肉体と霊体
意識を失った隆鷗を必死に守る寿院。合流できた秋には、黒根家の敷地に入った後の状況を聞くことはなかった。そこに寿院の秋への気持ちが現れていた。突然現れた義忠を見た寿院は、驚きもせず皮肉るだけだった…。
静まり返った部屋は、外の庭の音さえすっかり吸収してしまったかのように、これまで語っていた珠の声を呑み込んでいった。
義忠は、珠が何を語っているのか、まるで分からなかった。
虚ろの世界…?虚ろの世界に棲息する虫。そして、珠の身体の中にいる虫…?虫の継承…誰かに受け継がれた。しかし、筝には受け継がれなかった。
義忠は何度も、その言葉を心の中で繰り返していた。
「申し訳ありません。口を挟みます。珠様が双胎だと仰ったのは、明確な事実。そして、筝様には虫は受け継げられなかった…その、珠様の身体の中にいる虫が双胎のもう一人の赤子に受け継がれたと、仰るのですね」と、義忠は確認した。
「まぁ、そんなとこだ。正確には私の虫は、まだここにいる。受け継いだのは、おそらく虫が作り出した新たな虫だな。だが、お前も知っての通り我ら黒根家には双胎は嫡子だけを残して始末しなければならない。という掟がある。私は一縷の望みを抱いて、お前に探すように頼んだのだ。たとえ、それが私の妄想だと思っていたとしても、お前が手を抜く筈がなかったのだ。お前に腹が立った反面、もう一人の赤子は殺されてしまったのだな。と、諦めていた。だが、突然、繋がったのだ…娘の眼と。すごく泣き叫ぶ声が聞こえた。その声で娘だと分かった。娘は縛られていた。そして、あれはおそらく香舎家が育てた蛇だろう。娘は大蛇の生贄にされていたのだ。すごく不安になってしまい、お前を呼んだのだ」と、珠が言った。
「えっ?どう言うことでしょうか?あの時…、わたしが珠様に呼ばれた日ですか?突然、秋様に会いたいと仰った日だ。あの日、香舎家が惨殺された…。どういうことだ。あの時、香舎家が惨殺されるところを目撃した御当主の弟子もまた、その後惨殺されている。それは、そのことと関係しているのでしょうか?」と、義忠は茫然とした。
「さあ、それは分からぬ。だが今は、娘の命が重要だ。香舎家のことは私にはどうでもいい。生贄になった娘を助けたのが秋だった。秋は、今その娘と暮らしている可能性が高い。秋は、その娘が筝と双子だということには気づいていないようだ。娘が生きているのなら、当主も年寄り共もこぞって娘を殺しにかかるだろう。義忠、頼むから守ってくれ…なるべく黒根家から遠ざけ守り抜いてくれ」と、珠が懇願する。
義忠は、失敗に終わった、新参者の呪術師を襲撃した日のことを思い出していた。
あの娘のことか…。
確かに、筝様と似ていた。
筝様が何故か男の格好をして男のように振る舞い、陽に焼けた真っ黒な顔で、いつも眉間に皺を寄せているせいで、気づく者も少ないかもしれない。だが、わたしは、異常な勘が働いた。
その時、静けさのなかに、突然、騒々しいがやがやした声が紛れ込んできた。
「うるさいな。今日は本殿で集まりがある日か?」と、珠が尋ねた。
「いいえ、異状です。何かあったのかも知れません」と、義忠は立ち上がる。「少しだけ席を外してもいいですか?」
