バッドエンドのその先で
悟はそっと図書館の重たい扉を押し開けた。その瞬間、懐かしい紙の香りが彼を包み込む。静けさが彼の心を満たし、外界の喧騒が一瞬で遠ざかったかのようだ。高くそびえる本棚の間を歩く彼の足音は、柔らかな床に吸い込まれ、ほとんど聞こえない。窓際の光が、彼の肩や髪にそっと降り注ぎ、本棚の影が彼に優しく寄り添うように伸びていた。
周囲を見渡すと、図書室にはほとんど人影がなく、かすかに聞こえるのは、ページをめくる音と風が窓枠をかすめる音だけ。まるで時間そのものがここでは静止しているようだった。
お気に入りのテーブルに腰を下ろし、机の上に積まれた本の中から一冊を手に取った。指先が紙のザラつきを感じるたびに、彼はその本がどれほどの時をくぐり抜けてきたかを想像する。
「やっぱり本を読んでる時が一番良いな……」
高校には行っていない。
将来は父の仕事を継ぐつもりなので学校の成績など必要ないからだ。
義務教育を終え、18になるまではただ本を読むだけの生活をしている。
そしてページをめくると、そこに記された言葉が目の前の静寂を埋めるように、彼の心にそっと語りかけてきた。
───物語の最後はハッピーエンドがつきものだってよく言われるけどそうは思わない。
バッドエンドがあったっていいじゃないか。
もちろん、ハッピーエンドの作品も読むがどうにもご都合展開で飽きてしまう。でも、バッドエンドの作品はどうだろうか。ご都合主義なんてものには振り回されず主人公の姿、感情の移り変わりが激しく見てて面白い。だから僕はよく好んでバッドエンドの作品をよく読んでいる。
今も読んでいるのもまたバッドエンドの作品だ。
ある少女──セツが謎の少年──ディスと出会い、入ると夢が叶うと言われるドアの鍵を受け取る。ただし、そのドアの先は全く別の空想の世界。そこでは彼女の夢が叶い理想の生活が待っていた。
しかし、そのドアの先に進むと現実の世界は崩壊する。
その世界は魅力的であるが故に、彼女を現実から遠ざける罠でもあった。彼女は永遠に空想の中で生き続けるべきか、それとも残酷な現実へ戻るべきか選択を迫られた。
そして、彼女はそのドアを開け、現実の世界を代償に理想の世界を手に入れた。
もちろんフィクションではあるが、何故か引き寄せられる作品で主人公の心の葛藤、理想主義に反する決断、そして決断後を書かないことで読者にその後を想像させる書き方、全てが僕の好みだ。
「すごい分厚い本読んでるんですね」
「え?」
突然、覗き込むように面識のない少女が話しかけてきた。
思わず『邪魔するなよ』と口から出そうになったが彼女の無邪気な笑みが、まるで夏の午後に吹く爽やかな風のようだった。その柔らかさにその言葉を飲み込むしかなかった。
「どんな内容なんですか?」
「……少し暗い話だけど、面白いよ。」
彼女に続けて尋ねられたので躊躇いながらも答えた。
「暗い話ってどんなの?気になります!」
彼女の興味深そうな瞳に、彼は戸惑いながらも少しずつ話をし始める。彼が読んでいた本のストーリー、バッドエンドの魅力、主人公の葛藤……話しながら、気づけば彼はその少女と自然に会話をしていた。
「だけど…どうして現実世界を捨ててしまったでしょうね」
「それは、主人公が日頃からいじめを受けていて誰にも優しくされなかったからじゃないかな?」
「でも、他の人を巻き込んだり、唯一その少女に優しくしてくれた少年をも巻き込んでしまうんですよ?それじゃあ誰も本当の理想を手に入れられないじゃないですか」
「…たしかに」
僕は主人公がいじめに疲れ、現実世界を捨てたと思っていたけど、彼女の理想主義に近い意見はたしかに合っている。
「私、思うんです。その少女はいじめとは違う他の理由があったから現実世界の崩壊を選んだんだじゃないかなと」
「その理由って?」
「これは、私の考えた結末なんですが例えば、その少年は余命わずかで、その少年が最後の贈り物として少女に扉の鍵を渡し、少年は亡くなる。しかし、鍵を受け取った少女は少年を愛していた。それも現実世界が崩壊してもいいほど。そしたらその少女はどうすると思います?」
「鍵を使って扉の向こうの少年に逢いに行く」
「はい。私の考えた仮定はそうです。だから、この作品は結末が記されていないからこそ一概にバッドエンドとは言いきれないと私は思うんです」
たしかに彼女の言う通りだ。
僕は、理想主義が苦手だから彼女のように考えることが出来なかっただけで、この作品のような結末を読者の想像に任せるような作品は一見バッドエンドに見えるようなものでも見方によってはハッピーエンドになるかもしれない。
「ありがとうございます。あなたのおかげでまた新しい本のいい所に気づけました」
「いえ、こちらこそ。あなたの好きな作品を教えていただいてありがとうございます。あの……これ」
彼女はそう言ってスマホのQRコードを見せてきた。
「……連絡先交換しませんか?私、ある事情で学校に行けなくて、すごく暇で仕方ないんです。だから、私の読書仲間になってくれませんか?」
読書仲間?
