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小さな都


隆鷗と秋は、『異文の書』奪い返す、同じ目的の為に協力して、黒根家へと忍び込む。だが、どうしても噛み合わない二人。隆鷗が心配な寿院は、こっそり二人の跡をつけるのだが…。



 黒い、大きくて分厚い門扉はしっかりと閉じられている。いかにも不気味で怪し気な門扉だ。

 都の片隅にある黒根家は、極端なほど人通りのない、静かな場所にあった。隣接する民家もなく、敷地面積はかなり広大だった。裏門側は、都の外にある山の裾野に近く、恐ろしく田舎の風景が広がっていた。

 門扉の前には、わりと大きな通りがある。だが、その両脇が雑木林になっていたので、その暗鬱さが通りを薄暗く、翳りのある侘しい光景へと変えていた。


 陸は、物乞いに変装して、通りの脇に筵を敷いてぼんやりした顔を装い座っていた。その隣りには、さいという男が座っていた。

 さいは、信陵寺の門に赤子が捨てられた時、いち早く山を降りて麓の異変に気がついた陸を導いた男だ。陸は、村人に扮装していたさいが村人ではないとすぐに見破った。さいは、村の異変を調べていると言う。

 陸は、不思議に思った。こんな山の麓の異変を余所者がわざわざ調べる必要があるのか?それに一見して異変が起こっているなんて分からないのに何故、気がついたのだろう?陸は男に尋ねた。

 「こんな何もない村をなんでわざわざ調べる必要があるの?」

 「何もない訳はない。ここは我らが大切な先生に会いに行く為の途中の村だ。そんな村で異変が起こっていたら、黙って素通りは出来ない」と、さいが言った。

 大切な先生…?それが苞寿様のことだとすぐに陸は分かった。だが、あえて寺のことには何も触れなかった。

 「何故、異変が起こっていると気がついたの?」と、更に陸は尋ねた。

 「見れば分かるさ。田畑に誰もいない。こんなことはこれまで一度もなかった」と、さいは言った。

 細かなことによく気がつくな。と、陸は思った。さいがいなかったら、陸は効率よく動くことが出来なかった。さいは恩人だった。

 そして、陸の元を突然、さいが訪ねて来たのだ。その時、さいが言った。

 「わたしのこと覚えていますか?陸様。陸様はこれから都の奥深く、様々なことをお調べになることになる。わたしも手伝わせて下さい」

 「えっ?どうしてここが分かったの?もしかして、あの時、僕が寺に住んでいることが分かっていたの?」

 「いいえ…陸様のことはずっと昔から知っていましたよ」と、さいが驚くことを言った。

 「昔からって…?えっ、だって僕は父母の顔も知らない孤児みなしごだよ。そんなはずないじゃない」と、陸は、首を傾げた。

 「陸様は孤児みなしごではありません。わたしは陸様のお父上のことをちゃんと知っていますから。その話しはおいおいお聞かせいたしますよ」と、さいが微笑んだ。すごく温かい目をしていた。

 「あの時、あなたがいなければ僕は何も出来なかった。だけど、陸様と呼ぶのはちょっと…。あなたは僕よりずっと年上だ。陸と呼んで下さい」と、言った。さいという名もその時初めて聞いた。

 陸は自分が孤児みなしごだと思っていたから、父のことを知っている者がいるだけですごく嬉しかった。


 「おい、陸!」と、さいが声を掛けた。

 「あっ?多分、あれが、そうだ。だいたい予想通りだな。ふっ…」と、陸は、微笑した。

 そこには、ぼろぼろの野良着をだらしなく着ている寿院がふらふら歩いている。寿院もまた物乞いに扮装したつもりなのだろう。

 「おっさん…」陸は声を抑えて寿院を呼んだ。

 寿院はふらふらしながら、陸の傍に寄った。

 「おおぅ、えっと…?陸君か?」と、寿院は尋ねた。

 「ああ、そうだ。陸だ。虚言様に聞いたんだな。おっさん弟分の跡をつけてきたのか?」と、陸が言った。

 「まぁな。あの門が黒根家か?門が大きすぎてまったく全貌が見えないな。ここに忍び込むつもりなのか?まったく…無謀なやつらだ。それにしても、ここは人っ子一人いないが、目立たないのか?」と、寿院は聞いた。

