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虚言様


これまで名前だけしか登場しなかった虚言様が新たな登場人物に加わり、隆鷗の旧友も久々に登場…!新たな展開を迎える…!



 寿院は、朝餉を済ますと、一人で出かけた。早朝から賑わう大通りを足早に歩き、幾度も小道に入り、また大通りに出るということを何度も繰り返した。いつもだったら、往来の顔見知りに声をかけて、無駄話のひとつでもするのだが、その日は、顔見知りを見かけても、素通りした。そんな寿院に首を傾げる者が幾人もいたほどだ。


 昨日、陽が沈みかけた頃屋敷に戻ったら、本堂に宿紙を広げて、珍しく隆鷗としゅうが何やら深刻な話しをしていた。

 宿紙にはしゅうが書いたのか、よく分からない図形が並んでいた。しかし、ずっと見ていると、それが、何処かの屋敷の見取り図だと分かった。形は適当だったが、おそらく位置関係は、正確なものに違いなかった。

 寿院は、二人の頭上から黙ってそれを見ていた。

 嫌な予感がした。

 「びっくりした」と、寿院に気づいたしゅうが驚く。「声かけて下さいよ」

 「いや、すごく真剣にこそこそ話しているから…。それは何だ?」と、寿院が尋ねた。

 「これは、黒根こくね家の屋敷です」と、しゅうが言う。

 「何をするつもりだ?」と、寿院が真剣に言う。

 しゅうは面食らった。寿院のことだから、何処が屋敷なんだ!とか、茶化してくると思っていたからだ。

 しゅうは一瞬黙ってしまった。

 屋敷の見取り図には、雑に沢山書き込まれていた。何本も引かれた侵入経路…狙う場所…。注意すべき場所。退避の場所。そして脱出経路…。書き込まれていたのは、こんな感じだろうか。と、寿院は、思った。

 「隆鷗君…。君には伝わらなかったのか?今は動くなと言ったつもりだったが…」と、いつになく厳しい口調で寿院が言った。

 「違うよ。寿院様、隆鷗を責めないでくれ。僕が頼んだんだ」と、しゅうがびっくりした口調で言った。

 「今、我らが動くのは下策だ。今は待つ時だ!」と、寿院は呆れたように言う。

 「分かっているよ。寿院。だけど、しゅう君のことも分かるし、あれを理解する者がいれば、わたしでもどうすることも出来ないかもしれない」と、隆鷗は言った。

 寿院が一瞬黙る。

 「あれ…とは!」と、やがて寿院が尋ねた。

 「『異文の書』だよ。あれは寿院が思っている以上に危険なモノだ」

 「『異文の書』…?しゅう君の曾祖父が書き写したという書か?隆鷗君でもどうすることも出来ないのか?…いや、しかし、理解する者がいるのか?」と、寿院が言う。

 「いるよ。そこに難解の書があれば、それを解き明かしたいという者は必ず現れるだろう?」と、隆鷗は、寿院に尋ねた。

 「いや、分からない。そんな難解なものを解明するものが、現れるのか?」と、寿院は、その場に座った。

 「実際、しゅん君は、あの日あの文字を使って、蜘蛛の糸を床から出していた。しゅん君は、僅かかもしれないけれど、解き明かしていたんだよ?鶏肋けいろくの書に貼られた呪符はあの文字が書き写されていて、威力を発している。きっと、発動条件も見つけているんだ。だけど、門に貼られた呪符は、蜘蛛の糸かと言うと、少し違うような気がするんだ。ということは、異界から蜘蛛を発動させるだけではないかもしれない」と、冷静に隆鷗が言う。

 「隆鷗君、そんな怖いことを言わないでくれるかな…」と、寿院が言った。

 「いやいや、しゅんとか隆鷗は特別だ。そんなひと滅多にいないから、そんなに怖がらないでよ、寿院様!」と、しゅうが言うと、隆鷗は、すかさず呟いた。

 「しゅう君がそれを言う?そんな家に生まれていながら、いつも知ってて、見ないようにしているだけだということにいい加減気づいた方がいい。君は知っているんだよ。何もかも。君はその素質が開花しないように自分で押さえつけているんだ。だから口を聞きたくもないわたしに頼んでまでも『異文の書』を取り戻したいのでしょう?黒司家の恥とか、人質に取られたとか…、そんなこと、どうだっていいんだよ。『異文の書』が君を呼んでいるんだよ!」

