虚ろの悪霊
再び意識を失った隆鷗を衝立の影に隠した後、訪れた路と話していた寿院だったが、隆鷗が心配で気が気ではなかった。路が去ると、すぐに衝立の後ろに移動し、ずっと隆鷗の様子を見ていた。その頃隆鷗は再び虚ろにいた。
一瞬、空気が高速で走り、視界のなかの全ての風景が刹那のうちに爆発したように消え去った。もちろん隆鷗には何が起こったのか分からない。
耳に響くキーンという音に埋め尽くされた時に隆鷗は目蓋を開けた。
闇だ。目蓋を開けていても閉じている時との違いが分からない。
何が起こったのか?
秋の背後から黒い塊が現れたかと、思うと、瞬時にそれは目の前にいた。これまで現れた少し微笑ましい目ん玉のお化けでないことは確認できたが、春でないことは確認できなかった。
秋の背後から出て来る霊は、春以外あり得ないと思っているのが正しいのかも分からない。
しかし、ここが現世でないことは分かる。
隆鷗は、ゆっくり上体を起こした。
ずっと闇が広がっていた。
暫くすると、ふわりふわりと何かが動いているのが見えた。それを見た時、ここが異界だということが分かった。
ふわりふわり動くモノが次第に増えていった。やがて色がついていく。
眼が慣れてきたのだ。
「隆鷗さん…ごめん。こっちに連れてきちゃった」と、ぽつりと声が聞こえた。春の声だ。
「春君?いるの?何処…?」と、隆鷗は四方八方見渡した。
すると、ふわりふわり漂っているクラゲのような生き物の塊の中に項垂れている春がいた。
隆鷗はすぐに春の傍に寄って、クラゲを追い払った。そんな隆鷗を見て春が言う。
「何しているんだ?」
「えっ、それはこっちの言葉だ。なんでこんなへんなモノが集まっているところにいるんだよ?それとも春君の元に集まってきたのかな?」と、隆鷗が言った。
「えっ?僕には何も見えないけど…?」と、春が驚く。
「えっ?何言ってるの?」と、隆鷗も驚く。「よく見てよ」
春が目を凝らす。
「へぇー本当だ。でも、隆鷗さんから言われなければ気づかなかったなぁ。そうなんだよね。隆鷗さんは僕と違って、何処か超越しているんだよね。僕の伯母様と同じなんだ」と、春が言った。
「伯母様…?」
「僕は以前、隆鷗さんがここを異界と言っていたのを受け入れたけど、僕らはここを虚ろと言っているんだよ。現世でも隠り世でもないところをそう呼んでいる」と、春が言った。
「えっ?そうなの…。ここは隠り世ではないの?」と、隆鷗は驚いた。
「えっ?隆鷗さんもここを隠り世ではないと思ったから異界と言っていたんだろう?」と、不可解そうに春が尋ねた。
「いや、そんな確かなことではないよ。何か分からないものだったから異質な世界だと思って、そう呼んでいただけだよ。だけど…?ここが隠り世でないと言うのなら…君は何なの?」と、隆鷗は尋ねた。
「えっ?何?僕は僕だよ」と、春が不思議そうに答えた。
「だって…ここが隠り世でないのなら、君は死んでいるの?生きているの?という話しになるだろう?」と、隆鷗は言った。
「ああ、そうか。僕にはもはや死も生も関係ない話しだな。存在するかしないかだ。だけど、もう存在すらしなくなたった。そうだよ。僕は死んでいないよ。生きている。だけど、現世に僕の肉体はない。だから僕は死んでいると変わらない」と、春が言う。
「死んでいない…?だったら香舎流彗も死んでいないのか…?」と、隆鷗が言った。
「それだ…!」と、突然春が声を上げる。
「わっ!びっくりした」隆鷗はびくんとした。
春が空で胡座をかいた。