 「そうでもないよ。ここには何かしら物乞いがうろうろしている。黒根家に施しを受けているやつらだろう。昨日もいたから、怪しまれることもない」と、陸は言った。「だけど、おっさん。物乞いの格好にえらく立派な刀を身につけているな、そっちの方が怪しまれるな」

 「これは仕方ない。あの子たちに何かあったら、全員斬るつもりで来たから…」と、寿院は言った。

 「いや、それ普通に無理だから…。おっさん、行くよ」と、陸が立ち上がった。

 「何処に…?」と、寿院が言っているうちに、陸は素早く歩き出した。寿院も急いで跡を追った。

 「雑木林を抜けて行くよ」と、陸が言った。

 「おう、陸君…昨日一日しかなかったのに調べてくれたのか?」と、早足の陸との距離を保ちながらついて行く寿院は、陸に聞きたいことがたくさんあった。その後ろには、寿院が迷わない為の配慮か、さいが歩いた。

 「もう、面倒臭いから陸でいいよ。黒根家は、門も大きいけど、高い築地塀ついじべいに囲まれて、外から見ることは出来ない。だけど、裏に回ると、都の外の山の裾野がすぐ傍にある。そこの部分は一部だけ竹を編んだ塀で、意外にもすかすかだ。多分、その山で黒根家は何かをしているに違いない。出入りは難しくない。まぁ、常に見張りはいるが…」と、歩きながら、陸が言う。

 「あの子たちはそこへ向かったんですね?」と、寿院は尋ねた。

 「いや、おっさんの弟分は、堂々と正門から入ったよ。一人が前に立ち、もう一人は後ろで小さくなっていたな。一人は、堂々と黒根家の門番をすり抜けたが、後ろの者は門番から止められていた。だが、先に入った者が門番を怒鳴ったら萎縮した。あれは何者だ?」と、陸が尋ね返した。

 「そうだな。黒根家の者ではないが、黒根の分家の者だ。今は弟分の友だ」と、寿院が言った。

 「えっ?」と、陸は立ち止まって寿院を振り返った。「それって、大丈夫なの?友って…分家って言ったって黒根家の者だよね。黒根の者が大切なモノを奪い返すために黒根家とは関係ない友を黒根家に忍び込ませて、黒根家から奪い返すの?それって、おっさんの弟分って、人が良すぎないか?黒根家って相当危ない呪術師の家系と聞くが…。それにおっさん、黒根家のことを何も知らないんでしょう。なんでこんな割に合わない危ないことを止められないんだよ?馬鹿じゃない!」

 陸は、腹が立って来た。

 「えぇぇぇ…?なんで怒るの?いや、確かに、そうなんだけど、それはわたしも今ひとつ理解できていないんだが、あいつを信じるしかないだろう。あいつは、ひとより、いろいろなモノが見えていて、考えていることの次元の違いを感じるんだよ。今はあいつの思い通りにさせて、わたしは全力で守ることしか出来ない。そんなことしか言えない…」と、寿院は言った。

 陸は、隆鷗を理解しているのだろうか?と、不思議な気持ちで寿院を見た。いまだに理解できていない陸は、隆鷗の不思議な言動を現実に当てはめ、いつも否定的に見ていた。ただ、隆鷗が最後に悪霊と闘った時だけ互いを信じ合えた気になっていたが、時が過ぎると、やはり隆鷗の身の回りで起きることは俄かに信じ難いことばかりだった。なのに、隆鷗が心配で都に出て来てしまったのだ。


 陸は、苞寿が暫く寺を出た後に苞寿庵の番人になった旋寿せんじゅに隆鷗のことを相談した。隆鷗は、絶対危険なことに身を投じ、やがて信陵寺まで危険に晒すだろうと、旋寿に訴えたのだ。すると、旋寿は、都に、家のことなどまったく気にせず自由に生きている兄上がいるから、暫く厄介になって隆鷗様を見張ればいい。と言った。

