冬賀学園中等部の昼。その2。
目が覚めた。
今日から学校だって気がついた。
だからちょっと悲しくなった。
もう匠を独り占めする時間が――終わってしまった。
「……ピアノ……」
考えるまでもない。匠の音だ。
後で先生や監督から、そしてたった今逃げ回っている匠から怒られるんだろうなあと思っても、今、もしもうっかり匠に会ったらその場で何をするかわからないんだよねー、などと呟きながら学校中を動き回っていた藤澤誠二にも、その音は届いていた。
いつもならそのピアノの一番近くで、一番気持ちのいい音に目をつぶっているのだから間違いようがない。
音楽に、しかも古典的なクラシックに興味があるわけではないけれど、同室者の彼が弾く音となれば話は別だった。何だか上手く言えないけれど、それを聞いている時は何だか沢山甘やかしてもらっているような気分になるからだ。
「匠……」
逃げ回っている間に、いつの間にか昼休みになっていたのだろう。
誰もいない美術室に逃げ込んでからずっとそこにいたせいか、気づくのが遅れたらしかった。
そういえばと耳をすませば窓の向こうから聞こえるのはピアノの音だけではなく、あちこちから聞こえるざわめきが含まれていることにやっと気がつく。
正直、何で逃げているのかと誰かに聞かれたら、ちゃんと答えられるかどうかは藤澤自身もよくわかっていなかった。
ただ朝起きて、無性に寂しくなって、そうして隣でまだ寝ていた彼を――匠を見ていたら、何かがここにいちゃいけないと訴えたのだ。
そして今もまだ何かが感じている。
今、匠に会ったら何をするかわからない、と。
本当に上手く言えないのだが、そういうことなのだ。
自分の一番我儘で、どうしようもなくコントロールが効かない何かが、頭の何処かで怒鳴り散らして、喚いている。
ちょうどそんな感じなのだ。
夏休みが終わった。
ただそれだけのことなのに、ただ夏休みの間はいつも以上にずっと側でひっついていたというのに、それが出来なくなると気がついたら――何だかダメだったのだ。
ずっと一緒にいたいと、もっと一緒にいたいと、そんな子供みたいな我儘を言ってしまいそうな気がする。
だから会いたいけれど、いつもみたいに一緒にいたいけど、いられない。
会えない。
「馬鹿かも……俺」
藤澤は溜息をついた。
聞こえてくる音に目をつぶって、自分でもよくわからないこのぐちゃぐちゃとした感情に悪態をついてみてもやっぱり消えてはくれない。
何でだろうとぼんやりと考えてみる。
だっていきなり今年の二学期になって急に感じるなんて、いくら自分が我儘な方だとしてもおかしい。
そもそも何で学校が始まったくらいでこんな風に考えているのかが、正直不思議だった。
学校が始まったって生活はほぼ一緒。
本来なら受験生だから部活も終わるけれど、冬賀はエスカレーターで上に上がれるからかなり長く続けることも出来るし、塾に行く必要もないから余計な時間を費やすこともない。
確かに学校が始まれば忙しい彼を独り占めできなくなるのは当たり前だった。
でもそんなこと去年も一昨年も知っていたし、ちゃんとわかっているはずだ。
一緒に寝て、一緒に起きて。
一緒に勉強して、一緒に遊んで、一緒にサッカーをして。
二人きりでいる時間が少なくなると言っても、そんなの物の数にも入らない。
まるでこれじゃあ……。
「――変なの。これじゃまるで匠がいなくなるみたいなこと考えてるみたい……な……」
――あれ?
「……?」
何かが引っかかったような気がして、藤澤は首を傾げた。
匠がいなくなる――だって?
