舞台
寿院は、尊敬する苞寿から、隆鷗は嘘をつかないという文を読み、これまで一度も隆鷗を疑ったことがない。不思議なことを言う隆鷗の言葉を空想することで、見えないモノが見えてくる。理解不能な言葉を補いながら、パズルのように組み立てていくうちに、ある瞬間ピースがはまる。それは寿院が様々な人から聞く言葉を整理してゾーニングする習慣があったからできることだった。
本殿の廊下の端で蹲って震えていた猫が立ち上がった。
そして、珠の前でうつ伏せに倒れている流歌を凝視すると、今にも飛びかかる体制をした。
寿院がそれを阻止しようとした。
「駄目でちゅよ…。そのまま…そのままじっとして…大丈夫でちゅよ」
寿院が猫の背中を両手で抑えた。その時、猫は飛び上がって、背中を離した寿院の手の甲を引っ掻いた。そして、隆鷗に走り寄りしがみついた。
「どうちたんでちゅか?隆鷗君が驚いてまちゅよ」と、寿院は、抱っこの構えをしながら、猫に近寄っていく。
「なんだこの男は…うざいなぁ?」と、猫が言う。
だが、その声は寿院には届いていないようだ。
隆鷗は、猫を抱き抱えた。
「やっぱり…。わたしの目の錯覚かと思ったのだけど…。こんな獣の中に入って大丈夫なんですか?」と、隆鷗が囁く。
「隆鷗君、変だな?何、猫に話しかけているんだ?その猫はわたしが拾ったのだが…」と、わずかな怒りを見せて寿院が歩み寄る。
「馬鹿なの。早く逃げるよ!ここは戦場になるよ」と、隆鷗は言った。
「なんだよ戦場って…?」と、寿院が首を傾げた。
「だって、何処かの兵が攻めてきているんでしょう?勢力争いか何かで…」
「まだ言ってるのか?違うって言っただろう」と、寿院が言う。
「いや、結局聞いていない。ここを囲んでいる兵隊って何処の兵なんだよ?」と、隆鷗は尋ねた。
その時、流歌が起き上がろうとした。
「ああ、流歌って子が起き上がるよ。こっちはこっちで巻き込まれるのはごめんだ」と、隆鷗が言った。
「あの子は誰なの?」と、猫が尋ねた。
「あの子は、流歌って子だ。異文の書を理解して、虚ろに出入りしている」と、隆鷗は猫に言った。
「異文の書っていうのは何?」と、猫が尋ねる。
「虚ろの文字だと言われている」と、隆鷗は答えた。
「お前が春様を追い詰めてないと言うのなら、誰が謀った。父が悲しんでいた。黒根家の掟を黒司家が負う必要はないはずだ。始祖様の力を引き継いだ者以外は能力を受け継ぐ子供は産めないのだから、なのに、誰かが宗主に吹き込み秋様と春様に双胎の掟を背負わせた。それは誰だ!」と、流歌が怒鳴った。
流歌は、路のことを父と言っていた。流歌には黒司家は家族だったのだ。
「それは、春様の力を恐れたからだ。双胎の掟など何も関係なかった。僕は春様を陥れて殺した者を決して許しはしない。勿論、宗主もそしてあなたもだ。皆この手で殺してやるのさ」と、毅然と流歌が言った。
珠は、泣き崩れた。
その時、従者数名を伴い宗主が五級の階段を登っていた。その中には筝もいる。
「一応、この舞台から降りた方が良さそうね」と、猫が言った。
隆鷗は、猫を抱いたまま用心しながら廊下から飛び降りて身を隠した。その後を寿院が追いかけて、隆鷗の隣で同じように身を隠した。
「珠どうしたのだ?見張り番が知らせに来た。其方の様子が変だと。何を泣いているのだ?その者は何をしているのだ?確か…?」と、本殿に入ると、宗主が珠に歩み寄る。
「その者は流歌という、鬼仙殿の弟君です。お父上…。鬼仙殿と同じように不思議な術をお使いになるのですよ」と、宗主の背後で筝が言った。
「黙っておれ…わたしは珠に話している」と、宗主が不快げに言った。
筝は、黙った。
そして、暫くすると、ほんのわずかな声を絞り出して呟いた。
母上の力を受け継げなかった私を父上は憎いのですね。母上の力を受け継げなかった私を父上は人とも思えないのですね。母上の力を受け継げなかった私など消えた方がよろしいのですね…。恨めしそうに珠を見つめていた筝の視界が、流歌の手からこぼれ落ちた短刀を捉えた。
「父上、流歌は短刀を持っております。母上を殺めようとしているのではないのですか?」
