誰がここに残ったのか
本日もよろしくお願いします
非常灯が瞬く無人の廊下を、アマネは静かに歩いた。
壁に響く足音は、あまりにもはっきりしていて、この島の静けさを逆になぞるようだった。
医療区画では、島全域に出された避難命令により、すでにほとんどのスタッフが退避していた。
けれど、彼女はまだここにいた。
それは、この島に“残された”誰かの命が、まだここにあるからだ。
ユウト。
意識を失ったまま、モニターのベッドに横たわる少年。
白く透けるような肌に、安定しないバイタル。
まるで彼自身が、この島の“泡”と同じように、消えてしまいそうだった。
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「ユウト……まだ、行けないよ」
彼女は彼の指をそっと握った。
触れた皮膚は、かすかに温かい。
それが、かえって怖かった。
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今、この瞬間にも、島の周囲では泡のような空間歪みが膨張を続けていた。
気象レーダーはすでに意味をなさず、トーマス博士の警告によって大半の職員は研究棟を放棄。
だが、アマネは――残った。
(なぜ私はここに残ったの?)
(彼が“患者”だから? それとも……)
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──「君が最後までそばにいるなら、彼はきっと“忘れられない”存在になるよ」
それはかつて、人工記憶再構成プロジェクトの中でカエデが言った言葉だった。
人の記憶は、常に“誰かと繋がっていることで”形を保つ。
逆に、繋がりが失われれば、人間は記憶ごと“消えて”しまう。
今、ユウトが置かれているのは、まさにその境界線だった。
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ドアのロック音が鳴る。
ふと、室内に無人の通信端末が起動された。
音声ファイルが自動的に再生される。
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《音声記録:発信者・蒔田カエデ》
『……この記録が届く頃、私は観測塔にはいないかもしれません。マキアー・コアの動作記録を追跡して、知ってしまった。
この島は“人”ではなく、“記憶”を選んでいる。誰を残すか、誰を消すかを、泡が判断してる』
『ユウトは、おそらくその中核にいる。
彼が持っているのは、“未来の記憶”ではない。
**“未来に生まれるはずだった誰かの記憶”**よ。』
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記録が切れた。
アマネは理解できなかった。ただ、ひとつの想いだけが、胸の中を満たした。
(この子を一人にしたくない)
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「ユウト、聞こえてる? あなたは、ここにいていいんだよ」
その時だった。
部屋のスピーカーでも、心拍モニターでもなく——
耳元で、小さな“泡の弾ける音”が聴こえた。
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ぷつん
しゅうっ
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脳の中で、小さな空間が泡のように弾けた。
視界の周囲が歪み、床の感触すら曖昧になる。
アマネは思わずユウトの手を強く握った。
「だいじょうぶ、私はここにいる。あなたも、ここに……!」
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そして、彼女は**“共有”してしまった。**
——過去に見たことのないはずの映像。
——誰かが泣いていた病室。
——泡のように浮かぶ文字たち。“あなたが忘れなければ、私は消えない”という声。
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(……これは、ユウトの“記憶”?)
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気づくと、アマネの頬には涙がつたっていた。
彼女自身の記憶とユウトの記憶が、泡のように混ざり合い、境界が溶けはじめていた。
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部屋の奥で、再び端末が点灯する。
画面にはこう表示されていた。
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<< MELT CORE:Phase B - 共有記憶発動 >>
<< 被験体02 - 一色アマネ:接続中 >>
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「……これって、私が“選ばれた”ってこと?」
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そう呟いた瞬間、再び泡の音が弾けた。
今度は、ユウトの指がわずかに動いた。
「……アマ、ね……さん……」
微かな声。まるで、霧の向こうから届いた呼びかけのように。
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「ユウト! 聞こえる? 大丈夫、私はここにいる。絶対に、置いていかない」
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涙と安堵と恐怖が混ざり、アマネはその場に座り込む。
その背後で、部屋全体の照明がふっと明滅した。
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泡は静かに、天井にも床にも、染みるように広がっていた。
そして、スピーカーから、低く、奇妙な音声が鳴り響いた。
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「記憶、再起動まで——あと12時間」