66話 夢
???
「おはよう」
懐かしい声が聖の耳を掠めた。
「ん、おはよう」
疑いもせず、反射的に挨拶を返した。が、傍と気付き周囲を見渡した。生まれてから18年を過ごした見慣れた生家の廊下、その真ん中に立つ自分を彼は認識した。
「あれ、家だ」
「そりゃそうでしょ?何、寝ぼけてるの?」
「あ、いや。ごめん、母さん」
何か良く分からない感覚に支配される聖。しかしその正体が分からない。ただ、目の前で怪訝そうに自分を見上げる母の顔に酷くバツが悪くなった彼は、釈然としないながらもリビングへと向かった。
「おはよう、聖。今日は随分と早いな」
何時も使うテーブルに配膳された簡素な朝食。その食事から立ち昇る湯気の向こうに、もう一人の見慣れた顔が声を掛けてきた。
「父さん?」
「なんだ、寝ぼけてるのか?」
「なんで、生きてるの?」
「オイオイ、簡単に人を殺すもんじゃないぞ?」
「え、あ……そうだよね。なんでそう思ったんだろう?」
「また夜更かしか?それとも風邪でも引いたか?」
不可解で不謹慎な言葉に父は怪訝そうな顔を浮かべたが、子供の失言に寛容らしく、ややもすれば朝食に手を伸ばし始めた。対する聖はそんな父の様子を不思議そうに眺める。どうしてそんな事を言ったのか。何かが引っ掛かっているがしかし、思い出そうとしてもその部分だけ霧がかかったように曖昧になる。
「とにかく、朝食はちゃんと取りなさい。学校へ行くかはその後に考えれば良い」
「あ、うん」
何か漠然とした違和感を覚えながらも、しかし聖の身体は自然と父親の言葉に従った。椅子に座り、朝食を噛み締める。あぁ、懐かしい。そんな言葉が自然と聖の口を突いて出た。
「そう言えば、お父さん出張なんですって」
「あぁ。仕事の都合でどうしても、な。なぁに、隣だから数日の辛抱だ。そうだ、お土産は何が良い?」
「出張?あぁ、俺は……って、うわ」
何かが脳裏を過る。聖の身体は強張り、そのせいでコップの水を盛大に零した。あらあら、とせっつく母の声を背に浴びながら聖は服を脱ぎ、傍と手を止めた。視線は腹部の一点を凝視する。
「何、今日は朝からおかしいわよ?」
「全く、もういいから今日は学校を休みなさい」
母の声に父の声が重なる。声色は何方も心底から聖を心配している。だが、彼の手は未だ動かない。否、拒む。
「そう、だ。俺は」
ややあって、聖の脳裏に掛かっていた霧が晴れた。在りし日の出来事が、己に欠けた記憶が鮮明に蘇る。めくった上着の下、腹部に銃創が残っていた。平和な日常では絶対につかない痛々しい傷が、目の前に広がる光景が現実ではないと告げる。
「疲れているだろう?もう休みなさい。誰もお前を責めたりしない」
「私達のせいで随分と苦労を掛けたんだから。だから、ね。もういいわよ、苦しまなくて」
「無理して助けて、そのせいで苦労をしてきたんだろう?済まなかったな。俺達のせいで」
「だから、ほら早くご飯食べて。で、終わったらお出かけしましょ?」
甘い夢。あるいはこうであったらという願望。何もない世界での、ごく普通の家族生活。しかしそのありふれた夢は時に暴力よりも強固に人を縛り、その場に押し留めようとする。都合の悪い事は何もなく、全てを肯定する夢は抗い難い力で聖の意志を絡め取り、耳元にそっと囁く。このままでいよう、辛い現実など忘れよう、と。
「戻らなければいいじゃない」
「此処にいれば全部忘れる事が出来るぞ」
「でも、ココは現実じゃない。父さんも母さんも死んで、もう俺の世界にはいないんだよ」
聖は拒絶した。幻からの呼びかけに。もういない、父と母の姿をした幻の甘言を否定した。
「でもこの世界にはいる。もう一人きりにしない」
「今まで苦しめた分の償いをさせてちょうだい?」
「戻るよ」
「何故だ?」
「どうして苦痛と苦難に満ちた世界に戻るの?」
「父さん、母さん」
聖は夢幻が生み出した父と母を見た。ソレは幻で、現実ではない。だが、本物のように語り掛ける。
「ごめん。大切な人がいるんだ。父さんと母さんよりも大切な。だから、その人の為に戻るよ」
戻る理由は、己ではない誰かの為。現実という苦境の中で、今も自分を求め足掻く誰かの為。聖の決意に、夢が生み出した父と母は何も言わない。
「上手く言葉に出来ないけど、とても大切なんだ。何時も俺に付き合ってくれたんだ。何時も、ずっと。だから今度はその人の為に、その人の為だけに生きたいって思った。本当はもっとあるけど。だけど、ごめん。その人のところに行くよ」
聖の告白に、幻は何も語らない。ジッと、ただ彼の目を見る。聖もまた、幻を見つめ返す。
「そうか。何時の間にか、俺よりも大きくなったな」
「もう、一人で大丈夫なのね?」
不器用な告白に、幻は笑った。急に都合の悪い現実を、己の意志を肯定する幻に聖は目を丸くした。あるいは、もしかしたら目の前の父と母は――
「うん。ありがとう。俺は、もう大丈夫だよ」
しかし、聖にはもう関係ない。在りし日に、いや『こうであったら』というまやかしの希望に背を向け、絶望が待つ現実へと歩を進める。
「「頑張れ」」
その背を寂しそうな、しかし何処か嬉しそうな両親の言葉がそっと押した。
「うん、頑張るよ……それから、さようなら。夢でも、幻でも、会えてよかった」