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代償

朝のラッシュ。

会社の最寄り駅で、偶然楓と出会った。


「おはようございます、彩先輩!」

「おはよう、楓ちゃん。一緒に行こうか」


まだ涼しい朝の空気の中、二人並んで会社へと向かう。

歩道の人の波に混じりながら、彩は昨日のことを思い返していた。羞恥心の伝染が弱まりつつあること――。その不安はまだ胸に残っていた。


すると、前方の横断歩道で、にぎやかな声が耳に入った。

「あっ、漏れた~!」


振り向いた瞬間、片方の若い女性が灰色のデニムをじわじわ濡らしていくのが見えた。

布地を伝うくぐもった音が人混みにまぎれて響く。


その横ではもう一人が、必死にスカートを押さえていた。

「やばい、私も限界!」

叫ぶと同時に、膝上までのワンピースをばっとめくり上げ、下に履いた白いパンツが信号待ちの人々の前にさらされる。


次の瞬間、透明な流れが一気に落ちていった。

ぱしゃぱしゃとアスファルトに跳ね、白い布地が濃い色に染まっていく。


「今まで私も、ああやっておもらししていたなんて……考えられないです……」

楓の声は小さく震えていた。信号待ちの女性たちが堂々と失禁する姿は、もう彼女にとっては“普通”ではなかった。


「そうだね……」と彩が答えたその時、ふと視線を前にやる。

「あ、あそこでも……」


歩道の端に立つパンツスーツの女性が、膝をすぼめたまま太ももを濡らしていた。スーツの布が暗く広がり、靴にまで流れが滴る。


「……あれ? あの人、萌じゃないですか?」

楓が声を上げる。


「えっ、ほんとに?」

慌てて彩と楓は駆け寄った。


「萌、大丈夫?」

彩が肩に手を置くと、萌はきょとんとした顔をしてこちらを見た。


「え……?あ、彩先輩、楓ちゃん。大丈夫ですよ」

淡々と答えるその表情は、昨日までの彼女とは違って見えた。


「やっぱりお漏らしって普通ですよね? なんでここ最近、私……恥ずかしかったんでしょう」

言葉を続ける萌の瞳には、不思議そうな光が宿っていた。


「……え?」

彩と楓は同時に息を呑んだ。


――萌に芽生えた羞恥心が、消えている?


胸の奥にぞくりとした不安が広がっていった。


ーーーーーーーーーーーーーーーー


オフィスに到着すると、私の胸に広がっていた悪い予感は的中していた。

昨日まで、佐伯先輩から伝わった羞恥心を持っていた人たちの姿はもうなかった。

そこに広がっていたのは、以前と同じ光景。


デスクに腰かけたまま、書類に目を落としながらズボンを濡らす同僚。

廊下の隅で電話を取りながら、ストッキングをつたうように尿を垂らす女性。

「いつも通り」とでも言わんばかりに、朝から我慢していた人たちが一斉に解放していた。


「彩ちゃん、楓ちゃん!」

美咲が駆け寄ってくる。その表情は焦りで固まっていた。

「どういうこと……?昨日まで、あんなに伝わってたのに」


私は唇をかみ、楓は視線を泳がせた。

佐伯先輩の姿がまだ見えない。――先輩が知ったら、きっとショックを受けるだろう。

あんなに勇気を出して恥ずかしい思いをしたのに。


10分後。

オフィスのドアが開き、佐伯先輩が出勤してきた。

私は美咲、楓と顔を見合わせ、思わず彼女の元へ駆け寄る。


「あの、先輩……」

気まずそうに声をかけると、佐伯先輩は静かに答えた。


「……私も話があるんだ」


「それって……」と口を開きかけた瞬間、始業のチャイムが鳴った。

「また後で」

そう言って席に戻る佐伯先輩の表情は、どこかぎこちなく、しかし決意めいた硬さがあった。


朝の会議が始まってしばらく。

部屋の中に、不意に「しゅう……」という水音が響いた。


反射的に目を向ける。

そこにいたのは――佐伯先輩。


彼女のグレーのパンツがじわじわと暗く染まり、椅子の下に小さな水たまりを作っていく。

しかし、その顔は。


――平然としていた。


思わず息を呑む。

羞恥心に震えていたあの人が、なぜ。


「……先輩……?」


その姿は、まるで昨日までの佐伯先輩ではなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーー


会議が終わり、ざわめきの中で席を立った佐伯先輩に、駆け寄った。

「せ、先輩……!」

私は声を震わせる。


「……大丈夫ですか?今の……」美咲が言いかけた時、佐伯先輩はふっと息を吐き、静かに言葉を紡いだ。


「……ごめんね。実はね、私……もう、なぜ昨日まであんなに恥ずかしかったのか分からないの」


「えっ……」


表情が固まる。


佐伯先輩は続けた。

「今朝も会社に来る途中、思い返してみたんだ。あの日、街中で泣きそうになりながら失禁したときのことを。でも……思い出せば思い出すほど、あの羞恥心が嘘みたいに感じて。今日も会議で我慢してみたけど、結局……普通に、こうしてしまった」


そう言って佐伯先輩は自分の濡れたグレーのパンツを一瞥した。

そこに羞恥の色はなく、ただ淡々とした顔があるだけだった。


「……まさか」楓が呟く。

「萌さんと……同じ……?」


「そう。あの子と同じ。『なんで恥ずかしかったんだろう』って、不思議に思うだけ。今はもう、羞恥心なんて――ない」


胸がざわつくのを感じた。

羞恥心は伝染し、そして消える。



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