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まもりびと


隆鷗が信陵寺を出る頃、月子と隆鷗の異変に心を痛めていた苞寿。じつは墓守の責任の重さに精神的に追い詰められていた。誰にも見せられない弱さを克服して、苞寿は、身近な者によって整えられた舞台へと上がった。




 それは、隆鷗が寺を出ていく前、日常が壊れていく日々を送っていた時のことだった。

 月子がおかしくなった。隆鷗を毛嫌いし始め、遂には物怪もののけを見るように罵りだした月子に、隆鷗の我慢が限界を迎えた。その日隆鷗は寺を出て行った。

 苞寿は、それを止めることができなかった。


 これまで起こったことのない、自分の理解を超えた現象に悩みながら、何かを見落としているのではないか?苞寿は考えた。考え過ぎてより一層思考を鈍らせていく反芻思考に陥ったほどだった。

 隆鷗と月子の異常は、彼らの能力から起こる、凡人の理解を超えているものだ。何もできない自分を責める日々を過ごしていた苞寿は、これまでの経験や記憶を曇らせてしまった。

 ただ焦燥して闇雲に『守人草子まもりびとそうし』を読み漁った。

 そこに和紙が挟めてあるのを見て、苞寿は思い出した。

 黒司路こくしみちのことを。

 曇った記憶が急激に晴れていった。

 冷静でいれば、忘れるはずのない出来事だった。庭園を見ながら囲碁を打った時から更にもう一度(みち)には会っていた。

 黒司路が突然、都の末寺まつでらに苞寿を尋ねて来たのだ。

 特に理由のない訪問だった。

 おそらく、月子の、文字が見える不思議な力のことを再度確認したかったのだろう。と、苞寿は思った。

 みちは訪問の目的を言わないまま帰っていった。帰り際に月子を監視していたことを謝罪し、そしてもう二度と監視はしないと苞寿に言った。

 本当は完全にやめたわけではなかった。しゅうに監視させていた。だが、みちはいっさいの報告を求めなかった。


 隆鷗が出て行った日、苞寿は、路の祖父が見たこの世ならざる文字と、月子が突然見るようになったくねくねした呪いのような文字こそが共通のものではないか?と、思った。

 更に苞寿の祖父が降霊術の研究をしていたことの関連性も考えた。

 苞寿は、末弟の旋寿せんじゅに苞寿庵を任せて、かつて祖父も住んでいた時鳳司じほうじ家の屋敷へと向かった。その後、黒司路にも会うつもりだった。


 だが何をおいても優先すべきことがあった。出て行った隆鷗に、自身でしたためたふみを直接届けたかった。

 闇に堕ちようとしている、竜鷗りゅうおうの息子、隆鷗を闇堕ちから守ることが何よりも優先すべきことだ。

 隆鷗の父竜鷗は、誐勢かぜ家のなかでは三人の兄に比べると、自由奔放だった。誐勢家の嫡子、後に当主となった時影ときかげと親子ほど歳の差があり、時影の嫡女矩子の方が歳が近かった。そなのせいか、ふたりは随分仲が良かった。矩子の、不思議な能力に気がついたのは、竜鷗だった。それから、まるで使命を得たかのように矩子を守るようになった。矩子が朝廷に上がると決まった時、竜鷗はひどく反対して、矩子を連れ出して逃げたことがあった。すぐに時影に連れ戻されたが、竜鷗は言った。

 「矩子様を朝廷に行かせてはなりませぬ。もし行かせたとあらば、誐勢かぜ家はのちに崩壊いたしましょう」

 時影は、我が子ほど歳が違う竜鷗の言葉を重く受け止めた。ただ、奇異なる力を求められて朝廷に上がるのだ。そののちの矩子の処遇は竜鷗でなくても想像できた。

 そして、それは的中した。

 おそらく上皇の逆鱗に触れ、上皇に忖度した側近、中級貴族藤原家、或いは武士の平家か源家が誐勢家一族を虫けらのように追い詰め、葬ったのだ。誰が討伐したのか探るのは無意味なことだった。それが仕組みだったからだ。その者を追い詰め敵を撃ったところで、また別の者が同じことをする。世の仕組みは変わらない。


 苞寿は、旋寿せんじゅの寺で待っていた隆鷗に会った。

 「何故、寿院という会ったこともない男のところへ行こうなどと考えたのですか?」と、苞寿が尋ねた。

 「月子様がわたしを認識できなくなっていることは分かりました。だが、月子様のなかに、そのじゅいんと言う者の記憶はしっかり残っておりました。見たいではありませんか?どんな男か…?それだけなんですが、駄目ですか?」と、隆鷗は、俯いたまま、小声で言った。