「いや、もう話すことは全て話した。ただひとつだけ。私の娘は、歴代の能力者の中で最強なのかもしれない。赤子のころから虫を受け継ぎ、私の伝授がなくとも自身で力を使っていた。この先、新たに覚醒するやも知れぬ。そんな娘をお前に託している。黒根家が最強になるのも滅びるのもお前次第だ。そんな娘をお前は守り抜けるのか?」と、珠が言った。
「守ります」と、義忠は頷いた。
「だが、私は黒根家を守ろうとは思わぬ…ただ、娘と、この力をずっと後の世まで受け継ぐことのみ重要だ。黒根家という箱などどうでもいい」と、言うと、珠は、眼を瞑り静かに眠りに入っていった。
寿院は、立ち上がった。
「盗賊が何の用だ?秋様がお前様には関わってほしくないと、望んでいるぞ」
「まぁまぁ、そんなに責めないで下さい。わたしの配下が大変失礼しました。ちょっとした誤解がありまして…。まさか、秋様の別荘だと思いもせずに…」と、義忠が言う。
「何が秋様の別荘だ。しゅーさまはーいそうろう!」と、寿院か不快げに怒鳴った。
「あの時、御子が三人いた…。あれっ?もう一人女の子がいたと思うが…?女の子ひとりあの家に残して来たのか?」と、義忠は尋ねた。
「あたりめぇだろう。居候は無視か?女の子をこんな危ないところに連れて来られるか!考えてものを言えよ!」と、寿院が言った。
「いやいや、一人残すのも危険だろう!」と、義忠は怒鳴った。
「何を言っている?あれはちゃんと預けている。お前様が心配することではないが…?あの時、お前様はあの子を見て、そう様と呟いていたが…あの子には何かあるのかな?」と、寿院は意味ありげに義忠を見た。
義忠は、黙った。
この男…!?勘が鋭いのか?
「何を言っているのだ。そんなことより、竹を背に意識を失っているこの子はどうしたのだ?先程騒ぎがあったようだが、まさかあなたたちの仕業か?」と、義忠は言った。
「すみません。すぐにここを去りますので、見なかったことにして下さい」と、秋が言った。
「そう言うわけにはいかない。騒ぎを起こしたのは、あの男の領域でだろう。何をしたか知らないが、やつらは自分の領域を荒らされることを極端に嫌う。しつこいぞ。これは殺されるな…」と、義忠は言う。
「えっ?そうなのか?しつこいのか?で、あの男とは誰なんだ…って言うか、お前様は誰なんだ?盗賊ではないよな…」と、寿院は一瞬、秋を見た。
秋が寿院の視線を避けた。
「寿院様、ごめんなさい。初めて会った時は、確かに嘘を言ったよ。でも、もう嘘は言ってない。ただ、色々複雑すぎて、全てを話していないだけなんだ。信じてよ、寿院様…。僕のことが煩わしければ、もう黒司家に戻るよ。でも、僕は寿院様が好きなんだ。ずっと傍にいたいよ」と、秋が言った。
秋が話している時、いつのまにか義忠が隆鷗を肩に担いでいた。
「秋様を責めるな。あれはわたしが悪い。兎に角、この子が眼を覚ますまで、わたしの屋敷にいろ。ここの坂を登ったところがわたしの屋敷だ」
そう言うと、義忠は強引に坂を登って行った。
「待て!義忠…」と、秋が叫ぶ。
義忠…?