「僕は隆鷗さんみたいに虚ろの生き物を呼び寄せることもできない。刹那の刻々のなか右を見ても左を見ても闇しかないんだ。そうだよね。死んだ方がましだと思うよ。だけど、秋の身体で隆鷗さんと寿院さんと共に憎き香舎流彗の霊体を虚ろに閉じ込めることに成功したことは、本当に充実した瞬間だったんだ。僕は今でもあの瞬間のなかにいるんだ…」と、春が言った。
「えっ?ここが異界ならば、君も流彗も同じところにいるということ?なんか頭が混乱してくるよ」
「何言っているんだ。君は生きて、自由に虚ろを出入りしているんだよ。僕の方が混乱するよ」
「だって、それは春君も同じだろう。わたしはついさっき流歌という少年に、君が言う虚ろ?で会ったんだけど、あの子は多分、自由にここへ出入りしていると思うんだけど。つまり、君だって現世に肉体があれば生き返るんでしょう。肉体がなければ、時々、秋君の身体を借りればいい。この前みたいに」と、隆鷗が言う。
「さらっと非道なことを言うよね…」
「だって、君は死んでいないんだ。秋君から聞いている。君は黒根家の掟を押し付けられて、理不尽に死んでしまったんだよね。だけど、虚ろにいるということは、君のことを死なせたくない人がいたからだよね…?」と、隆鷗が言った。
「うん…。そうなんだ。だから僕は苦しいんだ。君がどうやって虚ろに出入りできるのかは知らないけど、多分僕たちとは違うということは分かる。君が虚ろで会った流歌に虚ろのことを教えたのは僕なんだ。そして、僕は父上から教わった。父上は曾祖父が残した、奇妙な文字を解読して虚ろを知った。僕も共に具体的な物理介入の方法を研究したんだけど、結局僕らの出来ることと言えば、現世で虚ろを見ることと開くことと、霊体となってそこに入ることと出ること、肉体に戻ること。そして、父上が偶然蜘蛛を召喚した。だけど、蜘蛛は父上や僕らに従わず、ただ父上が気が遠くなるほどに闘いを挑み、蜘蛛の糸で縛るという現象だけを授かることができたのだけど、随分気まぐれなやつなんだ。時々僕らを無視する。だけど今のところ僕は無視されたことがない。僕はやつには嫌われていないようだ。だけど、虚ろで僕らに出来たのはそれだけなんだ」と、春が言う。
「でも、流歌という少年は、虚ろに、まるで自分の部屋のようなものを創っていた。あれはまるで現世のようだった。わたしはしばらくそこが虚ろとは思えずにひどく混乱した。多分、あんなものは虚ろには存在しないと思うんだけど…?」と、隆鷗は首を傾げながら言った。
「なるほど、なるほど…。流歌君は怖いもの知らずだ。何でも試していた。だから覚えも早かった。あれは才能の塊だ。と、言うか、あまりにも恐怖を知らない。逆に恐ろしいよ」と、春はいささか憮然としていた。
「あの子は、左眼のところに大きな傷をつけていた。あれは文字だ。あそこまでするなんて、虚ろに翻弄されているようにしか見えない…」と、隆鷗は言った。
「左眼の傷…?自らつけたんだろうね。おそらく、彼の身体を見ると、まだまだ文字を入れている可能性があるな。だけど隆鷗さん…。僕らも他人のことは言えないんだ…」と、春が躊躇いながら言う。
隆鷗は、えっ…?と、改めて春を見た。