 「だけど、兄上は自由で気まぐれだから、陸様が押しかけたところで追い返されるかもしれない。だから負けずに居座るといいよ」と、笑っていた。

 それが虚言様だった。だが、虚言様は、本当に自由で、いったん追い返されだが、陸が無視して居座ったら、普通に受け入れてくれた。追い返すことも、居座られることも、虚言様はどうだって良かったのだ。


 虚言様は、時鳳司じほうじ家の三男、光旒こうりゅうだった。陸には、虚言様の自由さは、居心地が良かった。


 そして、寿院に出会った。


 寺を出た隆鷗が最後に言った言葉を陸は決して忘れることはなかった。


 麓の屋敷の悪霊と闘った後、隆鷗は、止める陸の腕を払って、隆鷗らしからぬ怖い顔をして、怒鳴ったのだ。

 「わたしは、都に行く。月子様をぶってしまったんだ。月子様が言った。お前は誰だ!私はただ、都に戻って、寿院と共に手鞠の仇を討ちたいのだ!何故それを阻む。お前は誰なのだ?…と、涙を溜めていた。わたしはどうしても寿院のところに行かねば気が済まない。でないとわたしは一生月子様を憎んでしまう。止めないでくれ!」

 今でも隆鷗が怒鳴った時のその顔が焼き付いていた。

 隆鷗は、どんな思いで都に来て、どんな思いで寿院のところにいるのだろうか?そして、何をしようとしているのだろうか?


 「寿院…様、すまない足を止めてしまった。急ごう。しっかり刀を携えているんだ、見張りは寿院…様に任せるから!」と、陸が言うと、再び早足で歩き始めた。

 「えっと…陸…く…待って…人が良いわけがないんだよ!友の為とかではないんだよ!誰の為とかではない。あいつにしか見えないモノがある……それをあいつは何なのか、見極めているんだよ。分からないよな。わたしが言っていることなんて…わたしにも分からないから…って言うか、陸君、早過ぎるよ…!」

 「分からないよ…」と、陸は小声で呟いた。



 その頃、隆鷗は、しゅうの背中に隠れて、門から本殿の庭を歩いていた。

 門の中に入ると、想像以上に大きな敷地だった。幾つもの大小の屋敷が並んでいる。真正面にある、まるで象徴的な本殿は、幾つもの漆黒の柱に囲まれて、広々とした中が見えていた。その奥には向こう側の、小高い大きな屋敷の、庭の緑葉が鮮やかに見えていた。

 昨日見た、微かな空間の歪みは、小高い大きな屋敷の裏にある山の裾野から見ていた。右手側に見えていたから、左手だ。隆鷗は、ゆっくり左側の少し高めのところを見たが、違和感はなかった。山の裾野から見えた歪みはわりと近くだった気がした。と、いうことは、今見ているとこよろり更に奥の方かもしれない。

 隆鷗は、周囲のことを忘れて、集中して探した。

 「隆鷗、盗賊が襲撃した時、二人の剣士の後に屋敷に入って来た男の顔は覚えている?」と、突然(しゅう)が言った。

 「うん、多分…」と、隆鷗は答えた。

 「あれは、義忠というんだ。当主の右腕だ。あれはあんたの顔を見ている。会うのはちょっとまずい。そして、もうひとり…。もし父上が屋敷にいたら、これも会ったらまずい。せっかく僕の従者として入れたんだ。気をつけろよ。後は大丈夫と思うけど…。とにかく義忠と父上はまずい。見かけたら、すぐに隠れてくれ」と、しゅうが言う。