やはりそうか。虚言様が教えてくれた義忠か。
黒根家当主の右腕か?そして、義忠が言う、『あの男』が鬼仙か…?決して、仲良しではなさそうだ。それに一家諸共惨殺された香舎家。香舎家にいた戒。戒は奇妙な能力を持っている。そして、何故か義忠が戒を気にする。
黒根家はどうもきな臭くて、あまり関わりたくないなぁ…。と、寿院は思う。しかし、どうもそう言うわけにもいかなそうだ。
隆鷗は、義忠に丁重に寝床に寝かされた。
「何処も傷はないようだが、なんでこの子は意識がないのだろう?あっ、頭に大きなこぶがある。これが原因か?まぁ、これくらいで意識は失わないよな…」と、義忠が言った。「この子が意識を取り戻したら、わたしが駕籠を出してやる。あなたは、わたしの従者の格好をして、駕籠の横を歩くといい。この子は、念の為駕籠だ。秋様は別行動だ。わたしがあの家に送ります」
「えっ?黒司家に帰れと言わないの?」と、秋が言う。
「実は、秋様が珠様と話した後、珠様に呼ばれましてね。あっ、いや、まったくの別件だよ。その時、ちらっと言われた。秋様が黒司家を出て、心の師匠とやらの家で暮らしていると。だから秋様に従者を充てがってくれと…」と、義忠が言った。
「そんなのいりませんよ。何考えているんだ、伯母様は…」と、秋は反抗的に言った。
「いや、君は、もう黒司家に帰りなさい…」と、ぽつりと寿院が言った。
「えっ?!なんでそんなことを言うの?寿院様!僕は嫌だよ。絶対帰らない。もう、僕は嫌なんだ。黒司家も、黒根家も、もう僕は僕でありたいんだ!だから寿院様頼むよ。そんなこと言わないで!」と、秋は涙を溜めていた。
寿院は黙る。
部屋の真ん中の畳敷きの寝床に、ぼつりと寝かされた隆鷗は、死んだように眠ったままだった。部屋から見える庭には、幾つもの竹が植えられていて、その手前には井戸が見える。そよそよと風が吹き、その音さえ聞こえてきそうなほど静かだった。
そして、鼻水を啜る音が響く。
「義忠のせいだ…」と、ぽつりと秋が呟いた。
「そうですね」と、義忠が言う。「よく調べもしないで、あなたの家を襲撃しようとしたわたしが悪い」と、静かに義忠が言った。
「いや…」と、秋が言う。「僕が隆鷗を巻き込んでしまったのが悪かった。途中、隆鷗とはぐれてしまった。探したけど、隆鷗は見つからなかった。勝手に動き回る隆鷗にひどく腹を立ててしまったんだ。誰かに捕えられても、助けてなんかやらない。と僕は思ってしまった…」
隆鷗は、空間の歪んだところへ行ったのだろう。そして、御霊だけが異界へと呑み込まれたのだ。御霊と肉体が離れてしまうと、やはり隆鷗の肉体は死んでしまうのだろうか?なんと恐れを知らない子だ。
いったい異界で隆鷗は何をしている?こんな時、春がいてくれたら…。また、あの時のように秋の身体に宿ってくれるといいのだが、いくら秋を見つめても、寿院には、隆鷗みたいに秋の背後から出るという黒い影の春の姿は見えない。
だが、寿院には一縷の希望があった。
それは青い刀だ。義忠と秋の隙を見つけて、青い刀で、御霊を取り戻せるのではないかと考えていた。ただ、それは慎重に実行しなければならない。
普通、御霊は心の臓、身体の胸の辺りにあると考えられていたが、寿院は、何故か、それは頭にあると考えていた。青い刀を頭に突き立て、異界から隆鷗の霊体を取り戻すことを考えていた。だが、それはどうしても秋や義忠に見られるわけにはいかない。と、思った。隆鷗の能力を黒根の者に見せたくなかった。これまで寿院は、秋には、隆鷗の能力をなんとなくだけど、隠していた。戒の能力を解いているのも隆鷗だとはっきり言ってなかった。だが、隆鷗が自分のことを何処まで話しているかは分からないとしても、はっきりと断言するのとは大きな違いがあると思っていた。
やはり寿院には黒根家も黒司家も危険な存在だった。
「寿院様、僕は心根が駄目だ。なのに隆鷗は、いつも無心なんだ。僕は隆鷗から『異文の書』のことを聞いた。あの書がどんなに重要なのか…どんなに危険なものかということを。だから隆鷗は一緒に取り戻そうとしてくれたんだよ。なのに、僕は隆鷗の話しなんて全然聞いてなくて、今回も隆鷗の姿が見えなくなって、後回しにしてしまったんだ。何より隆鷗を優先しなければいけなかった」と、秋が言った。
「異文の書とは何なのだ?」と、突然、義忠が不思議な顔をして尋ねた。
「えっ?義忠知らないの?」と、秋も改めて驚いた顔をした後、しまった!と、口にしてしまった事を後悔していた。
それを察した義忠は、それ以上何も聞こうとはしなかった。
だが寿院は、今聞かなくとも、その存在を知った以上必ず突き止めてやるという自信があったから聞かなかったのだ。と、義忠を読み取っていた。
だが、寿院は、何も口を挟めない。だんだん隆鷗が眼を醒まさないことに不安を覚え初めていた。早く、青い刀を突き立てたい…。
一方、隆鷗は、文殿の中を走り回っていた。だが、いくら文殿を走り回っても、あの少年の言うように出入口は見つからなかった。
何かおかしい?