「実は、僕らが掟に背いているという話しが本殿の定例連絡会で取り沙汰された時…。父上は、もう逃げられないと思ったらしい。香舎家当主が執拗に問うてきて、それに乗った黒根家…宗主が父上を徹底的に追求したそうだ。それから父上は、迷いに迷った挙句、僕の霊体を虚ろに移した。その時、秋が何処まで理解しているのか分からないが、それに同意してくれた。だから父上は刀で、虚ろに誘う文字を、秋の背中刻んだんだ。父上が僕にこっそり言った。春の身体はちゃんと保存するが、もしそれが叶わなければ、秋の身体を共有するんだ。それは秋も理解してくれた…と。だけどそんなことできるはずないだろう。秋の身体を共有するなんて…秋だって、そんなの嫌に決まっている。それにそんな話し秋が何処まで理解しているか分からない。だから僕は絶対そんなことしなかったんだ。秋だって僕がそんなことをするなんて思ってもいないだろうし、倫理的にもできない。だから僕は、もう諦めていた。ずっと長い間、闇の中で過ごしていると、逆に死んでいないことの方が不思議に思うようになった。虚ろって言っているけれど、ここが隠り世でないなんて誰にも分からないことなんだ。ねぇ、隆鷗さんもそう思わない?僕が死んでいないなんていう保証は何一つないんだ。だけど、秋の身体のなかにいた時、やっぱり生きているって感じたんだ。僕って、いったい何なんだろう?死んでいないし、かと言って生きているとも言い難い。ただ、だからと言って秋の身体を共有するなんてことは絶対間違っている。それに秋も決してそんなことを許していない。と、思う。父上が嘘をついたんだなって僕は思った」と、春が言った。
「春君、ごめん…君がそんなに真剣に思っていたのに軽々しく秋君の身体を借りればいい、なんて言って…」と、隆鷗は後悔した。
「それは当人でないと、もしかしたら理解できないことかもしれない。一人の身体を二人で共有することは一見して合理的に見えるかもしれないけれど、個の存在が無視されていることに気づかないのか、それとも僕らの存在自体がそう思われているのか、他人はそんなに真剣に考えないのかもしれないけれど、僕らはそういう訳にもいかない」と、春が言う。
「そうだね。春君の言う通りだ。君は秋君の背中の傷から虚ろに入ったんだね。気づかないうちに君は秋君の背中に刻まれた誘いの文字に執着するようになってしまったの?そこから離れようとしないのは何故…?」と、隆鷗はふと疑問に思う。
「執着?ああ…隆鷗さんが何者なのか分からないけど…きっとここに入ってくるのにそれほどの苦労をしていないんだろうね…?僕のために刻まれた文字は、僕だけのものだよ。そんなふうにしか考えられないんだけど、それが正しいとは言い切れないかな…?」と、自信なさげに春が言った。
「でも、春君の身体…その後、どうなったか…知っているの?」と、隆鷗は尋ねた。
「望みはないと思っている。父上も、実はそう言っていた。身体を保存するのは厳しいと考えていた方がいい、と。ここにいると、下手な希望を持つのが怖いんだよ…」
二人は黙り込んだ。
静かな沈黙が流れた。恐ろしく静かだ。耳の中でキーンという音が次第に大きくなっていった。
そして、ぽつりと春が口を開いた。
「それに僕は見てしまった。あれを見てから恐ろしくて恐ろしくて…耐えられずに隆鷗さんをここに引き入れてしまった…」と、春の表情が硬直し、震え始めた。
「どうしたの春君!何を見たの?」
「あれは…流彗だった。確かに流彗だった…」と、春が震える。
「流彗を見たの?」
「うん。恐ろしい化け物になっていた。顔が浮腫んで膨れていた。だけど流彗だった。獣のような唸り声をあげていた。泣いているようにも聞こえた。身体も浮腫んで倍くらい膨らんでいた。皮膚が剥れて血管が飛び出て、真っ赤だった。ボリボリ掻きむしっていて、そこから血があふれ出ていた」と、春が吐きそうに口を押さえた。そして、涙を流した。
「えっ?流彗だって霊体なのに、何故そんな物理的な変化が起こるの?」と、隆鷗は驚いた。