 「いえ、駄目ではありません。正直、今わたしの手元を離れる隆鷗様が心配なだけです。その男にふみを書いてまいりました。どんなことがあろうと、決して心にしまい込まないで全てその男に話して下さい。その男はおそらく無条件にあなたを信じてくれるでしょう」

 好奇心旺盛な寿院だ。隆鷗の、奇妙な話しを疑うはずがないと、苞寿は思った。


 歴代最悪のまもりびととなってしまったが、どんなことがあっても、生き残った誐勢家の子供たちは必ず守る…。

 苞寿は誓った。



 本殿は、月明かりに照らされ、庇下の釣灯籠の灯りでぼんやりと中の様子が見えた。苞寿とみちは、黙って五級ごしなの階段をゆっくりと上った。

 本殿の床に立った時、苞寿の目に映ったのは、たまだった。

 乱れた髪の中から、痩せた面持ちに似合わない眼光が苞寿を捉えていた。苞寿は背筋がゾワっとした感覚を覚えた。

 そして、ゆっくりと全員が座る場所へと歩を進め、獅舎ししゃと、信蕉しんしょうを見ると軽く頷き、真ん中のしとねに腰を下ろした。

 一方、黒司路は、五つのしとねが全て埋まっているのを見ると、信陵寺と、黒根家の間の下座の床にどーんと座った。その時、鬼仙がしとねを譲るために中腰になったが、路はそれを阻止するように軽く右手を上げた。


 二人が落ち着くと、隆鷗の膝に心地良さそうに丸くなっていた猫がむくっと起き上がり膝から離れた。そして、苞寿の前でニャーニャーと鳴いた。


 「苞寿様、ご心配をおかけ致しました。会いたかった。この通りわたくしは元気です」と、矩子は言った。言葉が届いていないことを確認すると、猫の矩子は項垂れた。


 矩子は、自分が猫だということを忘れている。

 「猫ちゃん…駄目ですよ。戻るんですよ」と、隆鷗は言った。

 たまに気を取られていた苞寿は、黒根家側に座っていた隆鷗を見て、微かに微笑した。隆鷗が丁寧に頭を下げた時、猫は隆鷗の膝に戻ってきた。

 「大丈夫です。後で必ず苞寿様には伝えます。少し悲しい思いをさせましたね」と、隆鷗が言った。

 「隆鷗ちゃんの友達、寿院さん?あの方が私の言葉が分かっているような気がしたから、ひょっとして、私の言葉は伝わっているのかもしれないと、錯覚した。考えたら当たり前だ。でも隆鷗ちゃんが分かってくれるから、それだけでいい」と、猫の矩子が言った。

 「私にも聞こえている」と、その時ぽつりとたまが言った。

 「有難う。私の友」と、矩子が言った。

 たまの頬が僅かに赤みを帯びた。

 「寿院は特別です。あれを並の者だと思ったら、頭が混乱しますから、相手にしない方がいいです」と、隆鷗は言った。


 苞寿は、その様子を見て、微かに首を傾げた。何やら普通でない光景だ。一見して、隆鷗がボソボソ囁いたことにたまが答えたようだが、何だか違和感があった。


 ここに月子様がいたら、今の隆鷗から何か文字が出ているかもしれない。

 苞寿は、ふとそんな気がした。

 そんなに長い間離れていたわけではないのに、隆鷗が随分頼もしく見えた。


 「さて、随分お待たせいたして申し訳ありません」と、苞寿が言った。「あなた様が黒根一門宗主、たま様ですか?」


 「左様で御座います。私が宗主の黒根珠で御座います」と、珠が言うと、すかさず黒根家当主、黒根戯山こくねきざんが口を挟んだ。戯山は、もうすでにたまを舐め切っていた。すっかり力を失ったように見える、やつれたたまを宗主と呼ばせるのは黒根一門の恥だと思った。

 「宗主様はご覧の通り病で御座いますゆえ宗主としての役割を果たせておりません。今はわたくし黒根家当主が代理をやらせて頂いております。何か、御用がございましたら、わたくしが伺いましょう」と、戯山が言った。

 苞寿は沈黙して、無表情に戯山を見た。戯山は、圧倒的な存在感を醸し出す苞寿の視線に次第に威圧されていった。戯山の瞳孔がぐるぐる動き出すと、苞寿はたまへと視線を戻した。