その頃から次第に違和感を覚え始めた。そもそも最初からおかしかった。覚えのないまま、わずかに瞬きをした間に、あたりの光景が一変したのだ。
ここは現実ではないのだろうか?夢を見ているのだろうか?
だが、どうにも夢とは思えない。夢の中に、会ったこともない人が、かつて記憶していないものが、明確な姿形を表せるのか?そして、疑いようのない現実感が隆鷗にはあった。
隆鷗は混乱した。
「ねぇ出入口なんてないでしょう。もしかしたら君はここから出られないのかもね」と、いつのまにか少年がそこにいた。
あれっ?わたしは、この少年からずっと離れる為にすごく走ったはずだ。ずっと後をついて来ていたのか?
隆鷗は、混乱している自分を落ち着かせる為に、少年を見た。観察だ。
本当に、この少年は人なのか?人といえば、何処か拭えない違和感がある。だが、それをはっきりと言葉にすることができない。揺らいでいる感情から生まれるもやもやするものだ。
ひどく苛立ちを感じる。
「ねぇ、君は、今混乱している?なんか滑稽だよ。どうして分からないんだ?」と、少年が言う。
「君こそ、さっきから何が言いたいんだ。はっきり言えばいいんだ。ひどい思わせぶりだ。なんかイライラする」と、隆鷗は言った。
少年が俄かに笑う。
「言わないよ。だって君面白いんだもの。君に打ち明けてしまえば、せっかくの遊びが台無しだ。さて、どうする…?もっと出口を探すかい?」と、少年が含みのある言い方をする。
隆鷗は考えた。
出口は本当にないのたろう。
だったらここは何処なのか?ということを考えた方が良さそうだ。
おそらく、ここは現実の世界ではない。かと言って夢である筈がない。だとしたら、もう…ひとつしか考えられない。
異界だ…。
隆鷗は、何故だか分からないが、ひとつだけ、頭に思い浮かんだものがある。
月子のことだ。
月子は、隆鷗を見て呪いの文字を纏った物怪と言った。
呪いの文字と異文の書の文字が重なる。
もし、月子が見た文字が異界の文字だったら…?月子はその文字を読み解くことなど出来ないだろう。だから呪いの文字などと言ったのではないだろうか?異文の書は、ぐにゃぐにゃして、不気味な文字が連なっている。一目見て、まるで呪いの文字のようだ。
そして、異界の文字には一字一字力がある。
わたしの身体から異界の文字が現れていたというのか?異界の文字が、わたしの行動を指し示しているのだろうか?
「すごく考えているね。君は、考え方を変えない限り、この状況をどうこうすることなんて出来ないよ」と、少年が笑う。「さて、これから君がどうするのか?僕はすごく楽しみだよ」
隆鷗は、少年を無視した。
隆鷗に混乱を与える為に、少年がわざと苛立たせるようなことを言っているのが、隆鷗には分かった。
隆鷗は、少年に背を向けた。だが、背を向けた途端に、少年の姿が視界に入る。
少年がにやにやしていた。
しかし、隆鷗には、少年がおちょくってくる、そうした行動で次第に確信する。
再び、少年に背を向けて、その場を素早く離れた。すると少年はふわふわと宙に浮いて隆鷗の横をぴったりとくっついてついて来る。
楽しそうに笑う少年。
隆鷗は、ぴたっと立ち止まった。少年は急に止まることができずにそのまま先へ進んだ。その時、隆鷗は、少年の両足首を掴み、ぐるぐる回して放した。反動で少年は空高く飛んで行く。文殿の天井に到達すると、少年の身体はするりと天井をすり抜けて消えた。
「バイバイ…」と、隆鷗は呟いた。
まったく理解できない光景だが、異界であるのならば、理解を越えることが起こったとしても、然程不思議に思わない。天井をすり抜けたのなら、壁だってすり抜けるだろう。隆鷗は腕を伸ばして、壁を触ってみた。その瞬間、文殿がバラバラになり、すぅーっと消えてしまった。
すると、真っ暗闇が広がった。しかし、ただ闇が広がっているばかりではなかった。よく見ると、ふわりふわりと、何かが揺らめいている。次第にうっすらと色が浮かんで見えてきた。
無数の触覚のようなものをゆらゆら揺らしながら魚の形をしたモノがふわふわ空を泳いでいたり、奇妙な形をした虫が空を飛んでいる。そんな呼称出来ないモノたちが無数に動いている。
隆鷗は、ただ呆然と見つめていた…が、やがて、くすっと笑った。
そして、呼称できないモノたちに紛れて、白蛇が見えた。白蛇は、まだあの時のままだ。蜘蛛の糸に縛られてぐったりとしていた。
やっぱりここは異界だ。
しかし…?
