冬賀学園の高等部の朝。
夏休みが終わって学校に行く日だとしても、やはりここは何も変わらない。
「――お早うございます」
「おはよう」
寮内の一日はまず挨拶から始まる。
高等部に上がってまず覚えたことは、寮の食堂で先輩に会ったら真っ先に挨拶をすること。
体育会系にありがちな、けれども一年間は完璧に忘れてた風習というかに面倒だなと呟いたのは、何も問題児と名高い中西修司だけではなかったが、それも半年も経てば誰でも板に付くことで。
「寝坊はしなかったみたいだな、水上」
「朝練より遅いんですから、寝坊するほうが大変だと思いますよ、先輩」
「ああ、それもそっか。寮に慣れちまえばそんなもんだもんなあ」
「ええ。それじゃ」
もしここに中等部から水上亮という少年をよく知る人々がいたら、あまりの猫の大きさに愕然とするかもしれない。
それほど丁寧な口調で、穏やかに言葉を返した水上はまさに別人と呼ぶに相応しいほど、顔を作るのが上手かった。
というかそれが高等部に入ってから身についた、水上の特技だ。
「よ。水上。おはよ」
「……おう……」
事実、その先輩と別れた後、朝ご飯を乗せたプレートを手にいつものメンバーの元へと来た時には、もう不機嫌そのものの答えしかしない。
挨拶を返すと言うよりは、うるせえとその声音が言っている。
顔だけは少し仮面をはずしたくらいで保たれているものの、その裏側には「眠い、うざい、寝かせろ」とくっきり太文字で書いてある水上に、既にテーブルへとついていた他のメンバーは互いに苦笑した。
「ホント水上の猫かぶり技術はますます向上していくなー。なんでここまで変えられるんだか……気がつかない先輩達もある意味凄い」
そう感心したように口にするのはこの中で水上とは最も付き合いの長い、幼馴染みの近藤志信である。
何せ寝起きの悪い水上を起こせる、数少ない人間の一人だ。
「言えてる。半年経っても気がつかないもんね。さっきの先輩の顔見た?可愛い後輩に話しかけてもらえて嬉しいって顔中に書いてあったよ。水上って笑ってれば見た目はいいもんね」
「根岸……頼むからそう言うことは大声では……」
「辰巳、言っても無駄なことは意味ないでしょ。ネギっちゃんに他意はないんだから。大体、言っていることは事実だし」
「……中西まで……」
根岸と中西の言葉にどことなく疲れた表情を見せるのは辰巳遼平だ。
しかしその話題に上っている当の本人は、ただ仏頂面で卵焼きを箸でつつくだけだった。
ちなみに原因は寝不足だけ、というわけでもない。ここにいるべき一人がいないこと――も大きな要因の一つだ。
もちろんそれはここにいる全員がわかっている。
なのにそれを知っていて爆弾を落としたのは、面白そうに笑った中西だ。
「まあ、あれだよね。中学の時はぶつかることしか知らないような水上にここまでさせてんのって、渋沢の教育の賜物でしょ」
ぴくり、と水上の箸が止まった。
「あ、そっか。水上にそうしろって言ったのって渋沢なんだっけ?」
「そうだよ、ネギっちゃん。あいつも苦労が好きな人間だからねえ……。水上も大分成長したし、一番安心してるのはあいつだろうけどここまで愛想が良くなって一番困ったのもあいつ……」
「さっきからうるせえぞ」
あくまでも小声で怒鳴られた声は、もちろん水上のもの。
「さっさと黙って飯でも食ってろ。二学期の初日から休みたいなら俺が助けてやるぞ。二度と起きられねえようにだけどな」
「おや、そこまで簡単にやられる気はないけど?そもそもなんで水上はそこまで怒るかねえ?ん?」
「中西、てめえ……っ」
「渋沢の名前くらいで狼狽えてるようじゃ困ったモンだね。そんなヤツにやられるほど俺は弱くないよ、水上?」
「――殺すっ。ついでにお前もだ、アホ根岸!いちいちこいつの口車に乗せられて余計でもねえこと思い出してんじゃねえ!」
「んーそんなこと言われても、乗った覚えなんてないもん。でも水上相手だったらやられちゃうよなあ、俺。ね、中西?」
「大丈夫。ネギっちゃんは俺が守ってあげるから」
「ありがとー」
本当に馬鹿馬鹿しい。
けれどその会話に笑っているのは近藤だけで、辰巳といえばせっかくの朝ご飯を目の前に食欲がどんどん減退しているらしい。
根岸はともかく中西はそれさえもわかっていてこの状況を作り出しているのだから、尚更タチが悪いと言ったところか。
「そういえば渋沢って今日なんでいないんだっけ?」
それでもまあまあと水上を宥めていた辰巳の横で、そんな健気な努力にも気づかずに追い打ちを掛けたのは根岸だった。
とっさにまた剣呑な目を向けた水上とそれを押さえる辰巳を横目に見ながら、近藤が答える。
「ああ。実家の法事で……でも今夜中には帰ってくるってさ。ま、今日は始業式だけで珍しく部活も休みだからな、支障はなし」
「へー。そーなんだ」