流歌が立ち上がって、冷笑した。
「そうだ。お前の存在を忘れていた。お前春様によく命令していたな。理不尽なことを…。春様はお前の命令など聞くはずないだろう。だが、お前はそのたびにひどい癇癪を起こしていた。春様が怖かったか?春様の呪符が…?」
「な、何を言っている?春など怖くもない」と、筝が怒鳴った。
「黙れと言っている!」と、宗主が怒鳴った。「場を掻き回すのか、筝。わたしは珠と話している。出しゃばるでない!」
「そんなに私が憎いですか?」と、筝が呟く。
「お前か?春様に双胎の掟が実行されるように仕向けたのは?」と、流歌が言った。
「馬鹿な…」と、筝が叫んだ。
「大分荒れ始めたな…」と、寿院が呟く。
「虚ろの文字…?それを入手した者がいるのか?それは可笑しい。私はずっと虚ろにいたけど、文字など見たことがない」と、猫が言った。
「うーん秋君から聞いたのだけど…あっ、秋君とは、まぁ、友達かな…。あの子が言っている春君って、秋君の双子の弟。だけど、黒根家には双子は一人しか生かさないという掟がある。でも春君は黒根家ではない。分家だ。でも春君は掟に従って殺された。それをあの流歌という少年は怒っているんだ…」と、説明したが、全部話したら長くなりそうだ。隆鷗は、一旦その話しを切り上げた。
「で、春君の曾祖父にあたる人が、降霊術を行った。何故行ったかは知らない。予期せぬことが起こった。文殿の空間に真っ黒い何かが出現。穴だ。虚ろの…。そこから呪文のような文字が現れた。その文字を三日間かかって一睡もせずに書き写して、力尽きて亡くなった…。と聞いた。まぁ、一説によるとという言い方をしていたんだけど…。その文字を読み解くことで、春君は虚ろに干渉できるようになった。だけど、なんか釈然としないなぁ。なんだよ、そこから呪文のような文字が現れたって…」と、隆鷗は言った。
月子様じゃあるまいし…。
「文字が現れた…?」と、猫が呟く。
傍で寿院が首を傾げる。寿院には、ただ猫が鳴いているようにしか聞こえない。
「あの流歌という少年が、始祖様の力を引き継いだ者以外は能力を受け継ぐ子供は産めないと言っていたけど、意外とそうではないのかもしれないな…曾祖父が文字を見たというのが事実なら」と、猫が言う。
「始祖様…?あの本殿の女性像がそうなのか?」と、隆鷗は尋ねた。「わたしが虫の怪物と闘っていた時、矩子様があの女の人と話していたのが、時々聞こえてきた…」
寿院には、猫がニャーニャーと、まるでひとの言葉を話しているように聞こえるだけだった。隆鷗といると、もう滅多なことでは驚かなくなった。暫く黙って聞いていた。
猫が隆鷗の胸から飛び降りて、なにやら周囲を注意深く見回しながら、本殿の裏手の方に歩いていく。
「猫って自由だな。隆鷗君…猫から目を離しちゃ駄目だよ」と、寿院が猫を追う。
猫が止まった。そして、隆鷗を見る。本殿の裏で立ち止まった。そこから竹林が広がり、坂を登ると義忠の屋敷がある。
「これなの?虚ろの文字というのは…?」と、猫が言う。
地面に文字が書いてある。
「わたしは分からないのだけど、秋君の呪符の文字に似ている」と、隆鷗が言う。
「ああ、確かにうちの門に貼ってあった、あの絵図に似ている。呪符もこの文字も、秋が言っていた『異文の書』の中に書かれたものなんだね」と、寿院が言った。
「この文字は何だと思う?」と、猫が尋ねた。
「分からないよ」と、隆鷗は答えた。
「わずかに足跡が残っている」と、寿院は、文字の周囲を観察していた。そして、足跡を辿り始めた。
「おーぅ、ただの馬鹿なおにいさんではないのね」と、猫が言った。
「寿院は馬鹿ではない。寿院がいないとわたしは何もできない」と、隆鷗が言うと、猫はニャーと鳴き、足跡を辿る寿院を追った。注意深く、ぐるりと周囲を辿ると、八箇所、同じ文字が地面に書かれていた。
そして、一周ぐるりと周り再び本殿の裏に戻って来た。
「わたしが、虚ろの白蛇から襲われた時、秋君の身体に入った春君が床にこんな文字を書いた。すると文字から蜘蛛の糸が出てきて、白蛇を縛ったことがある。多分、この文字は、虚ろの干渉を命じているとは思うけど…」と、隆鷗が言う。