隆鷗は、流彗を呑み込んだ空間の切れ目から深い闇を見た時、そこは何処までも奥深く、何処までも闇が続く想像もできないほど広いところだろうと、恐怖を覚えた。だが、ここは想像とは違う。異形の呼称できないモノたちの滑稽さは、何だか愉快だし、先日闘った白蛇は、視界の中でまだぴくぴくしている。
隆鷗は、ゆっくりと歩いてみた。身体が思ったより軽く、次第に空へと浮かぶ。
「ほら、楽しいだろう」と、突然、先程空へと飛ばした少年がいつのまにか傍にいた。そんなことも、もう不思議ではなかった。
「ねぇ、君、僕とずっとここにいようよ。どうせ君は、もう戻れないよ…何でだと思う?君は死んだんだよ」と、少年が言う。「だから出口がないのさ」
少年は嘘をついていると、隆鷗は思った。
「君も死んでいるのかい?」と、隆鷗は尋ねた。
「さあ、どうだろう?僕には、もう生きていることも死んでいることも、然程大差ない。…って言うか、そんなことどうだっていい。興味がないんだよ」
少年がふわりふわりと浮いている。そしてまた隆鷗もふわりふわり浮いている。
「嘘だね。何が興味ないだよ。笑わせる。君はわたしに死を植え付けようとしているだろう。そう認識させて、ここに留めようとしているのかな?」と、隆鷗は言った。
「なるほどなるほど。やっぱり君を僕の掌でころころ転がすのは難しいな」と、少年が笑う。「でもね、君もそうなんだ。考えてみて。死んでいようと、なかろうと、君はここから出られないんだよ。つまりね…生死なんて関係ないということになるね…そうだろう」
「関係あるさ。だって、君は生きているんだよね。わたしだけ死人にするつもりなのか?君は生きている。君の片眼に刻まれたその文字がそう言っているんだよ。僕は騙されないよ」
少年は、その言葉にふわふわと隆鷗から離れたり、くっついたりしている。
「君が何と言おうと、ずっと死ぬまで、ここを出られないんだ…それは紛れもない事実なんだよ」
少年がそう言い終わらないうちに、隆鷗は、まるで一瞬に天に登るように掻き消えてしまった。
「えっ?」
少年は呆然とした。
「入るも、出るも…自由なんだ。そんなやつが存在しているんだ…?これは面白い…」と、空を見つめ、少年はぽつりと言った。
「でも、怖いな…」
一瞬、視界がぼんやりしたかと思うと、次の瞬間、寿院と、刀の刃先が視界に入ってきた。
寿院から視線を外すと、天井の大きな梁が見えた。
「やっぱり、わたしを助けてくれるのは、寿院だ」と、ぽつりと隆鷗は言った。
寿院は青斬刀を隆鷗の頭に突きつけたまま、涙を溜めている。
「隆鷗君…。心配などしなかったぞ。君は異界に行っていたんだろう?」と、寿院がぽつりと言う。
「ここは何処なの?」と、隆鷗は尋ねた。
「まだ黒根家の敷地内だ。黒根家の家来が何故か助けてくれて、屋敷に入れてもらった」と、寿院が答えた。
「へぇー。黒根家にもいい人がいるんだね」と、隆鷗が言う。
「いや、わたしは、そうは思っていない。だから隆鷗君も注意してくれ!」と、寿院が答えた。
「そうなの?分かった。だからいい加減、刀を頭に突きつけるのはやめてくれないかな」と、隆鷗はため息を吐いた。寿院がはっとして、慌てて青斬刀を収めると、ようやく解放されたように隆鷗は、上体を起こした。