「さあ、分からない。僕の思考がそう読み取ったのかもしれないけれど、あれは何かに変わろうとしていた。まるで悪霊に変貌しているみたいだ」と、春が言う。
「この世界は分からないことだらけだ。現世の理で考えたら駄目なんだね。だけど霊体だから悪霊になるのは理解できるけど…ここは確実に現世ではないのだから、春君が正しいのかもしれない。ここが隠り世ではないと言い切れないかもしれない…」
隆鷗の心境は複雑だった。何故ならここが隠り世の方がしっくりするからだ。
隆鷗は、最初悪霊を見たことから、こんな不思議な世界を知ることになった。屍人を見て、いつのまにか、理屈の分からない黒い影を見た。それから信陵寺の麓の屋敷で見た、黒い巨大なうねる闇と、恐怖を感じるほど深くて真っ暗闇の穴。そして、いつのまにか異界…虚ろへと恐ろしく大きなものへと変化していった。
「隆鷗さん…僕の肉体があったところで、僕が流彗みたいな悪霊にならないとは限らない。闇に包まれた、想像することも出来ない刻々の中で、何故、正常でいられるのか、もう僕には分からない。どうしようもできない深い怒りが僕の身体の中で暴れて今にもこの身体を突き破りそうになるのを、僕はどうして止めなければならないんだ?」と、春が震える。
「駄目だ。怒りに囚われたら駄目だ。感情に振り回されず、いつも静かな心でいることを意識しないと。春君、暫く辛抱して心を落ち着かせるんだ。わたしが現世に戻って、君の身体を必ず探す。もしそれが叶わなければ、君が現世に留まる方法を必ず考えるから…」と、隆鷗は必死に訴えた。
「でも…もう限界なんだ。流彗の姿が焼き付いて離れないよー。でも、隆鷗さんがいてくれて本当に良かった。暫くここにいてくれ…」と、春が言う。
「ああ、暫くいるから。でも、君の身体も早く見つけたい…」
「有難う、隆鷗さん…」
春の身体は、いつまでもずっと震えたままだった。せめて震えがおさまるまで、隆鷗は離れることができなかった。
陽光が鋭い線を描いて差し込む鬱蒼とした山林を二人は足早で歩いていた。
山に入ってすぐ子供たちが住む掘立て小屋が並ぶ場所を見つけた。
あの子たちは何だろう?と、陸は、すごく疑問に思った。そんな時、何を聞かなくても祭がすぐに答えた。
「あれは、私兵予備軍だな。黒根家が子供の頃から育てている。黒根は時々都から子供を攫ってくる。そして、あそこに詰め込んで過酷な生活を強いて鍛えるんだ。いったい何をする気なんだろうね。黒根家は決して眼を離しちゃいけないね」
こんなふうに祭は何でも知っている。陸には不思議な存在だった。
「助けなくていいの?」と、陸が尋ねる。
「どうだろう?あの中に何人、親のいる子がいるんだろうね。帰る場所もない子供たちだったら、助けることが必ずしも良いことだなんて思えないね。飯だってありつけるし…」
「わっ!?歪んでやがる!」
そして、祭は黙って山林を歩く。
「隆鷗は大丈夫だっただろうか?」と、陸がぽつりと言った。
「あの人がついているから大丈夫だ」と、祭が言った。
「へえー随分あの人のこと高く買っているんだな?…えっ?て、言うか、知ってるの?初めて会ったんじゃないの?」
「知ってるさ。いや、偶然だけどね」
「何何?なんだ偶然って?」と、陸がわくわくした表情で、険しい山道を歩く祭の顔を覗き込んだ。
「あれは…」と、祭は話し始めた。
「ある筋からちょっとしたことを頼まれた時のことだ。おそらくわたしが思うにあれは朝廷関係ではないかと思うが、まぁ、たんまり米さえ貰えば、何処からの依頼なんて関係ないさ」と、祭が言う。
「へえ?祭って、そんなこともしていたのか?」