 「たま様、わたくしは誐勢かぜ家の墓守をやっております。墓守と申しましても、五百年続いております系譜を正しく記録して、また、間違いのないように正していくのが、我が時鳳司じほうじ家の役割で御座います。時鳳司家も誐勢家と同じく五百年脈々と続いております。そして、今、わたしは、それを正さなければならない時が来たと思っております」と、苞寿は言った。

 たまは、突然やって来た、聞いたことのない信陵寺の墓守が何故そんなことを言うのか、理解できずに一瞬黙った。


 「苞寿様は誐勢かぜ家の何を正そうとしているのかしら?一緒に来た人は誰なの?」と、矩子がニャーニャーと鳴く。

 隆鷗は、首を傾げた。黒司路が義忠の屋敷に来た時は、ちょうど虚ろでしゅんに会っていたから、隆鷗は知らなかった。

 しかし、たまが小声で答えた。

 「私の実弟…」

 「たま様の弟君?何か関係があるのかな。隆鷗ちゃん。私、もう一度(たま)様の因果の木を見てみるから、何かあったら私の背中を叩いて合図して」と、ニャーニャーと鳴く。


 その様子を寿院が一部始終横目で見ていた。

 猫が鳴き…隆鷗が首を傾げ…たまが唐突に…私の実弟…と呟いた。

 先程もたまは、突然…私にも聞こえている…と、言った後に隆鷗が独り言を呟いた…寿院は特別です。あれを並の者だと思ったら、頭が混乱しますから、相手にしない方がいいです…そんな言葉が聞こえてきた。

 寿院は、何かが起こっているなどと思わない。すでに猫が何を言っているのか想像していた。


 「それは、我ら黒根家に関係していることなのでしょうか?誐勢かぜ家、時鳳司じほうじ家は、わたくしには聞き慣れない名前ですが、黒司家当主は聞いたことがありますか?」と、たまが実弟に尋ねた。

 みちが顎を撫でながら、考えた。

 「誐勢かぜ家とは、以前、ひとときの間だけ都を騒がせた、鬼の一族となにか関係があるのでしょうか?朝廷が鬼の討伐に向かったと、まるで童歌わらべうたのようなものが流行っておりましたが…」と、みちは昔を思い出していた。しかし、その歌の元になっているのが、たまが空高く虚ろを開いたあの日のことが元になっていることをたまは知らなかった。みちは、そのことは黙っていた。朝廷が何かを隠す為に故意に流した噂話に違いないと思っていた。

 「鬼の一族…?はて、知らないが…?」

 「もう、随分昔の話しゆえ、わたしの記憶も確かとは言えない。それにあの頃の朝廷は、院政だの親政だのと誰が誰と争っているのか、非常に混乱いたしておりましたので、そんな混乱のなか、そんな話しなど一瞬に忘れられてしまったから、今ではなかったものとなっております。突然、変なことを申し上げました」


 みちは、たまと共に、近衛天皇が呪詛により亡くなったという噂の真意を聞きたいということで、藤原家を名乗る者から秘密裏に召喚されたことがあった。そこには十名ほど選りすぐりの呪術師も呼ばれていた。みちは、その中にいた矩子の姿が何故だか心に焼きついていた。名前もはっきりと記憶した。何故矩子のことが強烈に印象に残っているのか、みちには分からなかった。だが、決して良い印象ではなかった。矩子の瞳を前にすれば、全てを見透かされるような恐怖を覚えたからだ。それはまだたまと矩子が朝廷に上がる前の話しだった。たまが朝廷に上がって暫くの時が過ぎた頃、たまが矩子という名を口にするようになった。矩子は女房として朝廷に上がり、早い段階で女御となり入内した。まるで初めから約束されていたかのようだった。

 たまが矩子の名を口にした時、すぐにあの時の女子おなごだと分かった。

 藤原家を名乗る者も怪しげだったが、その藤原家の者の傍には顔を隠した、恐ろしく高貴な婦人がいた。後から考えると、美福門院ではないかと思った。

 矩子は、美福門院の縁戚の養女となり朝廷に上がっている。あの時、美福門院は力のある呪術師を物色していたのではないだろうか。と、みちは憶測した。

 あの時、矩子を見かけなければ、面差しが似ていたあの物乞いの子供とはただすれ違っただけで終わっただろう。おそらく今日のこの日を迎えることはなかった。

 さて、凶と出るか吉とでるか…?


 …鬼の一族…

 一方隆鷗は、その言葉を聞いたことがあった。

 

 ほんの少し前…。

 なんだったかな?