友達が出来たこともない僕にそんな重要な役目が務めるのだろうか。
でも、いつも1人で本を読んでいたけど、さっき彼女と本について語り合っている時は、そのいつもより何故か楽しく感じた。
「僕でよければ……」
「ありがとうございます……!」
次の日から、本を読んでいると隣の席に彼女が座るようになった。
彼女は光希という名前で僕と同い年だ。
そして、僕の何気ない、いつもの日常に彼女が入り込んだ。
ただ本を読んで至福を感じていたものから、本を読み感想を言い合い2人で結末を考える。それが日常へと変わっていった。
「悟くん」
「どうした?」
「私、気づいたんです。悟さんが好きなあの作品の少女は、どうして現実世界を犠牲にしてしまうほど少年を愛してしまったのか……」
「それはどうして?」
少年から理想の世界を手に入れることの出来る鍵を貰ったとしても、現実世界を犠牲にするほど愛することは出来ないと思う。
しかし、彼女は現実世界を崩壊させ彼とまた会うことを選んだ。
たしかにあの決意はどこから生まれたのだろう……?
「それをお話しする前にある少女のお話をしますね」
「え?」
光希は、僕に目を向けず静かに語り続けた。その語る声にはどこか切ない響きが漂っていた。
「その少女は幼いころから治療が不可能な難病を抱えており、学校や保育園に通うことは叶わず、日々の楽しみは読書だけでした。そして、さまざまな種類の本に没頭し、物語の世界で自分の孤独を癒していました。
ある日、気分を変えるために近所の図書館を訪れると、自分と同じくらいの年齢の少年が目に留まります。少年は、それはもう面白そうに本を読んでいました。彼の顔には楽しさが溢れ、ページをめくるたびに目が輝いていました。まるで、彼自身が物語の一部になったかのように見えました。
その光景を見た少女は、自分の世界に新しい風が吹き込まれるような感覚に包まれました。
そして、思わず彼に話しかけると最初はすごい睨まれて『邪魔するな』と目で牽制してきたんです。
最初はすごく怖かったそうです。でも、勇気振り絞ってその本について尋ねるとその男の子は少し面倒くさそうにしながらも事細かにその本について語ってくれたんです。
学校などに行けないせいで理想主義に囚われていた私に、その男の子は新しい視点を与えてくれました。
そこからその少女は、たとえ病気を抱えていても、彼と出会ったことで人生が少しずつ変わっていきました。」
光希の静かな声は、物語を紡ぐように滑らかだった。しかし、彼女の語る少女の姿には、不思議と彼女自身の影が重なって見える。
もしかして、その少女は光希本人なんじゃないかと感じたがそれがもし事実だとすると……
「光希……!」
「悟くん、最後まで聞いてください。お願い……」
光希は話し出す前に一瞬ためらい、瞳が潤む。涙はまだ流れていないが、その透明な輝きが彼女の心の中で押し寄せる感情を物語っていた。悟には、光希が心の奥深くに隠していた何かを絞り出そうとしているように見えた。
そして悟は口を噤み、その場の静けさに自分の心音が混じるような感覚を覚えた。光希が抱える想いがどれほど深いものなのかを悟りかけ、言葉を挟むことさえためらわれたのだ。彼女の瞳の潤みは、涙として溢れる寸前で、静かな決意と葛藤を映し出しているように見えた。
「その少年が、少女にとって最初の“友達”だったんです。彼女はこれまで誰とも心を通わせたことがなかったから、彼との出会いは彼女にとって希望そのものでした。でも……少年は、長くは生きられない運命を抱えていた」
光希は少し間を置き、静かに語り続けた。
「彼は最後の贈り物として、少女に“夢が叶う扉の鍵”を渡しました。それが、彼女への感謝と愛の証だったんです。でも、その扉の先には、もう本当の彼がいないことを少女は知っていました。」
「しかし、彼女はそう分かっていたとしても諦めきれなかったんです………彼との思い出を守りたいと強く思ってしまったから…。」
悟は光希の話に耳を傾けながら、心の中でいろんな感情が交錯していくのを感じていた。その少女と光希の重なりが、次第に明確になっていく。
「私は、セツに似ているところがあると思うんです。だから……私はその少女の気持ちが痛いほどわかるんです。彼女にとって、その選択は唯一の希望だったと……」
光希の目が悟を見つめる。その瞳には、ただの物語の話では語り尽くせない何かが宿っていた。
物語の結末は書かれていなかったが、彼の中で新たな結末が芽生え始めていた。
「もしこの物語がバッドエンドで終わるとしても、そこに何かしらの意味や希望があると信じるから」
物語に完璧なハッピーエンドなんてあるわけないんだから。