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退屈な刹那


隆鷗は、亡くなった父、竜鷗の姪だという矩子に会った感動を心の中に閉ざしていた。しかしそれは隆鷗の意思ではなく、悲しい過去を忘れる為にいつのまにか記憶に蓋をしてしまった結果、感情が希薄になっていたからだった。しかし矩子の何気ない一言で隆鷗の感情が溢れ出た…。




 本殿の灯火は殆ど消えていた。

 月の光と、虫の怪物に応戦した隆鷗の激しい動きに耐え抜いた、庇下の釣灯籠の灯火に照らされているだけだった。


 たまは、宗主の従者三人に取り押さえられた流歌るかの前で、床に両手をついて項垂れていた。かつてのたまから想像出来ないほど弱々しく、か細い姿だ。

 そんなたまを見て、宗主から次第に恐怖と緊張が消えていった。

 宗主は、たまに歩み寄って、見下みおろろした。

 「何故、わたしの断りもなく、屋敷を出た?だからこんな子供に狙われたんだ。其方は、もう衰えてしまった。こんな子供でさえも其方を殺せると思われるようになったのだ。わたしに背くのなら其方を守れぬぞ」と、宗主が言った。

 その時、宗主の背後でそうが忌憚なく笑った。

 「流歌は自由なの。鬼仙きせん殿が流歌を守る為に、あの貧民街を作った。流歌の住処を隠蔽しているのよ。だから流歌には、宗主様の地位なんて関係ない。そうでしょう。流歌…」と、そうが言った。「まぁ、知られているけどね。知らないのは父上ぐらい…」

 「黙れ!今、お前、宗主様は誰を差して言った。たまはもう宗主ではない。宗主はわたしだ」と、宗主は、素早くそうの傍に寄ると、頬を殴った。

 「そっち…?」筝は頬を抑えながら呟いた。そして再び呟いた。

 母上の力を受け継げなかった私を父上は憎いのですね。母上の力を受け継げなかった私を父上は人とも思えないのですね。母上の力を受け継げなかった私など消えた方がよろしいのですね…。

 それを唱えるとそうは、たまの影に隠れて何も出来ない父の存在をひとときの間だけでも小さき者に貶めることができた。


 「父上、流歌を子供だと馬鹿にしているけれど、鬼仙殿が何でも知っているのは流歌があらゆるところを覗き見る能力があるからだ…。だから鬼仙殿は優れた戦略を企てることが出来る。鬼仙殿はみち叔父上の弟子だった…。叔父上は、黒根家一門など興味がないから、さほど恐れておらぬのは分かるけど、でも父上は、しゅんの能力を恐れていた。だけど…何故、弟子だった鬼仙殿を恐れていないのか私には不思議だ。何故、鬼仙殿が父上に従っていると勘違いしているのか分からない。一門皆、鬼仙殿が宗主になることを望んでいるのが分からないかな?父上が宗主を名乗るようになって、黒根家一門ばらばらだ。いい気味だけど。父上は宗主の器ではない。誰も父上を宗主とは言っていない」

 筝は、怒鳴り散らした。


 宗主は、筝の頬を殴った後、たまの元に戻ろうとしたが、すぐに踵を返して、筝のところに戻った。そして感情のまま何度も殴った。

 「娘だからって、何でも言っていいと勘違いするな!お前は黒根家の名を笠に着て好き勝手にやっていることをわたしが知らぬとでも思っているのか?香舎家を勝手に動かして、雅楽寮の白水家の乗っ取りをはかったのはお前だろう!娘だからとわたしが容赦するとでも思ったか?」


 宗主の容赦のない殴打に、筝は気を失いかけた。

 「もうやめろよ」と、流歌が呟く。「本当救いようのない親子だ」


 「うるさい!なんだなんだなんだお前は?!餓鬼のくせに、それが宗主に対する口の聞き方か!」宗主は、唾をはきながら叫び散らし、流歌も殴り始めた。「くそくそくそ!ああああもう、こいつ殺せ!殺されても仕方ないよな!たまを殺そうとしたんだから!」

 その時、たまが小声で囁くように言った。

 「やめぬか…」

 ほんの小さな声だったが、どんな小さな声でも宗主はたまの声を聞き逃すことはなかった。


 宗主の喚き散らす声がやむと、本殿は静まり返った。


 黙り込んだ宗主の口が開く。

 「だけど…だけど…。全部(たま)が悪いんじゃないか?なんで枯渇するんだ。なんで能力が衰えるんだ。おかしいだろう。いや、衰えてしまったのなら仕方ない。だが、屋敷に籠ることはないだろう。せめて宗主として必死に誤魔化せばいいだろう。わたしの為に…。今からでも間に合うよ。ねっ。たま