「簡単ではないか?流歌という少年は春君の敵を討とうとしている。春君とあの少年の関係は分からないが…?舞台の上にはおそらく春君の死に関係する者たちが集まっているに違いない。もしも、あの時のように、一斉に蜘蛛の糸が出たら、白蛇の化け物すらひとたまりもなかったんだ。それに匹敵するような干渉…一度に皆終わらせるような…」と、寿院が言った。
「春君とあの流歌という少年は、多分師匠と弟子のような関係、あるいは兄弟のような関係。春君が流歌という少年に虚ろのことを教えた。と、言っていた。でも、蜘蛛の糸を出せるのは春君と、春君の父親だけだと思う。それにあの少年には虫を呼べない。わたしが虫を呼んだと思い込んでいた。自分たちが読み解いた文字に頼るしかないんだ。虚ろではそんなに自由にできないんだよ。そう考えると、基礎的なこと。虚ろに入るとか…?」と、隆鷗が考えながら言う。
「いや、隆鷗君、うつろって何だ?うつろ…ってなんか分からないが、それは異界のことだろう。流彗は御霊を異界に持って行かれて、肉体だけを置いていかれたが、死んでいたではないか?」と、寿院が言う。
「死んでいなかったんだよ」と、隆鷗が言った。
「えっ?」と、寿院が混乱する。
「二人とも、いろいろあったみたいだけど、この文字はどうするつもり!」と、猫が二人の話しを遮った。
「ここに発動の条件も内包されているに違いない。本殿にいる者の御霊を一度に虚ろに吸い込むのかもしれない。それなら春君の父親ができる。であれば、もしかしたら春君もあの流歌という少年もできるかもしれない。それに流歌は再び現世に戻って来ることができる」と、隆鷗は言った。
「流歌はさらさら刺すつもりはなかったのか?あの女の人は黒根家当主の奥方かな?そして当主に娘の筝。従者も含め一気に虚ろに御霊を取られるというわけか。きちんとした証拠もなしに…。もうこれは呪いだな」と寿院が言った。
「本当に証拠がないのかな?」と、隆鷗が呟く。
「おうっ…まぁ、そうだな。掟がいつ実行されたか詳しく聞いていないが、もう随分と前のようだ。随分経っているな。証拠を見つける時はあったということか?」と、寿院が言う。
「流歌って子は危ない感じがした。黒根家も誰も知らない。寿院、わたしたちは関わる必要があると思う?」と、隆鷗が尋ねた。
「ない!」と、寿院はきっぱり言い切った。
「そんなことより、春君は死んでいない。虚ろで震えている。矩子様…うーんよく考えたら、わたしのおばさんだ。おばさんが猫の中に入ったのを見て、はっきり理解した。たとえ身体を失っていても、何とかできるかもしれない。春君も現世に戻れるんだよ」と、隆鷗が言った。そして、呟く「身体を探すのが先だな…寿院に言わなきゃ」
「うん…?おばではないな。いとこだ。いろいろあるんだろうけど、今は目の前のことをどうするのかそれが先だ」と、猫が言った。
「これは、どうするんだ?」と、寿院が文字を指差す。
「もう、面倒くさいよ。ただ、ああいうやつらが虚ろに行くと、多分、流彗のように悪霊になる。春君だって会いたくないでしょう。だからこうする!」
隆鷗は、文字が書いてある地面に青斬刀を突き刺した。そして、寿院は、猫を抱え上げた。
「流彗が悪霊…?何のことだ?」と、寿院が呟いた。しかし、今は訊かなかった。
青斬刀を突き刺した地面から、文字のラインに沿って青い光が放たれた。そして、本殿の周りの文字から一斉に青い光が放たれた。一瞬、周囲が明るくなったかと思うと、光は八箇所の文字とともに消えた。
「おおぅ…。虚ろの文字が全て消えた…のか…?隆鷗ちゃん…あなたって…?……あなたには虚ろは少しも脅威ではないのかもしれないけれど…だけど…虚ろは決して優しい場所ではない。虚ろの虫や獣を侮っては駄目。私にも虚ろが何か分からないけれど、虚ろは現世に禍いをもたらしている」と、言うと猫は寿院の腕を離れ、飛び降りたところで、いつのまにか背後に立つ男に驚いて、シャーと鳴いた。
猫の様子で寿院は振り返った。
男が立っていた。
