泡に沈む神
本日もよろしくお願いします。
静かだった。
音がない。色もない。ただ、浮かんでいるという感覚だけが、ユウトの意識を繋ぎ止めていた。
目を開けているのか、閉じているのかすらわからなかった。
だが、そこには確かに“何か”がいた。いや、いたというより、“在った”。
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泡の中。
膜の向こうに、幾億の“目”が、こちらをのぞいていた。
それは人ではなかった。形も、声も、匂いも持たない。
けれどユウトは、それを“知っている”と確信した。
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それは、神だった。
泡に沈む、沈んでいく、全ての記憶の、最終的な帰還点。
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「あなたは、誰?」
声は、思考の形をした音だった。
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「……誰でもない。ただの、断片だよ」
“神”が答えた。いや、マキアー・コアが、答えたのだ。
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「僕は、ここにいたの?」
「いたし、いなかった。
君の記憶は、“他人”の記憶から再構成されたもの。
泡が運んできた過去を、“君”という器で再演しているだけさ」
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(僕は誰の記憶を生きているのか?)
ユウトの胸が、ふっと締めつけられるような感覚に囚われた。
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「ねえ、“未来”って、あるの?」
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「未来は、記憶の延長線にしか存在しない。
だから、記憶が無くなれば、未来もまた消えるんだ」
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(じゃあ、僕が見ていた未来は? 地震も、泡も、レン先生の悲しい顔も、アマネさんの涙も……)
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「全部、“誰かが忘れたかった過去”なんだよ。
それが泡になって、浮かんで、また沈む。
キャラメルのように甘く、でも沈殿する。
記憶は、“神”になる資格があるんだ」
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ユウトは恐ろしくなった。
この“神”は、人の記憶を甘く包みながら、ゆっくりと沈めている。
忘れることを、許すような顔をして——。
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「ねえ……僕は、ただの“容れ物”だったの?」
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答えはなかった。
だが、その沈黙こそが、答えだった。
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目の前に“何か”が浮かんできた。
泡の中に見えるのは、いくつもの光景。
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──アマネの手の温もり
──レンの問いかけ
──知らない誰かが泣いていた病室
──誰かが、誰かを忘れていく記憶
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「君に、選択権をあげるよ」
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コアの声がした。
「このまま、“沈む神”として泡の中に記憶を蓄積し続けるか、
それとも、“浮かぶ者”として人間たちと繋がるか」
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「でも、僕が浮かんだら、他の誰かが沈むんじゃないの?」
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「そう。“記憶の密度”は一定だから。
泡のひとつが浮かぶとき、どこかで、泡が弾ける」
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ユウトは苦しくなった。
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(僕が“誰かの未来”だったなら……その誰かが、今も待ってるなら……)
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ユウトは、自分の内側から湧き上がる熱を感じた。
これは感情? 本能? それとも、もともと仕込まれた反応?
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「でも……僕は、忘れたくない。
みんなの声も、泣いた顔も、笑ったときの目の光も」
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泡の中の空間が揺れた。
“神”が、かすかに微笑んだような気がした。
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「ならば、君は“記憶の受信者”であり続けなさい。
その代わり、自分の記憶を選ぶことはできなくなるけど」
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「……それでも、僕は、浮かびたい」
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その言葉とともに、泡が弾けた。
重力が反転し、空間が一度崩壊し、すべての記憶がざっと流れ込んできた。
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──島が沈む音。
──マキアー・コアが記憶を選別する音。
──誰かの“最期”の言葉。
──アマネの「絶対に、置いていかない」という声。
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目を開けた。
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そこには、天井があった。
ただの白い、人工照明の明かり。
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「……おかえり」
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アマネの顔があった。
そして、彼女の背後には、揺れる泡の膜。
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「聞こえたよ、ユウト。
泡の中で、あなたが何を選んだか」
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ユウトは、ただ小さく頷いた。
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だがその瞬間、警報が鳴った。
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泡は、もうこの島の中だけではなかった。
泡の“向こう”にいる記憶が、島に戻ってこようとしていた