 その時、そろりそろりと寿院と、猫を抱いた隆鷗は廊下を歩いていた。そして蹲っていたそうの傍で立ち止まった。

 「えっ?鬼仙きせんいないじゃないか?」と、寿院が囁いた。「騙されたのか?」

 「って言うか…これ、わざわざ虚ろに送らなくても、この家族、勝手に自滅するんじゃない」と、隆鷗がぼそりと言った。

 顔を腫らしたそうがふたりを見上げた。

 「な、なんだ…き…さまら…は?」

 辛そうに筝が言う。

 隆鷗は、中腰になって筝の顔を覗き込んだ。

 「君、大丈夫…?」

 顔を腫らしている筝から、隆鷗は目が離せなかった。首を傾げている隆鷗に不快感を覚えた筝が怒鳴った。

 「誰だ?」

 その声に隆鷗は思わず立ち上がった。


 筝の言葉に宗主が振り返った。

 「なんだ貴様らは?……お前らは何をしている」と、宗主は、そう流歌るかの周りで、ただ構えているだけの従者を罵った。

 流歌を取り押さえている従者が三名。残りの従者五名が一斉に寿院と隆鷗に襲いかかって来た。隆鷗は猫を守る為に背中を向けた。シュッシュッという風を切るような音が聞こえてきたかと思うと、やがて静かになった。隆鷗が振り返ると、従者五名は床にのびていた。流歌を取り押さえていた三名も、寿院の強さに驚いて、流歌を離してあたふたと逃げていった。


 「なんだ?!お前は誰だ?」と、宗主は腰を抜かした。

 「隆鷗君の言う通りだ。わざわざ虚ろへ送るほどでもないなぁ。こりゃぁ勝手に自滅するわ…」と、呆れるように寿院が言った。

 こうした状況になるのは鬼仙も予測できただろうに。こんな小狡そうな宗主などいつでも引き摺り下ろせるのではないのか?

 これが大きくなった郎党の不自由さなのだろうか?


 「ああぁー、君!虚ろで会った人だ」と、突然、流歌が叫んだ。「わー感激だ。もう会えないのかなと思っていたよ」

 つい先ほど宗主に殴られたばかりだというのに元気を取り戻した流歌が満面の笑みを浮かべた。

 隆鷗は、場違いの歓迎に驚いた。

 そして、俯いていたたまが顔を上げた。


 あの時の少年だ。娘と繋がった時、一瞬だけ見えた少年。その顔は脳裏に焼き付いていた。

 これまで項垂れていた珠がゆっくりと立ち上がった。


 隆鷗は、二人から同時に熱い視線を浴びた。

 「君がこんなに近くにいる人だなんて感動だ」と、流歌が隆鷗に歩み寄っていく。

 そして、たまもまた希望と期待の籠った視線を向けながら、ゆっくりと隆鷗へ歩み寄ろうとしていた。


 そんな状況を首を傾げながら、不思議そうに寿院が見ていた。


 宗主は、従者がいなくなった、不利な状況に怖気付き声を荒げて叫んだ。

 「誰かおらぬか?曲者じゃー!であえであえぇぇぇぇ」その声が月夜に響く。


 その時、まるで計算していたかのように鬼仙きせんが姿を現した。

 「如何いたしましたか。当主様」と、五級ごしなの階段を上り、広い本殿に立ちはだかった鬼仙きせんは、凄まじい速さで宗主の目の前に立っていた。

 「鬼仙きせんか?義忠はどうした?」と、宗主は震えながら言った。

 少年が鬼仙の弟だと知りながらも殴ってしまったことを宗主は後悔した。更に不利な状況に陥ったと落胆した。

 鬼仙きせんは、宗主を冷酷な表情で見下ろした。

 「当主はお忘れですか?いま築地塀ついじべいの外で、大勢の兵との睨み合いが続いておりますので、義忠殿は指揮をとっておりますが…?」

 「おぅ、そうだった…。鬼仙きせんよ、わたしは体調が良くない。屋敷に戻って姿を晦ますから、たまそうを頼むぞ」と、宗主は、ゆっくりと立ちあがろうとしたが、鬼仙きせんが怒鳴った。