「ちょっと距離あるから大変だろうけど……でも帰ってきてからのほうが大変だろうとは思うな。なんせ二学期が始まったわけだし、渋沢は本格的に一軍レギュラー入りだろ?いつものことながら課題アホみたいに大量らしいって話だし」
「――あ、そっか。そうだねえ」
二人そろってどこかの茶飲み爺のようだと言われそうな会話だが、けれど誰も先ほどまでの調子でつっこんだりはしなかった。
それどころかさっきまで怒っていた水上やふざけていた中西でさえどことなく神妙な顔になっているのは、その言葉の重大性をよくわかっているからだ。
そう、二学期が始まる。
それはつまりサッカー部での一番過酷で、辛辣な時期が始まると言うことだから。
「渋沢はレギュラー確定でもいつも揉めるよね。まあキーパーじゃなくてもそれは大なり小なりあるけど」
「ネギッちゃんの言うとおり……っていうより、あの辺は先輩後輩うんぬんっていうより子供じみた年上の意地?が100%って感じだけど。まあ一波乱どころか二波乱や三波乱くらいはありそうなのは、DFばっかじゃないようだけど?」
「……中西、頼むから声おとせ。あっちに聞こえる」
「そう?辰巳が気にしすぎてるだけだと思うけど」
そうしれっと言ってのける中西にやれやれと溜息をつきながら、卵焼きに口に放り込んだのは水上だ。
「――ま、どっちにしろあの馬鹿だけの話じゃねえだろ。俺だって、お前らだって黙って見てるわけじゃねえんだ。チャンスをわざわざ自分から捨てに行くお人好しじゃねえんだから、変な気ぃつかったって結局やることは同じだって」
怖いこと言って、と小さくぼやくのは近藤だ。けれどその彼自身、水上とまるで同じ事を思っているのだからあまり意味はない。
辰巳は生来の気質からか即座に肯けるわけではないらしいが、それでも気持ちは同じなのだろう。それ以上否定はしなかった。
もちろん、中西や根岸だってそうだ。
チャンスなのだ。二学期は。
秋の大会に向けた再編成と目前に控えた三年の引退との中で、上にのし上がるチャンスは今まで以上に転がっている。
一番その椅子に近い渋沢は、中学のあの頃と同じように、一番最初にその座を得る。
そしていくつも問題を抱えるだろう、昔のように。
けれどそれだけじゃない。
レギュラーとなればすぐにでも、まとめ役としても上に立つだろう彼には、もう一つ嬉しい悲鳴をあげてもらう。
――今回は皆が一年時からレギュラーの座を狙っているのだ。ここにいる全員が。
そしてそのための実力は着々とつきつつある。
可能性から行けば一人か二人くらいなら――あるいは同じ頃、同じ位置へと辿り着くかもしれない。
荒れるだろう。これは毎年のことだ。
しかしもしもそれが現実になれば予想以上に……荒れるだろう。
「――にしても、アレだよね。俺たちって」
不意にそんなことを言い出したのは根岸だ。
「学校初日だっていうのに、学校なんかそっちのけでサッカーのことしか心配してないんだもん。端から見れば変かも」
「同感。――おまけに今までで一番質が悪いかもね。水上が一番でっかい猫をかぶってるけど、俺たちだって似たようなもんだし?それで話してる内容がコレじゃねえ?」
先輩方も気の毒にと続ける中西は心底そう思っているらしいが、それでもその目はまるっきり逆といったほうが正しかった。
「――ま、水上ほどじゃないけど精々口だけにならないように気をつけろってことさ」
「近藤の言うとおりだな……。俺も頑張らないと」
「辰巳もやる気がでてるようで結構。遠慮してっとこっちがやられるぜ?」
がたんとトレーを片手に立ち上がったのは水上だった。
一番最後に来たくせに、食べ終わるのが一番早いのはいつものことだ。
「じゃ、お先」
飄々と返却口にそれを置いて。
と、そこでまた――。
「相変わらず早いな、水上。もっと食わないとでかくなれないぞ?」
「わかってますけど、これがなかなか……。体格で負けてちゃ、話にならないことはわかってるんですけど」
「そうだなあ……。でも水上は技を磨いているから、当分はそれで間を持たせられるんじゃないか?」
「そうですか?ありがとうございます」
瞬時ににこやかな笑顔を貼り付けて、何人かの先輩と一緒に食堂を出て行くその後ろ姿を見送りながら、ぽつりと根岸が呟いた。
「――でもなんかさ。アレはちょっと猫が大きすぎるっていうか……二学期になっても慣れてないのって俺だけじゃないよね?」
――その場に居た全員が大きく頷いたのは言うまでもない。
猫をかぶって、余計なトラブルを引き起こさないように心がけて、そうして機会を伺って半年。
完璧な猫かぶりのおかげで幸い煩わしいトラブルは何一つ起こってはいない。
が、その分、打ち解けた仲間内ではある種、水上の凶暴さに拍車が掛かったんじゃないかというのが共通の認識だった。