貧民街に入ってすぐに出会った男だった。
何一つ気配を感じなかった。いつからそこにいたのかさえ分からない。微かに背筋が凍った。
「外でここを囲んでいる連中は、あなたの仲間だ」と、男が言った。
「別に仲間ではない。近所付き合いしているだけだ」と、寿院が言った。
「いえ、あの子とあなたの為に動いている。呑気だな。知らないのはあなたたちだけですか?」と、男が微笑みながら言った。
「寿院、どういうこと?」と、隆鷗が不安気に寿院に尋ねた。
「わたしがお答えしましょうか?寿院様…。寿院様の情報網は大きいのですね。さて、わたしの情報網とどちらが大きいのだろうか?寿院様の近所に住まわれているのは、信陵寺の住職…皆さんは先生と呼んでいるのかな?寿院様の元師匠。破門になったらしいですね。先生の兄弟の獅舎。先生と獅舎は数多くの密偵を抱えている。その数はわたしにも測り知れなかったが、今日のこの数には驚いてしまった」と、男が言った。
「えっ?獅舎様は苞寿様の兄弟なのか?」と、寿院が驚く。
「獅舎様?」と、隆鷗は驚いた。
「さて、時がありません。今、その子が消した文字はわたしが書いた。あなたたちが言う通り、今本殿にいる連中を虚ろに送る為。でも、証拠がないとか、呪いとか言っていましたが、決してそう言うわけではない。その子が消してしまった為に弟が今危険な目に遭っているかもしれない」と、男は言った。
「誰なの?」と、隆鷗が尋ねる。
「流歌と虚ろで会ったのは君だろう?流歌が君に会いたがっていた。で、今本殿にいるんだが、君が文字を消した為に今頃、宗主に殺されているかもしれない」と、男が言った。
「誰なんですか?」と、再び隆鷗は尋ねた。
「わたしは鬼仙だ」と、男が言った。
「何故、人を虚ろに送ろうとしているの?」と、隆鷗は尋ねた。
「それは今寿院様が言ったじゃありませんか。わたしの師匠の若様、春様の敵討です。そして、春様はわたしの友、いや兄弟と言っても過言ではない」と、鬼仙が言った。
「それだけなのかな?義忠殿が言ってたが、あなたと義忠殿は次期当主…いや宗主の座を密かに争っている。まだまだ、宗主は健在なのに、早過ぎではないですか?つまり、現宗主は形ばかりの宗主と言うわけだ。宗主が黒根家当主と言われ、宗主と呼ぶ人が少ないのが、すごく気になっていた。しかし、そう考えると、納得がいく。本当の宗主は、違う人だ。例えば、今、本殿にいる奥方か?あの奥方には不思議な力がある。それは、虚ろに関係ある。例えば、虚ろを見ることができるとか、化け物を召喚できるとか…?」と、寿院は猫を見た。
「何、私は化け物ではないぞ。隆鷗ちゃん、この男は何を言っている?!」と、猫が叫ぶ。
「もしかして、あなたも義忠殿も、宗主は能力者であることを望んでいるのではないか?つまり、能力者の奥方はもう力を失いかけている。だが、奥方の御子は普通の御子だった。義忠殿はさらさら宗主になる気はない。しかし、あなたは、それなりに虚ろの文字を読み解いていた。力がある…」と、言う寿院の言葉を鬼仙が遮った。
「まったくつまらない、無駄な話しだ。弟が心配だ。まだ話したければ、君たちも本殿に上がれ…」と、言うと、鬼仙は、人間離れした速さで、その場を去った。
寿院は、苦虫を潰したような顔をした。いつも余裕のある顔をしていた寿院のそんな顔を隆鷗は見たことがなかった。
「矩子様、あの男が本殿に来いと言った。わたしたちも舞台へ上がれということだよね。でも、わたしはもう関わりたくはない。どうしたらいいの?」と、隆鷗は尋ねた。
「私にも分からない。私には因果の枝葉が見える。だが、それはあまりにも膨大。因果の枝葉に歪みみたいな闇がある。私にはその闇が何なのか分からなかった。因果の理のなかに起こる歪み。それがもしかしたら虚ろなのかもしれない。だからあなたのように虚ろを見る者が産まれた。もっと遡れば、因果を見る者と、虚ろを見る者は同じところに存在していた」と、矩子が言った。
「つまりわたしは逃れられないということなのですか?」
「因果の歪み。それは虫と関係しているのかもしれない。それを解くのは、もしかしてあなたかも…」と、矩子が言う。