 「何故、ここを離れられると思われた!」

 鬼仙きせんの声に驚いた宗主は、再び腰を抜かした。


 呆然と立ち竦むたま。しゃがみ込んで項垂れている筝。流歌は顔を腫らしている。それを見た鬼仙きせんが宗主に言った。

 「たま様の見たこともないやつれた姿、それにそう様に至っては誰かに殴られでもしたご様子。いったい何が起こったのですか?」静かな口調で鬼仙きせんが言う。

 「兄上、僕も殴られました」と、流歌が口を挟んだ。

 「曲者はあの二人ですか?でしたらあの者たちの仕業というわけですね…」と、鬼仙は寿院を見た。

 寿院もまた、恐ろしく冷酷な顔をした。鋭い眼光がまるで一本の細い線を描き出したように鬼仙に突き刺さる。

 ほんの一瞬、鬼仙はたじろぎ、思わず腰の刀に手をかける。寿院にはすきがない。身動き一つしない。刀の柄を握っていた鬼仙だが、このまま抜きながら高速で動いても、寿院を斬る絵が見えない。


 気づかなかった。この男は強いのだ。おそらくわたしは負ける。

 そう思った鬼仙は、刀から手を離した。


 「違うよ。兄上、わたしを殴ったのは、そいつだ…」と、流歌が宗主を指差した。

 鬼仙は、宗主を睨んだ。

 「いや、違うんだ。その子がお前の弟だと知らなかったのだ。その子は、たまを刺そうとした。だから仕方なかったんだ」と、宗主は腰を抜かしたまま後退りした。「なんで、お前の弟はたまを刺そうとしたんだ?まさか…まさか…お前は本当に宗主の座を狙っているのか?造反するつもりなのか?反乱か?」

 宗主の言葉に鬼仙は、嘲笑を浮かべた。

 「僕は刺したりしないよ」と、その時、流歌があっけらかんに言う。「僕はこのおじさんを待っていた。だから叔母さんには瞬きしたり、いろいろ合図を送っていたんだよ。でも突然、泣くんだもの。叔母さんは本当に春様のことが悲しかったんだ。兄上、やっぱり叔母さんは関係ないと思う」


 鬼仙は黙っていた。本殿は沈黙に包まれた。

 寿院は、鬼仙が時を稼いでいると感じた。

 いったいこの男は何を考えているのだろう?

 まだ、誰の掌の上で踊っているのか分からないが、今しばらく踊っていよう。もうすぐ分かる…きっと。


 隆鷗は、たまの視線を感じた。ちらちらたまを見ると、悲しげに微笑んでいた。やがて隆鷗もたまから視線を離せなくなった。身体のなかにいた虚ろの虫のことを考えた。矩子がすごく複雑なことを言っていたのが所々聞こえてきた。だが、虫の怪物と闘っていた隆鷗には何の話しだか理解できない。冷静になってから少しずつ脳が補完し始める。


 虫に操られていた…。とかなんとか?


 猫の矩子は、何故かずっと黙っている。眠ったのだろか。猫のように…。


 やがて、本殿に義忠の従者がとびきり急いでやって来た。


 「宗主。敵は信陵寺と名乗っています。ですが僧兵ではありません。敵は宗主と話したいと申しております。義忠様が伝えるようにと申しております」

 義忠の従者が叫ぶ。

 「信陵寺…?なんだ、聞いたことがない寺だ」と、宗主が立ちあがろうとした時、鬼仙が言った。

 「宗主とは誰のことを言っていた?」

 「義忠様からたま様に伝えるようにと申しつかっております」と、従者が言う。

 鬼仙がたまを見た。

 たまが俯く。「私のこんな姿、誰にも見られたくないゆえ会いたくない…」と、ぼそりと呟いた。

 「いえ、宗主様がお会いにならないと、この場を収めることができません。なんとかお会いになって下さい」と、鬼仙が言った。

 「其方が何とか収めよ」と、たまがか細い声で言った。

 「たまには無理だ。今はわたしが宗主だ。わたしが会おう」と、宗主が再び立ちあがろうとしたが、鬼仙が阻止した。

 「おそらくあなたでは無理です。余計に拗れて無駄な血を流すことになる」と、鬼仙が鋭い視線を向け宗主に言った。


 その時、突然、猫の矩子がささやいた。

 「隆鷗ちゃん。あなたが会うように言ってみて。信陵寺の者だと名乗るのよ。あなたの言うことだったらきっと聞くわ」

 隆鷗には矩子の言葉が咄嗟に理解出来なかった。頭のなかで様々なことが複雑にくるくる回っている。

 お家のこととか、物心ついた頃からずっと何かから逃げていた………。思い出したくないことの方が多くていつの間にか記憶があやふやになっていたことが溢れ出てきた。


 うん…?なんでくるくる…するんだろうか?