「まぁ、便利使いされてますな」と、祭が苦笑する。
「それで…ある筋の者が米蔵の米の数が合わないから調べてくれと言う。横領が頻発しているのではないかと心配していたな。わたしは少しばかり米蔵に潜入して、調査した。そして、何人か怪しい者を見つけ出しては尋問して、それを繰り返しているうちにようやく取り仕切っている黒幕に辿り着いたんだ。ところが、黒幕の屋敷はもぬけの殻なのさ。周辺の者に聞き込みしたら、どうも、突然、一家諸共失踪したって話しだ。暫くその屋敷を調べていた時に、あの男がやって来た…」と、祭は、そこまで話すと、呼吸を整えた。山道を歩きながら話しているのだから、少し疲れたのだろう。
「おっ!あの男っていうのが寿院…様なのか?」と、陸はますますわくわくした。
「呼び捨てするのか、様を付けるのか、いい加減決めたらどうですかね?そうだ、寿院殿だよ」と、祭が言う。「まぁ、しかし、空き家にやって来たのだから、盗人だと普通思うだろう?わたしは暫く隠れて男の様子を見ていたんだ。ところが、キョロキョロしながら屋敷中うろうろしたかと思うと、まず、おそらく若様の部屋だろうね。日記を見つけて丁寧に読んでたな」と、祭が続ける。
「若様の日記…?まあ、盗人だったら、そんなものに見向きもしないだろうね」と、陸は興味深く聞き入る。
「そうだろうよ。で、主人の部屋に行き、今度は、書棚や机、いろいろ物色していたが、幾つもの櫃や文箱を次々と開けて、その中の、大きな櫃の前に暫く座って幾つもの冊子を取り出して、すごい速さで読んでいた。で、たくさんの冊子から数冊取り出して机に置いた。それからその数冊の冊子を丁寧に読んでいた。そして、それを机に置いたまま、外に出た。わたしはすぐに何を読んでいたのか、机に置いた冊子の中身を確認した。すると、それこそわたしが探していた米俵の裏帳簿ときた。その数冊の中から二冊ほど選んで懐にしまい、後は別のところに隠して、すぐに寿院殿の跡を追った。今度は、裏門の草の茂った小道に視線を近づけて、なにやら丁寧に見ていた。そして、歩き出した。わたしはすぐに何を見ていたのか確認した。寿院殿が荷車の跡を見つけて、それに沿って歩いたのが分かった。すぐに跡をつけたら、掘立て小屋を見つけた。まぁ、掘立て小屋といっても大きめで、見かけはボロだが、結構頑丈に作られている建物だとすぐ分かったよ。外観だけボロに見せかけている立派な蔵だ。で、その中にたいそうな米俵が詰められていたというわけだ。わたしの仕事を何から何まで寿院殿がやってくれたと言う訳だ」と、祭が言った。
「へぇー?寿院…様はいったい何を調べていたんだろう?寿院…様にとって、裏帳簿はどうでも良かったんだよね」と、陸は、結構肝心なところをつく。
「よく見抜いたな。わたしも気になって暫く寿院殿を見張っていた。すると、今度は貧民街に出かけて、ひとりの男に声を掛けた。男は咄嗟に逃げまどった。いったい何を調べていたのか、全く分からない。しかし、最近ようやくいろいろな駒が嵌ってね。寿院殿がやっていたことがようやく理解できたよ」と、祭が言う。
「何だ?すごく興味がある!」陸の瞳がきらきらしていた。