 「わたしは、あの方向に行きたい。秋君はなんか用があるのなら、別々に行動しよう」と、隆鷗は指を差して言った。

 「いや、何言ってるの?勝手な真似するなよ。僕がそう様の寝殿に案内するよ。そこに『異文の書』はある。きっと…」と、秋が焦って言う。

 「それはあの方向なの?」と、隆鷗は、何かに取り憑かれたように言う。

 「黙れ!門番も、本殿の見張り番も、皆義忠の配下だ。すでに僕が来たことを義忠は聞いているかもしれないから、勝手な行動はやめてくれよ!」と、秋は、額に汗を浮かべる。

 「秋君、可笑しいよ。君は、分家の若様だ。当主の右腕がなんだって言うんだ?何をびくついているの?」と、隆鷗は強気に言う。

 「えっと。隆鷗、分家って、そんなに偉くないんだよ。当主の右腕には何も言えないよ」

 「ふーん、そうなんだ。でも、何も言えない、その右腕を盗賊呼ばわりしていたよね。結局、また寿院に嘘をついたんだけどね…」

 「うるさいな…!義忠が何故、寿院様を襲ったのか…?それが分からなかったから咄嗟に嘘をついてしまったんだよ。だけど、寿院様はもう見抜いている。きっと…。僕は寿院様を守る。だから義忠には僕の態度をはっきり示すつもりだ」と、秋は後悔していた。

 隆鷗は、秋の置かれている立場のようなものが今ひとつ分からない。だから黙るしかなかった。


 喋りながら、歩いていると、本殿のすぐ傍まで辿り着いた。幾本の漆黒の大きな柱に支えられた本殿の右手の奥に菩薩様のような仏像が聳え立っていた。しかし、よく見ると、仏像ではない、美しくて、神々しい威厳に満ちた女性の像だ。

 誰だろう?

 隆鷗は、それを見ていると、不思議と不安な気持ちを抱いた。何やら胸がきりっと苦痛を帯びた厭悪な感じだ。

 そんな時、同時に本殿の見張り番が歩み寄ってきた。

 「黒司の若様、義忠様がお呼びです。お話しがあるので、義忠様の屋敷へと足をお運び下さいとのことです」

 「分かった」と、秋は一瞬顔を顰めた。見張り番が離れたところで呟いた。「一昨日のことを問い詰めるつもりだ」

 秋が不安気に振り返って隆鷗を見ると、姿が見えない。

 「あれっ?」本殿をぐるりと回ったが、隆鷗の姿は見つからなかった。ひどく嫌な予感がした。だが、これ以上、義忠を待たせる勇気はなかった。



 義忠の屋敷は本殿の裏にある、当主の、小高い大きな屋敷の近くにあった。これでは気が休まらないないだろう。と、しゅうはいつも心配になるが、義忠は当主に威圧感など感じていない様子だった。ただ、敷地内の片隅に追いやられたたまの様子をいつも気にしていることは、しゅうにも伝わった。

 義忠は、庭を見ながら廊下に座って、しゅうを迎えた。

 隣りに敷いたしとねを指して、座るように勧めた。

 「秋様、先日は大変失礼致しました。まさか、秋様のお知り合いとは知らずに、あんな真似を…。すっかり嫌われてしまいましたね。盗賊呼ばわりされて、わたしは動揺しております」と、義忠が微笑しながら言った。

 「いや、僕こそ申し訳ない」

 「あそこは秋様の仮の住まいですか?三人の使用人に囲まれて…おまけにそう様にそっくりな女子おなごまでいましたね。何処で探して来たのですか?」と、義忠は意味深に微笑した。

 「へぇー、義忠には、あれはそう様そっくりに見えるのですか?僕にはまったくそうは見えないですね。まったく別人です」

 「まったく別人…?ですか。しゅう様は、しゅん様があんなことになったゆえ、御当主様と奥方をひどく憎んでいると思いましたが、しかし、義忠は何も申すまい。たとえ、秋様が心に何かを秘めていようと、そして何かをしようとしても、誰にも何も申すまい…しかし、それが黒根家にあだなすものでしたらいささか黙っているわけにはいかないですが…」と、義忠は言った。