 父上の姪だという矩子様に会ったことが嬉しかったのだろうか?

 今さらながら心の奥に燻っていた感情に隆鷗は気がついた。


 「うん、分かったよ」と、隆鷗は答えた。


 「あのぅ…」と、隆鷗は、何気なくたまに歩み寄った。「わたしは信陵寺の者です。信陵寺は決して悪いところではありません。あなたに危害など加えることはないでしょう。もし何かありましたら、あの寿院が必ずお守りしますので、会ってみては如何ですか」


 「えっ?」と、たまは一瞬、目を見開いて隆鷗を見た。 

 その時、たまの表情がかすかに明るくなったような気がして、隆鷗も思わず目を見開いた。

 「信陵寺…?信陵寺?それは何処にあるのですか?其方はそこにいるのですか?」と、たまが尋ねた。

 「えっ?今は…」と、隆鷗が答える間も無く、たまが言った。

 「いいわ。会うわ。でも、其方がわたしの隣りにいてくれたら…だが」

 「えっ、それは人質ということですか?」と、隆鷗は少し怯えた。

 「いえ、その方たちとお話しが終わったら、其方と話したいだけだ。それだけだ」

 「わたしと話…?寿院と一緒だったら…」

 「寿院?ああ、あの者か。勿論だ」


 寿院が少し離れたところから見ていたので隆鷗は、手招きした。

 同時に鬼仙が、義忠の従者に伝えた。

 「宗主様はお会いになるそうだ。ここにお通ししろ」


 「おいおいおい待て!」と、宗主は、やっと立ち上がった。「勝手なことをするな。信陵寺など知らぬ、そんな名もなき寺のごろつきなど、すぐに倒せるだろう!山の兵も全て出しているのか?」

 「勿論です。我らの方が多いです。が、しかし、門下は全滅です。そして、貧民街の者たちも全てやられました。しかも向こうは素手です。一人ひとりが強い。武器を持ってしても我らより強い…」と、従者が言った。

 「何だと!まだ、義忠の配下がおるではないか?義忠の配下は強いだろう」と、宗主が怒鳴る。

 「義忠様は手を出すつもりはないようです。ただ両者睨み合っているだけです。そして、信陵寺の要求に応じれば、無事に話しが終わった時点で去ると言っています。門下も貧民街の者も気絶しているだけで、死人はひとりもいません。義忠様もこれ以上は大事おおごとにしたくないと仰せです」と、従者が声を張り上げて答える。

 「何を何を何を…」と、宗主が狼狽えると、元気を取り戻したたまが怒鳴った。

 「ごちゃごちゃうるさいぞ!ぬしは下がれ!」

 たまの声に怯えた宗主は、再び腰を抜かした。

 だが、宗主が食い下がった。

 「下がれとは何だ?!曲がりなりにもわたしは宗主だ。誰か、今すぐ御老院の方々を呼べ!あまりにも勝手がすぎる!」

 「御老院だと?何が御老院だ。笑わせるな。私を抑える為だけにぬしが勝手に設けておるが、全員(ぬし)の身内ではないか?誰一人私の血筋はいない。そんな者共を呼ぶ必要はない!」

 たまはますます元気になっていった。

 「たま、後悔するぞ。今のお前があるのは我ら黒根家があったからだ。今にも消え入りそうな姉弟きょうだいを拾ってやった恩を忘れたか?」と、宗主が言った。


 「ふん、その姉弟を利用してここまで大きくしたのは誰かな?」と、ぽつりと鬼仙が呟いた。


 「感謝しています…とでも言ってもらいたいか?私には地獄だったぞ。その御老院共から私がどんな目に遭ったか知らぬとは言わせぬ。そもそも私はぬしが宗主になるのをいつ認めた?私は認めておらぬ。今度余計なことを言ったら…鬼仙…斬れ!」と、たまが怒鳴った。