 鬼の一族…。そうだ、白水優雨幻しろうずゆうげんが言った言葉だ。

 隆鷗が舞った時、それを見て白水優雨幻が口にしたことを思い出した。それはもしかして、矩子に繋がっていたのではないか?と、隆鷗も思いを巡らせた。


 「黒根一門宗主(たま)様、あなたには不思議な力がある?そうではないですか?」と、苞寿が言った。

 「突然、何を言うんですか?」と、みちが言った。

 苞寿は、黙ってたまを真っ直ぐ見た。

 「そんな話しはしたくはない」と、たまは小声で呟いた。

 「何と仰いましたか?」と、苞寿が尋ねた。

 その時、唐突に寿院が口を挟んだ。

 「あるよー」

 苞寿は一瞬驚いて、寿院を見た。


 「また、お前は…いつもそうだ。場をわきまえずすぐに出しゃばる。先生は宗主に聞いているのだ。お前は口を挟める立場ではない!」と、元兄弟子の信蕉しんしょうが怒鳴った。

 「失礼…」と、一瞬寿院は萎縮した。

 それを見た隆鷗は、寿院の萎縮が面白かったのか、ぷっと吹き出した。

 しかし、寿院の萎縮も一瞬だった。ずっと黙り込んでいるたまに痺れを切らした。

 「えっと、本物の宗主様、黙っていては駄目ですよ。誤魔化すつもりなら苞寿様には通用しない。苞寿様はいつも真実を見つめていらっしゃる。それともずっとそうして黙っているつもりですか?」と、寿院が言った。

 「だからお前は黙っていろ。先生は何刻でも待たれることは分かっているだろう!」と、信蕉が言った。

 「そうだ。苞寿様は何刻でも、真実が明らかになるまで待つんだ。わたしはそのたびに眠りこくるんだが…」と、寿院が言う。

 だが、たまの口は重い。

 「なんだ?見ず知らずの者が突然やって来て、勝手なことを抜かすな!」と、黒根家当主が怒鳴った。

 「ぬしは、この話し合いで一言も口を開くな」と、静かな口調でたまが言った。

 寿院がクッと笑う。

 「宗主様、わたしは初めてうつろという言葉を耳にしましたよ。わたしたちは異界と名付けていた。だが、いつのまにか隆鷗君が異界と言わなくなり、うつろと言い出した。まったくわたしは置いてけぼりだ。宗主様はご存じでしょう」と、寿院は言った。

 その時、信蕉が何か言おうとしたのを苞寿が片手を出して阻止した。

 「わたしはね、宗主様、何も見えないし、何も感じないんですよ。それでも分かるんです。先程、あなたが虚ろの入口を開き、化け物を出したことくらい。隆鷗君が必死で闘っている時、見上げるように首を曲げていた。随分と大きな化け物でしたね。まぁ、それでも隆鷗君は退治したんだけど…」

 寿院の言葉は、信陵寺の者は勿論、黒根一門の者さえ驚いた。


 少し違う…と、隆鷗は愉快そうに微笑んだ。


 「あなたは見えないのに、何故そのようなことが起こっていたと分かるのですか?」と、驚きを隠せないたまが言った。

 「宗主様、こうして苞寿様が直接訪ねてきたんだ。あなたを敵だと思っていないからだ…。とにかく話してみたらどうだろう?」と、寿院が言った。

 「敵だと思っていないのなら、兵隊ほどの数を何故連れて来たのだ」と、鬼仙が尋ねた。鬼仙の貧民街が全滅したと聞かされて黙っていられなかったのだろう。

 「黙れ…!」と、寿院が鋭い口調で言った。「我らを問答無用で襲ってくる連中だ。苞寿様の弟子なのだから心配で来るだろう。実際兵士や武人ではないのだから。先に手を出したのはあんたの配下だろう。決して苞寿様は手を出さないから、黙ってこの話し合いを見届けろ…!」

 寿院の言葉に反論しようとした鬼仙だったが、思い止まった。

 「宗主様は、虚ろから化け物を出した後、本当に疲れたように倒れ込んでしまった…」と、寿院が話しを続けた。

 「もうよい…。認めよう。私には奇異なる力がある。これでいいのか?」と、たまは、苞寿を睨んだ。

 「それは、他者を傀儡のように操る力なのでしょうか?」と、苞寿が尋ねた。

 「そうだ」と、たまが答えた。


 一瞬、隆鷗と寿院が顔を見合わせた。ほぼ同時にかいのことを思い浮かべた。


 「あなたの親御さんのどちらかがやはり同じ能力を持っていたのでしょうか?」と、再び苞寿が尋ねた。

 「母がそうだった」

 「祖父母は?」

 「祖父母にはなかった。だが、祖父の母はわたしと同じ力を持っていたと聞いている」

 「男の御子には力が弱まるのだろうか?」

 「いや、力を受け継ぐことはない…と、祖父は言っていた。だから力を受け継がなかった祖父の子、私の母は力を持っていた。そして、私も力を受け継いだ。だが、みちは全く受け継いでいない」

