記憶の断片図
よろしくお願いします
レンが島に来て三週間が過ぎた。
太陽は水平線をゆっくりと昇りはじめ、ラボの壁を赤く染めている。だが、この南洋の楽園にも似た人工島——キャラメルマキアー島で、彼が見ているものは、幸福の対極にあった。
「ユウト、きょうはどんな夢を見た?」
診療室の中央、無機質なリクライニングチェアに横たわる少年が、ゆっくりと目を開ける。
十歳前後。薄い髪。血色のない頬。そして、あまりに無表情な瞳。
「夢じゃないよ。明日、地震が来る。六時四分。ここじゃない、でも揺れるよ。波も来る」
「……どうしてそう思うんだ?」
「さっき、聴いた。泡が言ってた。右耳でだけ、聴こえた」
レンは瞬間、背筋がこわばった。
“泡”——それは、今朝未明に観測された、例の白い膜状の海面現象の通称だ。
まだ島内の限られたスタッフしか知らないはずの情報。それを、この少年が知っている?
「ユウト、少しだけ、脳の中を見せてくれないか?」
レンは声を落としながら、そばにあったポータブルMEG装置(脳磁場イメージング機器)を起動する。
頭部に軽く触れると、ユウトはまるで眠るように目を閉じた。
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脳波が走る。
通常の人間の記憶処理では見られない、奇妙な干渉パターンが検出されていた。
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Δシータ波:断続的に上昇
海馬領域:記憶再構成パターン=逆位相重ね書き
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「まさか、これは——自己書き換え?」
思わず、レンは声に出してしまった。
これは、人工知能に搭載される非線形記憶パターン再生成機構と酷似している。
だがそれが“人間の脳”で起きているというのか。
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「レン先生、僕の中、泡があるんだよ」
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ユウトの声が唐突に、意識下から返ってきた。
「泡って?」
「白くて、柔らかくて。浮かんだり、沈んだり。ときどき、誰かの声を真似してる」
レンはゆっくりと息を吸い、脳波モニターを一時停止した。
この現象は偶然ではない。
ユウトは単なる記憶障害ではなく、“構造的記憶再設計”を受けている可能性がある。
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「ユウト、なにか頭の手術を受けたことある?」
「うん。忘れてるけど。お母さんが『必要なこと』って言ってた。たぶん、島に来る前」
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レンは医療記録を確認するが、手術歴は記載されていなかった。
だが、ナノ神経インターフェースに関連する微細な磁場乱れがユウトの頭部に集中している。
つまり、極小のナノデバイスが脳内に存在する可能性が高い。
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「君は、未来のことをどうやって知ってるの?」
「知らない。……でも、感じるんだ。誰かが、僕の中に未来を落とした感じ」
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その言葉は、まるで詩のようだった。だが、それゆえに、異様な真実味があった。
レンは、自分の専門——心理言語モデルを思い出す。
彼が研究しているのは、人間の言葉と思考の相互作用。
そして今、彼の前には言語と思考どころか、時間すら“記述”している少年がいる。
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(これは、夢じゃない。科学だ。新しい、でも危険な……)
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ラボのドアがノックされた。
入ってきたのはアマネ、医療スタッフの一人だ。
「レン先生、観測塔からの通達です。先ほどの“泡”が、拡大していると」
「……どの程度?」
「島全体の8割に。海面下のナノ粒子が、同期膨張している可能性があるって」
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レンはその言葉を、まるで呪いのように感じた。
同期膨張。ナノ粒子が情報場としてリンクする現象。
もしこの“泡”とユウトの脳が同期していたら——
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その時、ユウトがまた口を開いた。
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「明日、ここは沈むよ。君も、忘れるんだ。ぜんぶ」
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「何を?」
「名前。家族。言葉。……記憶って、泡だから。ふっと弾けて、甘い匂いだけ残るんだ」
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言葉が、空気に溶けた。
泡のような少年の声に、レンは確信を持った。
この島で起きているのは、物理的な沈下ではない。
人類の“記憶”そのものが沈もうとしている。
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(ユウト、お前は一体、何を見ている? 誰の代弁者なんだ……?)