 「あれっ?なんかすごい矛盾を感じる。何も申すまい。と、言っておきながら、僕が憎んでいるのが御当主と奥方と知っているんでしょう。結局、僕の心の内を知っていながら、そんなことを言うんですね。やっぱり義忠は、爽やかな顔をして、腹の中が探れないな」と、秋は苦笑した。

 「いえいえ、単純なことです。黒根家はもともと珠様のお家です。そして実の弟路様の家。秋様の家でもあります。わたしは純粋に黒根家の血筋が正統に守られるといいと思っているだけです」

 「えっ?それはどういう意味なんですか?僕にはすごく難しい言葉ですが…?」

 「いえいえ、簡単な話しです。黒根家は先祖代々ずっと珠様のような力のあるものに受け継がれてきたのです。この代で絶やすことは出来ないのですよ。それはしゅう様も同じではないのですか。外にあのような仮の住まいをお持ちなのは…そういうことでしょう。しかも、あのような腕の立つ男を従えているとは…。わたしの腕の立つ従者二人を一瞬で倒してしまうのですから。わたしでもあの男を倒すには一苦労するだろう。わたしは秋様を見守ることにしました。あの仮の住まいが無事だとよろしいのですが」と、義忠が微笑する。

 義忠は、はたから見たら善人に見える。しかし、実際のところ何を考えているのか、凡人には分からない。口当たりの良い言葉を並べる時の義忠は不気味だった。人の良い笑顔を浮かべながらひとを斬る。それが義忠だった。

 「あの家には手を出すな!もし手を出したら、義忠とて許さないから…!」と、秋は言った。

 「わたしは見守ると申しましたが…?」

 「見守らずともよい。忘れてもらった方がよい」

 「忘れたくても忘れられないですね…」

 「それは僕への警告ですか?」

 「深読みする必要はないです。秋様がお望みなら、忘れましょう」と、義忠は微笑んだ。「しゅう様を呼んだのは、そんな話しをする為ではありません。じつはたま様が久しぶりにしゅう様に会いたいと。一刻も早く伝えたかったのです」

 苦笑する義忠の言葉を聞いたしゅうは、ひどく驚いた。

 「伯母上が…?」しゅうは震えた。「伯母上が何故…?僕に会いたいなどと言う。伯母上がそんなことを言うはずがない。僕を見るたびに忌まわしい目でしか見なかった伯母上が…?」

 「そんなに怖がるな。珠様は、もう昔の珠様ではない。もう力を失いかけている。秋様が思っているより、ずっと人間らしい」と、義忠が言った。

 「なんで、突然僕に会いたいなんて言うんですか?これまでは僕のこと避けていた。むしろ顔を見かけただけでも不快そうにしたのに…」

 「さぁ…わたしの感じだと。凄く会いたそうだったな。多分、秋様に何か聞きたいことがあるんだと思う。力を失ったとはいえ、完全に失ったわけではないんだよな。おそらく珠様と秋様にしか分からない何かだ。わたしの予測だが…。すぐに行って下さい」

 秋は、重い身体を引き摺るように立ち上がり、空を仰ぎ見た。隆鷗の姿が見えないまま、珠のところへ行くのは不安だった。

 隆鷗のやつ…いったい何処に行っんだ。こんな時に限って…。

 しかし、義忠に聞いた以上、無視はできなかった。


 しゅうが去った後、義忠は三人の従者を呼んだ。

 庭に従者三人が厳粛な面持ちで立った。

 昨夜まで従者は四人だった。だが、優先順位が低かった新参者の呪術師を調べた従者を義忠は、一太刀で斬った。そこにしゅうと、そうに似た少女がいることを報告しなかったからだ。どんなに優先順位が低くとも手を抜くことを義忠は決して許さない。

 「お前」と、義忠は一番左の端っこにいた従者を指差した。「黒司の若さんの都での仮の住処のことを徹底的に調べろ。そこに住んでいる若さんを始め三人の住人をだ。特にそう様に似た少女のことを徹底的に。ぬかったらお前も斬るぞ」