 「そうでしょうか?本当に大父様は力がなかったのでしょうか?」

 「なかった」

 「しかし、『異文の書』を書かれたとか?」

 「『異文の書』が書かれた経緯ははっきりしていない…物語のような口伝があるだけだから、何とも言えない」

 「いえ、『異文の書』が存在しているという段階で大父様に受け継がれた力があると考えるべきではありませんか?」

 「文字が見える…?実際、そんな力を持っている者をわたしは知っている。わたしと隆鷗君は、しゅう君から『異文の書』の物語のような口伝を聞いている。だが、ひとつも物語のようだと思わなかったね。すんなり受け入れられたよね!隆鷗君…」と、寿院が得意げに言った。


 「えっ?わたしは知らない…」と、隆鷗は混乱した。隆鷗と月子との繋がりなど寿院は知らないはずだった。寿院といると時折混乱する。寿院が何処まで知っているのか?境界線が分からなくなる。寿院が知るはずのないことを知っていたりすることがある。だが、だいたい鎌をかけられて結果的にばらしてしまったりする。

 隆鷗のそうした戸惑いをよそに寿院は話しを続けた。

 「わたしたちからしたら、普通にある話しだ。異界の文字…いや、虚ろの文字と言うべきか?実際、隆鷗君は異界から出て来た、鎌首をもたげた白蛇と闘っている。なんと、わたしも隆鷗君のご指導の元、隆鷗君を救うために結局わたしが白蛇を退治した…!どうだ。そんなことを考えたら、異界から文字が溢れ出るなんて、普通だろう!」と、更に得意げに寿院が言った。


 苞寿が愉快そうに微笑んだ。そして、隆鷗を見つめた。寿院ならきっと、月子から虐げられ、傷ついた隆鷗を立ち直せるだろうと、思っていた。じつに楽しそうにしている。


 「文字を見る者…?そんな者が存在するのか?」と、たまが驚いて尋ねた。

 「えっ?白蛇のくだりの方がすごくないですか?」と、寿院が言った。

 「お前、話しの焦点がずれ始めているぞ」呆れて信蕉が言う。


 その時、猫がニャーニャー鳴いた。

 矩子の言葉が隆鷗には聞こえた。だが、たまは聞いていないようだった。

 「虚ろにいた時は、虫に抑えられていたから、たま様の因果がぼやけているところがあったから、正確ではなかった。でも今、はっりと見てきた。苞寿様が正そうとなさる理由が分かったような気がするけど、もし私が思っていることを正そうとなさっているのだとしたら、苞寿様が何故それを知り得たのか?私には分からない」


 「待て待て…!」突然、黒根当主が怒鳴った。


 「私、今から隆鷗ちゃんに伝えるから、それを苞寿様に伝えて。すごく…」

 ニャーニャー猫が鳴く。


 「まるで尋問じゃないか…!?たまになんでそんな尋問をするのだ!?曲がりなりにも我が宗主だ!」黒根戯山が怒鳴り続ける。


 「なんなの?この人、うるさいわね。隆鷗ちゃん私の声聞こえている?」と、ニャーニャー猫が鳴く。

 「うん、大丈夫、聞こえている。この人は無視していいよ」と、隆鷗が小声で答える。

 「良かった…」


 「信陵寺など、何処の寺の者か分からない者が、偉そうに、何を言う!」と、戯山が怒鳴る。


 「うーんもう、声が大きいわね」と、矩子が言う。

 ニャーニャー……


 その時だった。

 中腰になって寿院が怒鳴った。

 「今、猫が喋っているだろうが、静かにしろよ!!」


 寿院の怒鳴り声に皆、呆気に取られて、静かになった。


 猫の矩子も驚いて、寿院を見ずにはいられなかった。

 隆鷗は、笑うのを必死に堪えて、肩がわなわな震えている。


 そして、たまは、何が起こったのか、茫然とキョロキョロと周囲を見た。


 「何言っているんだ。阿呆だこいつ」と、鬼仙がぷっと吹き出した。

 鬼仙の後ろに控えていた流歌るかが大笑いした。

 「ギャハハハハ…!可笑しいよ。なんだよ、猫が喋っているって…喋るって…この人には何が聞こえているんだよ…?」

 そのうち流歌るかは床を転がり始めた。



本殿での苞寿と黒根珠との話し合いはどんどん意外な方向へ進んでいく…。

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