「隆鷗君、行くよ」と、寿院が言った。
太陽が傾斜して、翳りが見え始めた頃、十数人ほどの使用人がだだっ広い本殿に蝋燭を灯していく。それは何が起ころうと毎日行われた。本殿の蝋燭は、女性像の両脇の百本余りの高灯台と燭台、そして庇下に等間隔に吊るされた釣灯籠、本殿の各四隅にある五十本ほどの様々な高さの高灯台、全ての蝋燭を灯し終わる頃には、すでに辺りは闇に包まれていた。そして、使用人たちは一息つく。そんな時、何処からともなくふらふらと現れた珠に使用人たちは驚き怯えて、一斉に本殿から去っていった。時を同じくして、敷地内には、何処の兵とも分からない者たちに築地塀の外を囲まれたとの報告が届き皆に緊張が走った。敷地内の男たちのほとんどが武器を持って外に出ていった。
珠が異常な面持ちで本殿の女性像の前に立ちはだかったことを知る者は少なかった。
燭台に火を灯す使用人が珠に気づいた頃には、本殿の見張り番が宗主の使用人に報告していた。使用人が直接宗主に伝えることはないので、従者や側近を探した。築地塀の外の兵の知らせも来ていたので、屋敷内は混乱していた。使用人がようやく従者に伝え、時を隔てて宗主の耳に入った。
ずっと寝床に寝ていた珠が何の理由もなく本殿に姿を現したことは宗主にとって恐怖に他ならなかった。
宗主は従者を呼びつけた。そして震える手で佩刀した。
珠の力が弱くなって随分時が経っていたが、決して本音を見せない珠の沈黙は、宗主には不気味でしかない。上皇に仕える前の珠は、もっと大胆に虫を使い、人を思うがままに操っていたからだ。珠に操られた人が醜く変貌した様を宗主は何度も見ていた。それが朝廷に上がった頃から複雑な人間関係を観察するようになって思慮深い計算を用いて能力を使うようになった。その頃には宗主は、珠の傍にいるだけで震えるほど緊張するようになった。
珠は、力を失っていく様は誰にも見せたくなかった。その為に自ら屋敷に籠ったのだ。義忠すら滅多に屋敷に入れることはなかった。だが、これまで珠を恐れていた宗主が、翳りを見せ始めた珠を閉じ込めたと、黒根家一門の誰もがそう信じた。閉じ籠った珠の身体はやがて、急激に衰えてしまった。
宗主は虚勢をはり従者を従え、本殿に向かった。
珠の異様な行動は、同時に筝の耳にも入った。宗主が本殿に向かった同時刻に筝も離れの屋敷を後にした。そして、実父である宗主と鉢合わせをしてやむなく同行した。
筝は、ただの好奇心だ。決して実母を心配したわけではなかった。
そして、最も早く知らせを受けたのは鬼仙だった。鬼仙は、下働きの女を珠の屋敷に間者として置いていた。これまでの義忠や秋との会話は全て間者から聞いていた。
そして緊急を要する時の為に『異文の書』のなかの文字を書いた呪符を渡していた。
間者が文字に掌を置くと、流歌の左目に刻んだ文字が青白く光り熱を帯びる。流歌はすぐに虚ろに入った。虚ろに入る為の文字は褥に敷いた絹に描いていた。その上で横になると、霊体が虚ろに入る。そして、珠の間者が持っている文字と繋がり、女から情報を得ることができた。流歌はそれを鬼仙に伝えた。
鬼仙は、珠の屋敷だけではなく、黒根家一門、全ての屋敷に間者を置いていた。そして、義忠の屋敷にも…。
離れの台所で、器を洗っていた女が、間者だった。女は義忠の屋敷のあらゆるところに鬼仙から渡された呪符を貼った。それは、覗き穴の役割を果たしていた。流歌が左目に刻んだ文字に繋がり虚ろから覗いていた。
意識を失った隆鷗の額に寿院が刀を突き立てたこと、隆鷗がそれで目覚めたこと、路が尋ねてきたこと、その時に交わされた会話を全て、流歌は見ていた。それを全て鬼仙に報告した。
勿論、宗主や筝の屋敷にも同じような間者を置き、虚ろの文字を記した呪符を貼っていた。
こんな絶好な機会は二度と訪れない。
そして、鬼仙は舞台を整えた。
鬼仙は寿院と、隆鷗を舞台に上げて、いったい何をするつもりなのだろうか?そして、築地塀の外では獅舎が集めた者たちと、黒根家一門の睨み合いが繰り広げられていた…。