 「承知いたしました」と、静かな口調で鬼仙は言った。

 それから宗主は一言も言葉を発さなかった。


 半刻ほど過ぎた本殿には高灯台や燭台に火が灯されていた。そして、十枚のしとねが準備された。

 やがて、信陵寺の信蕉しんしょう獅舎ししゃ瀬羅せらが本殿の五級ごしなの階段を上がり姿を現した。そして、黒根家側に座っている隆鷗と寿院にいささか驚いたが、薄く反応しただけだった。

 隆鷗と寿院はたまの両脇にいた。寿院の隣りには鬼仙。隆鷗の隣りには黒根家当主が座っていた。


 また、寿院は…。何処にでもいるな。すぐに首を突っ込む。変わらないな。

 信蕉は、そう思いながら、しとねに腰を下ろした。そして、たまを食い入るように睨む獅舎と、隆鷗の膝で丸くなっている猫を見て、なんだ…?と、不思議に思う瀬羅が同時にしとねに腰を下ろした。三人は真ん中の茵を避けて座った。


 隆鷗は、三人に軽く会釈して、バツが悪そうな表情を浮かべた。寿院は、ただ目を瞑り腕を組んでいた。

 少しの間皆、沈黙した。やがて、たまが口を開く。

 「私が宗主の黒根珠です。両脇に座る者を見て、驚かれたのではありませんか?左手にいる御子のことは正直私は存じ上げておりませんが、聞くところによると信陵寺の者だと自ら名乗られたゆえ、特別に私の隣りに座って貰ったのです。そして、右手にいる者のことを私はまったく存じ上げておりません。ただ、この御子が何かあったら必ず私を守ってくれると、申したゆえ反対側の隣りに座ってもらいました。驚かれただろうが、他意はございません。今日は内々な話しということでご留意下さい」と、静かに言った。

 「私共の者がお世話になっております。有難く存じます」と、信蕉が言う。

 「さて、私に話しがあるとはどういったことでしょうか?」と、珠が切り出した。

 「まだ守主あるじが来ておりませんので、今しばらくお待ち下さい」と、信蕉が言う。

 「守主あるじ…?」と、珠が尋ねた。

 「はい。守主あるじです。話しがあるのは守主あるじなのです」と、信蕉が答えた。


 「虚ろにいると、時を感じない」と、突然、矩子が語り出した。その声はたまと隆鷗にしか届かない。「時を感じないから恐怖を感じることはない。ゆらゆらと刹那だけがある。時を感じないから歳も取らない。少女はずっと少女のままだった。すごく長い間虫と戯れた。少女と虫は少しずつ少しずつ、本当に少しずつ戯れることに退屈していった。時の概念を抱きはじめたのだ。過去の存在に気づいてしまった。過去から今。刹那には長い長い刹那が連なっていた。連なる刹那を見てしまうと、見えないはずの刹那が見え始めた。未来の刹那だ。見えない刹那が連なっていく。刹那の行方…ただ大きくなっていくだけの退屈な刹那が見えた。退屈は更に大きくなっていった。どんどん、どんどん。少女は恐怖を覚えた。恐怖がどんどん大きくなっていった。その時だ。少女が虫を受け入れた。虫はしたたかだ。少女から代々延々と恐怖を植え付けてきた虫はあなたの中で怪物となっていた…。虫がいなくなっても耐えているあなただからこそ虫を追い出せたのだと私は思う。尊敬する…」


 退屈だからって、人を操って遊んでいたとでも言うのか…?

 たまは、悍ましくさえ思った。


 「隆鷗様…猫…だよね。大丈夫?すごく鳴いているけど、逃がしてあげた方がいいんじゃないのか?」と、気になって思わず瀬羅が言った。

 「うるさい!その猫はわたしの猫だ!逃すわけないだろう!連れて帰るんだよ…です」と、寿院が怒鳴った。

 「おぅ、びっくりするだろうが。ああ、いや、猫可愛いな。実物は初めて見たよ。わたしも後で抱かせてくれ」と、瀬羅がでれーとする。

 「静かにしないか?まったくお前らは緊張感がないな」と、獅舎が怒鳴った。


 たまが笑った。


 そんな時、苞寿ほうじゅみち五級ごしなの階段を上がって、姿を現した。


 ……まさか?踊らされていた…掌…か。

 寿院は、呆然とした。



何故、本殿に苞寿と路が一緒に姿を現したのか?寿院は呆然とする。掌で踊らされていたことが考えていた以上に複雑だということだけが寿院に理解できた。寿院には何も予測できなかった。


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