすかに伏せられる。胸の上下がほんの少し速くなっているのが分かる。
「やっぱり……」
思わずつぶやく。私はもう完全に確信していた。
そして――それから十五分後。
カメラが茜を正面から抜いたとき、彼女の太ももが小刻みに震えていた。足首はきゅっと寄せ合わされ、かかとがわずかに浮いている。笑顔の口角の裏で、唇の端が硬く結ばれていた。
その瞬間――。
マイクを持つ腕がピクリと揺れ、彼女の表情にほんの一瞬だけ影が走った。
次の瞬間、スカートの内側から微かに「じょぉ……」という音がマイクに拾われたように私には聞こえた。茜の足元に視線が落ちる。
……生放送中に、茜は耐え切れず失禁していた。
彼女はすぐに笑みを取り戻した。プロのアナウンサーらしく、声を乱さず進行を続ける。だがカメラは数秒で彼女から切り替わり、ゲスト歌手のアップに移った。
画面の端に映ったのは、茜の赤らんだ頬。
笑顔のまま――でも、その表情を、私は見逃さなかった。