「そうだろうね。寿院殿は実におもしろい。町の行商人で情報伝達の仕組みを作っているようにしか思えない。たくさんの情報が寿院殿に集まるような仕組みづくりをしている。わたしも何人かと同じようなことをしていたから、分かる。で、その何人かの行商人に情報を集めてもらってようやく釈然としたよ。寿院殿は『呪い屋』の噂を調べていたのさ。おそらく秦家の若様がある日、偽物と入れ替わっていたことに気づいた。真剣に若様の日記を読んでたからね。だから貧民街まで行って、偽物を探したのだと思うよ。そのついでに秦家の米蔵の横領に気づいて、証拠まで見つけ出したのだ。寿院殿にとって、それは動機となり得るものだったに違いない。寿院殿はこう考えたのだろう。秦家は、ある筋の米蔵から長きに渡り米俵を誤魔化しながら掠め取っていた。立派な横領だ。だが、横領した米俵が結構な量になった時、主人は、病にかかり伏せってしまった。若様が米俵のことを知っているのか知らないのかは分からずとも、主人が亡くなれば、若様が跡取りになるのは間違いない。だから若様を亡き者にして、替え玉を仕込んだ。まぁ、秦家を乗っ取った者がいたということだ。乗っ取って、引き続き甘い汁を吸おうとしたんだろうね。しかし、何かが起こった。おそらく乗っ取りは失敗して、一家諸共始末した?そこは分からない。推測だ。誰かが若様の替え玉に気づいたとか、失敗の原因はそんなとこかね?で、掘立て小屋に偽装した蔵は見つからないと踏んでいたのか、米俵はそのままにしていたようだが、寿院殿が掘立て小屋に気づいた翌日、わたしは調査を依頼した者を連れて、例の掘立て小屋に行ってみると、もぬけの殻だったよ。寿院殿はどうやら目をつけられて見張られていたようだね。しかし、一晩であの数の米俵を移動するなんて、どうなんだろう。相当な人数がいるな。大きな郎党の仕業だ。例えば黒根家のような…」
「寿院は負けたんだ?」と、陸が言う。呼び捨てになっていた。
「さぁ、どうなんだろう。寿院殿は米俵が無くなろうと、そんなことはどうでもいいことなんだ。あの頃、秦家の事件を有耶無耶にする為に九堂の若様が巻き込まれて、不名誉な噂を流されていた。秦家の若様の好きな女子を九堂家の若様が手籠にしたとかなんとか…?だから秦家の若様が『呪い屋』に九堂の若様を呪うように依頼したとか、そんなくだらない噂を流した。だが、何故か人々はそんな噂が大好きなんだね。だから、寿院殿は、九堂の若様の名誉を回復する為に動いていたにすぎない。そして、九堂の若様の濡れ衣を回復し、不名誉な噂を打ち消した。多分、九堂の若様なんだろうね。秦家の若様が替え玉だと気づいたのは。九堂の若様は黙っていられなかったんだ、きっと…。だから殺されたんだろう。今頃、寿院殿だったら、もう気づいているだろうね。しかし、九堂の若様ばかり目立って、秦家の若様はその後なんだか忘れられてしまって…もともと目立たない若者だったらしい。それも計算されていたのかね?『呪い屋』は、結局痛くも痒くもなく、大量の米俵が手に入ったから、乗っ取りに失敗したというわけでもないかな。まぁ、しかし、寿院殿はなんやかんや黒根家の敷地に足を踏み入れている。あの人ならきっちり落とし前つけそうだ」と、祭は笑った。
「へぇ、そんなことがあったんだ?つまり『呪い屋』なるものが黒根家だったということなのかな?」と、陸が言う。
「わたしも単純にそう考えていたけど、あの黒根家の大きな敷地を見ると、黒根家というより、あの中の誰か…という方が釈然とするね」と、祭は意味深な笑みを浮かべた。
「なるほど、何だか面白そうだ。僕はこれから寿院様に張り付いてみるよ」と、陸は言った。
もう、陸は、寿院を呼び捨てにはしなかった。
黒根家の貧民街の追手を難なく逃れていた陸と祭は、そのまま寿院と隆鷗と別れ虚言様の屋敷に戻っていた。祭は、意外にも寿院を知っていた。様々な情報を知っている祭が更に陸に語り始める。
※2026/1/11 誤変換修正しました。