もう、青斬刀は、半分寿院のものだな…。と、隆鷗は思う。きっと青斬刀も寿院を受け入れているんだろうな。
「ねぇ、寿院、秋君に話したいことがあるんだけど、何処にいるのか分かるかな?」と、隆鷗は懐を探ったが、持ってきた筈の『異文の書』がなかった。
そうだよね。あれは実体ではなかったんだ。と、隆鷗はがっかりした。
「秋もここにいるよ。夕餉の準備で離れの小屋に木炭を取りに行ったから、すぐに戻る。屋主と、秋がいなくなったから、慌てて青斬刀で隆鷗君を戻したんだよ。もう、かけだった。本当に怖かったよ。君が反応しなかったら、どうしようと…」と、寿院が言った。
「うそだな。寿院には分かっていた筈だ。わたしが異界にいることを…。そのことで寿院に話したいことがある。秋君には言わない方がいいんだよね。寿院はやっぱり、まだ秋君を信じきっていないんだね」と、隆鷗は言った。
「全部はね。少しでも疑うところがあれば…、手の内は明かせない。でも、君はそんなこと心配しなくていいよ。君が秋と友になりたければ、遠慮しなくていい」と、寿院が言う。
「そうだよね。秋君は打ち明けていないことが多い。何故、あの時、わたしたちに隠れて、声もかけずに戒を助けに行ったこととか、分かっていないよね。戒が危険な状況だったことをまるで知っているみたいだったからね。寿院の気持ち分かるよ。だから寿院もわたしに遠慮しなくていいよ」と、隆鷗が言う。
「おおぅ、隆鷗君が大人になった。兄さんは嬉しいよ」
「アホか」
暫くすると、秋と義忠が戻って来た。隆鷗の意識が戻っているのを知ると、秋は、寝床に頭を抱えて座っていた隆鷗に抱きつかんばかりの勢いで飛んできた。だが、隆鷗が、いよいよ抱きつこうとするところで右手で阻止した。
隆鷗は、秋の額を掌で押しながら、廊下に立っていた義忠を見た。
「あっ?泥棒…だ」
「あっ、いや違うんだ。隆鷗、これには訳があるんだ。聞いてくれるか?」と、秋が言った。
しかし、隆鷗は、聞いていない。
「秋君。申し訳ない。『異文の書』取り戻せなかった。でも、『異文の書』は、君が書いてくれた黒根家の、場所を示してくれた絵図のなかで印をつけたところにはないよ」と、隆鷗は、義忠を見ながら言った。
「えっと…その…泥棒でーす」と、義忠が呟く。
「どう言うことだよ?」と、秋が驚く。
「ねぇ、秋君、左眼に傷のある少年は知っている?」と、隆鷗が言うと、秋は、その場に腰を下ろした。同時に隆鷗も右手を下ろした。
「無視ですか…」と、義忠が呟きながら、数歩隆鷗に歩み寄った。
「多分、知ってる」と、ぽつりと秋が言う。「傷かどうか分からないけど…いつも黒い絹を左眼に巻いている男がいる…」と、秋が義忠を見た。
義忠の表情が見る見るうちに変わっていく。怒りに似た恐怖を抱いた表情に変わった瞬間を寿院は見逃さなかった。
隆鷗は、異界で会った少年が、生きていると感じていた。そして、必ず現実の世界でも出会うだろうと思った。寿院は、黒根家や黒司家には、常人では理解できないような秘密があると、静観している…。