「変なの」
そんなわけない。ありえない話だ。
なのに、喉がカラカラに渇くような焦燥感が、後から後から、こみ上げてくるのは何故だろう。
怖いというか、何か本当なら見てはいけないものを見てしまったような気まずさ、みたいな感じがする。
出来ることなら見たくないものを覗いたような……そんな気分。
気のせいだ、と強く藤澤は自分に言い聞かせた。
だってそんなことはありえないんだからと。
今日はできなかったけれど、きっと明日からはこの気持ちのいい音の側で昼食を食べて、気が向いたら曲のリクエストをして。
そんな風に一日は過ぎていくに決まってるのに。
「……あ、れ?」
藤澤は少しだけ震えた。本気でそう思っているはずなのに、やっぱり何かがひっかかる。
脳裏に描いた匠のその姿は、いつもと少し違う。
何かを遠い目で見てたり、ちょっと苦しそうに眉を顰めたり、でもそれはここ最近本当にあった姿だ。
その匠に、何か言われそうな気がする。すごく、嫌なことを。
そう、多分、一緒にいられなく――。
「――藤澤?」
どきりとした心臓を直撃した声に、藤澤は反射的に振り向く。
「……あ、間下」
突然開けられた引き戸に、何故か強張っていた体がみるみるうちにとけた。
これが他の誰かだったらこうはいかない。
間下は藤澤にとっては少し不思議な友人だった。仲間でもあり、味方でもあり、敵でもある。
そんな感じの、誰とも違う相手で、多分それは他の誰に聞いても、葛西に聞いてもそうだろう。
ほっとどこか安心した藤澤を間下はいつものように眺めて。
そうしてまるで全部お見通しのように呆れたような大きな溜息をついた。
おかげで藤澤は笑うのを失敗したような顔でしか返せない。
「先生が後で顔を見せろだと。始業式からサボっているんだから覚悟は出来ているんだろうなとも言っていたな」
「うっわー怖いね」
「……せめて一言分くらいでも本気で言ってるなら、先生も報われるんだろうがな……」
もう一度つかれた溜息に、今度こそ藤澤は笑う。
しかしそれ以上は間下も蒸し返す気がないらしく、ただ黙って藤澤の隣に腰掛けた。
「それで?」
「――え?」
「珍しく葛西を朝から避けているのは、自分で解決できるんだろうな?」
……ということはつまり。
「間下も俺を探してくれてたってこと?それが聞きたくて?」
「探してはいないが、まあそういうことか。――葛西が今にも死にそうな顔で校舎内を探し回っているのをみれば、少しは助けてやろうかって気にもなる」
「死にそうなってそんな……大げさな」
けれど笑おうとした藤澤に、間下は真面目な顔で、ただ答えた。
「本人に自覚はないかもしれないけどな」
だから来たのだという間下の言葉に、藤澤は言葉を失った。
あのいつもどんなに自分がまとわりついたって顔をしかめるくらいのことしかしてくれない彼が、自分がいないだけで死にそうな顔を している……だって?
それはまるで魔法の言葉のようで。
「――ごめんっ間下!サンキュ!!」
一気に悩んでいた何もかもがどうでも良くなった。
後ろも振り向かず、藤澤は俊足を生かして走り出す。
向かう音楽室までは割と距離がある。
疾走する藤澤に驚いたのか、すれ違った何人かから声をかけられたけれどそんなものに答えている余裕などなかった。
道しるべのように聞こえる音を必死で追いながら、ただ思うのは後悔で。
なんで一人にしたのか。なんで匠を一人にさせてしまったのか。
「ああ、もう俺ってバカ……っ!」
自分のことなど今はどうでもよかった。
そんなことより一人にさせてしまったことだけが気になる。
しっかり者で、みんなから頼りにされるような人だけど。でも藤澤の知っている葛西匠という人間は違う。
もっと色々一人で抱え込んで、一人で色々悩んで、一人で頑張って立とうとするそういう人間だ。
間下の言うことなんて、とっくにわかっていなきゃいけなかった。
何で自分でも逃げ回っていたのかはわからないけれど。
でもそれでも――最初は怒っていたかもしれないけれど、でも今頃は自分が原因じゃないかと思い詰めているかもしれない匠をたった一人にするなんて、自分の辞書にはないはずだったのに!
「匠っ!」
盛大な音を立てて開けたそのドアの向こうで、優しい音を奏でていた人が振り返る。
「――」
最初に彼が何て言ったのか。
――それは自分だけの秘密。