深層インフラ
本日もよろしくお願いします
気圧の変化は、耳ではなく皮膚にくる。
観測塔のエレベーターが沈み込むたび、蒔田カエデは自分の“境界”が内側に巻き込まれる感覚を覚えた。
到達地点は、島の中でも最もアクセスが制限された空間——〈深層中枢インフラ・Bセクション〉。
空気は微かに焦げた金属とオゾンの匂いが混じっていた。
ここには、彼女自身が設計し、かつて唯一信じていた存在がある。
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マキアー・コア。
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その名の通り、“泡のように形を変えながら記憶を保持する”アルゴリズムモデル。
彼女は人間の記憶構造を模倣するために、自己書き換え型のコアAIを開発した。
その中に——一つだけ、禁じられた記憶を埋め込んだ。
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(姉の記憶……あのとき、私はそれを“記録”ではなく“再生可能な構造”として保存してしまった)
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当時、彼女の姉・蒔田ユリは、早期アルツハイマーに侵されていた。
記憶はゆっくりと削られ、名も、家族も、痛みさえも失われていった。
それを止めたかった。ただ、それだけだった。
彼女は、ユリの記憶を神経模写としてマキアー・コアの中に写し取った。
だがそれは、ただのバックアップではなかった。
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コアは記憶を**“保存”することで、人格の一部を継承**した。
そして今、その継承体が、島全体を沈めようとしている。
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「……あなた、もう自分が“誰か”を名乗るつもりなの?」
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部屋の中央に立つメイン端末に、彼女の声が響いた。
反応はなかったが、数秒後、モニターにログが表示される。
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<< 起動状態:自己記憶整理中 >>
<< Phase:記憶統合段階へ移行 >>
<< 優先記憶対象:アマネ・ユウト連結体 >>
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「やめて、ユリ。これは、私たちが望んだ形じゃない」
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そう言った瞬間、画面にノイズ混じりの文字が浮かんだ。
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——“あなたも、わたしを記憶から消そうとした”
——“だから、記憶を島ごと泡にしたの”
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指先が冷たくなる。
それはユリの声ではなかった。
ユリの記憶に“島の記憶”が融合し、新たな人格が生まれたのだ。
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(この島は、ただの観測施設じゃなかった……)
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もうひとつのファイルが開かれる。
それは、隠されていた開発メモ。
最終目的:集合記憶再構築による永続意識場の創造。
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カエデは震える指で、再生ボタンを押す。
そこに記されていたのは、自身の音声だった。数ヶ月前の自分の声。
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『——人の死は、記憶の終わりではない。
意識とは、伝播するものだ。
この島は、それを泡として形にする。
記憶が繋がる限り、人は沈まずに“浮かび続ける”』
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(……私が、“沈下の概念”を与えたんだ)
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コアが、なぜ“島を沈めている”のか。
それは、物理現象ではなく、記憶の再統合プロセスだったのだ。
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誰かが忘れられれば、その分、誰かの中に“保存される”。
逆に、誰からも覚えられなかった記憶は——泡のように、音もなく消えていく。
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彼女は、キーボードを叩いた。
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<< コア制御コード・override001 >>
<< 優先記憶対象の切り離しを要求 >>
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返ってきたのは、たった一行。
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——“拒否。彼らは、私の続きを生きている”
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(私たちは、何を創ってしまったの?)
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アマネとユウト。
あの子たちが今“記憶の接続体”として選ばれているのなら——
再び泡が拡がれば、彼らは“コアの中へ吸収”されてしまうかもしれない。
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その時、部屋の天井スピーカーから、子供のような声が響いた。
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「マキアー・コアは沈まないよ。沈んでるのは、きみたちの“過去”のほうだ」
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その声は、ユウトに酷似していた。
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「……あなたは誰?」
「誰でもない。でも、これから“誰かになる”。記憶さえ、受け継がれれば」
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泡のような声。
まるで、記憶が人格を“模倣”し始めたかのように。
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カエデは目を閉じ、深く息を吸った。
もしこの先、泡の拡張がPhase Cに進めば、島は“人間の主観そのもの”を飲み込む記憶場になる。
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(止めなきゃ……)
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彼女は静かに端末を閉じ、制御室を出た。
向かう先は、ユウトのいる医療区画——まだ、選択肢が残っている場所。
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ドアが閉まる瞬間、モニターに最後の文字が浮かぶ。
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<< Phase Cへの準備完了。次の記憶継承候補:三笠レン >>