 そして、残りの二人を睨みつけた。

 従者たちはひどく萎縮した。

 残りの二人は、寿院に一瞬で倒された者たちだった。寿院のたった一撃で気絶してしまった二人は、斬られる覚悟をした。だが、義忠は威圧しただけで何も言わずに「下がれ」と、命じた。


 一方隆鷗は、微かに感じた厭悪感の正体を突き止めるかのように、ずっと女性像を見ていた。そして自分でも気づかないうちに、本殿の傍にあった、大きな立石の影に隠れてしまったのだ。ほんの僅かな瞬間、しゅうの死角に入ってしまった。

 そして、隆鷗もしゅうの姿が見えないことに気づいて、本殿の周囲を徒に歩き回ってしまった為に、見事にしゅうとすれ違ってしまった。

 だが、隆鷗は、秋の姿が見えなくなっても慌てる様子もなく、気になっていた空間の歪みの方向へ歩き出した。

 敷地内は、見張り番だけではなく、たいそう目つきの悪い怪しい男どもがたむろしていた場所に出会でくわしたりしたが、隆鷗の堂々とした態度に誰も咎めるものはいなかった。

 空間の歪みの方向に進めば進むほど、表の洗練された屋敷とは違い、あばら屋や掘建小屋が軒を連ねている。まるでこの敷地内が都を象徴するような区域分けがなされているようだった。

 隆鷗は、その光景を見ながら、ひどい違和感に苛まれた。自分にだけ見えているのか?白い霧に包まれ、身体がふわりふわり空中に浮いているような…。曖昧で不安定な歪んだ感覚に囚われた。視界の全てが歪んでいるような光景が錯覚でないとは言い切れず、だが、それを現実に置き換えることも出来ない、曖昧な目の前の光景に、自然と眩暈を感じた。

 いつのまにか、何処を歩いているのか分からなくなった。


 これはまずい…。何処まで本当の景色か、幻影か、きっと分からなくなっているのだ。まずい…何の影響を受けているのだ。……というか、あの歪んだ空間の中を歩いているのではないだろうか?


 隆鷗は、目を閉じて心を落ち着かせた。ここで惑わされたら、ひどく危険な気がする。そして、暫く目を閉じたまま、よく知る風景を想像した。山を思い浮かべた。父上と兄上が眠る山だ。記憶に留めた遠い日々の風景。澄んだ空気を思い出した。そよそよと吹く優しい風。次第に隆鷗の心が落ち着いた。

 ふうーっとため息をついて、ゆっくりと目を開いた。

 「やあ、君、すごくいい顔をしていたよ」と、突然、隻眼の少年の顔が視界に飛び込んできた。


 えっ?


 「えっ?何を驚いているの?」と、隻眼の少年が言った。

 隆鷗は、少年の背後に冊子や巻き物がたくさん並んだ書籍棚を見た。そして、その書籍棚がたくさん並んでいた。まるで文殿ふどののようだ。

 「君、どうしたの?冊子や巻き物が珍しいの?」と、少年が笑った。

 「誰…?」隆鷗は小声で呟いた。

 「誰と言われても…君は僕を知らないから…。そして僕も君を知らない。だけど、勝手に入って来たのは君だよ。ここには誰も入ってくることはできないのだけどな…」と、少年が言った。

 「ここは何処なの?」

 「えっ、分からないの?君が入って来たんだよ。訳がわからないよ」と、少年が困った表情をした。

 だが、隆鷗には、少年の表情を見ることが出来ない。少年の片目に深い傷が刻まれていたからだ。ただ、刻まれた傷が、何か、意図的に書かれた、呪いの文字に見える。勿論それを読むことが出来なかった。

 隆鷗はじっと少年を見つめた。

 「君は…人…なの?」と、隆鷗は、思わず尋ねていた。



黒根家で些細なことで離れ離れになった隆鷗と、秋。秋は、思いがけず珠に会いに行くことになり不安を隠せない。一方、隆鷗は、片眼に不気味な文字を刻んだ謎の少年に会う。

そして、寿院と陸と祭も黒根家へと忍び込む。広大な黒根家が五人を呑み込んでしまう…。



※2026/1/6 一部修正しました。


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