沈まぬ者たち
本日もよろしくお願いします
【1】三笠レン:断絶の屋上にて
風が吹いていた。泡の中でも、風はまだ、生きていた。
研究棟の屋上に立つレンは、遥か地平に広がる白濁の“泡膜”を見下ろしていた。
都市全体が、海のようにうねる記憶の層に沈みかけていた。
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(この現象は、もはや観測対象ではない。記憶の主権を問う、意志との戦いだ)
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彼の横には、カエデがいた。制御デバイスを腕に装着し、静かにデータを見つめていた。
「このままだと、泡は48分後に大気上層へ拡張する。
そのとき、地球の“記憶基準座標”が書き換えられるわ」
「記憶基準……つまり、“人間という定義”そのものが?」
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カエデは頷いた。
「泡は、忘却と統合を繰り返す。
でも人間は、“忘れたくないもの”にしがみついて生きてる。
それが、泡にとってはエラーなの」
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「なら、僕たちがしなければならないのは、“エラー”であり続けることだ」
レンは、そう答えた。
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【2】蒔田カエデ:制御中枢
カエデは深層インフラ制御室へ戻ると、端末に直接アクセスした。
彼女の目の前には、かつて自身が組み込んだ記憶継承モジュールの回路図が拡がっていた。
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<< MELT_CORE PhaseC:全系拡張作動中 >>
<< 記憶統合率:79.1% >>
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「もし“記憶”が海なら、私はどの泡の中で息をしていたのかしら」
彼女の記憶には、姉の最後の声が残っていた。
「忘れていいよ。でも、残してくれたら、嬉しいな」
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彼女は震える指で、オーバーライドコードを入力した。
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<< コア信号分離処理:開始 >>
<< 人間系記憶バッファ:強制優先設定 >>
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次の瞬間、制御ルームの照明が激しく明滅し、泡膜の広がりが一瞬だけ止まった。
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(“誰の記憶が正しいか”ではなく、“誰と生きたか”が意味を持つように)
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その意志だけを、カエデはコアに刻みつけた。
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【3】一色アマネ:泡の縁で
ユウトの手は温かかった。彼の意識が完全に戻った今も、泡は二人を包んでいた。
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「聞こえる? 私の声、今はちゃんと、あなたの中にある?」
「うん……聞こえる。でもそれだけじゃない。
誰かの記憶が、ずっとここにあった。
“ありがとう”って、言ってる」
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アマネは涙をこらえきれなかった。
これはただの“医療”でも“観測”でもない。繋がりだった。
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モニターには、再び警告が点灯する。
<< 非選択記憶群:再構築開始 >>
<< 統合中断:識別エラー >>
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「アマネさん……誰かが、泡の中で目を覚ましかけてる」
「誰?」
「……“神様”を見た、って言ってた。たぶん、忘れられたままだった人」
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泡の向こうに、微かに映る“影”。
かつてこの島で亡くなった、記録にない被験者か、あるいは——
記憶のなかで名前すら失われた、存在の断片。
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「もしかしたら、僕が“代わりに生きてる”のかも。
でも……その記憶は、今、僕の中で生きてる。
だから、もう忘れないよ」
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泡が逆巻き始めた。
沈むはずだった泡が、浮かび上がっていく。
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<< 統合率:降下中(67.8%)>>
<< 統合干渉対象:ユウト/アマネ/レン/カエデ >>
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記憶は、再び“人間の手”に戻り始めていた。
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外では、レンの声が響いた。
「カエデ、ユウト、アマネ——君たちは、まだこの島の記憶を持ってる。
だったら、この島はまだ“沈まない”。」
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その言葉とともに、泡膜が一度、強く脈動した。
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制御室にて、カエデが呟く。
「見て、コアが……次の候補を示してきたわ」
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モニターに浮かぶ文字。
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<< 記憶再統合候補:No.000──“ユリ” >>
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カエデは目を閉じた。
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「ありがとう……まだ、あなたは私の中にいたんだね」
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ユウトが最後に呟いた。
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「泡の神様は、忘れることの神じゃなかった。
思い出すことの、神様だったんだ」