 「勝手なことを言うな…」と、しゅうが呟いた。

 「そうか…。その黒根家の屋敷の絵図は、『異文の書』を取り戻す策略のためか…?」と、寿院が言った。「こそ泥の真似か?」

 「こそ泥とか言うな!」と、隆鷗は怒鳴った。「どんな手を使っても取り戻すんだ!簡単に考えないで。『異文の書』がもし悪用されたらどうするんだ?そんな恐ろしいモノを野放しにしておくことがどんなに危険なことか、分かっているの?しゅう君からその話しを聞いた時点で気がつくべきだった…」

 隆鷗は、昨夜、しゅうと話した後、不意に月子のことを思い出した。


 月子がある日、じっと隆鷗を見ながら、呟いたのだ。

 「なんだその気味の悪い文字は?まったく読めないし、呪いの文字みたいだ。ひとを陥れるつもりなのか?そんなモノを纏っている者が何故、ここにいるのだ」

 隆鷗は、月子のその言葉を理解できなかった。月子は誰のことを言っているのだろう?と、隆鷗は思った。

 だが、不意に理解した。あれは自分に向けられた言葉なのだ。月子は、隆鷗の周囲に浮かぶ、読めない、歪な文字を見ていたのだ。それは、この現世うつしよの文字ではない、別の世の文字なのだ。

 月子は、隆鷗の身体から放出される読めない文字を忌み嫌った。だからずっと隆鷗を罵っていたのだ。

 それを思い出すと、恐ろしい孤独を覚えた。


 「寿院、ごめん。怒鳴った…」隆鷗は小声で言った。

 寿院は黙っていた。そして、静かに本堂を出た。


 今朝は陽が登る前に起きて、すぐに本堂に行った寿院。

 隆鷗もしゅうも、墨で真っ黒になった宿紙の上で眠っていた。

 寿院は、鉄鍋にたっぷり粥を作って、真っ黒になった宿紙の上に置くと、黙って屋敷を出た。


 人通りが激しい大通りの片隅に、蓋のない箱が倒れたような掘立て小屋がある。中も簡単で、背もたれのない椅子が真ん中に置いてあり、その前には椅子と同じ高さの机がある。しかし、いつのまにか椅子がひとつ増えていた。箱の端っこに置いてあった。客人の椅子だろうか?

 あるじは、まだ来ていない。気まぐれなあるじだ。


 寿院は、箱の端っこの椅子に腰を下ろして、あるじを待った。

 あるじは都でも評判の卜者ぼくしゃだ。虚言ばかりを並べ立てる不届者と、誰もが笑みを浮かべて噂する。

 しかし、そんな卜者の元には大勢の相談者が並ぶ。何故なら、虚言の中に必ず真実があるからだ。皆、虚言のなかの真実を見極める為に、卜者と真剣勝負をするように向き合う。

 幸か不幸か、或いは混沌か…?都の者は楽しんでいた。そんな卜者についた渾名あだなが『虚言様』だ。


 虚言様と話す為に早朝から訪れたのだが、肝心な虚言様がまだ来ていないとは、とんだあてが外れたものだ。と、寿院は、これからどうすべきか頭をフル回転させた。


 「ねぇ、おっさん、何座っているの?」と、突然少年に声をかけられた。

 寿院は、思わず少年を見た。

 「えっと…。見ての通り虚言様を待っているのだが…」

 「何言ってるの。ここら辺でぼーうっとしている人は皆、虚言様を待っているんだが、なんでおっさんだけ、座っているんだ?」と、生意気に少年が言う。

 「ああ、なるほど。本当だ。よく見ると、人がぼーうっと突っ立っているね」と、寿院が言う。

 虚言様とゆっくり話したかったから早朝、急いで来たのだが、もうこんなにいるのか。

 「ねぇ、そこ僕の席だ。退いてくれる」と、少年が言った。

 「あっ。それはすまないね」と、立ち上がると、寿院は、虚言様の椅子に座った。

 「そこ、虚言様の席!」

 「ああ、すまない」と、言いつつ、寿院は退かなかった。「ねぇ、君は誰?虚言様の助手?」

 「うるさいなぁ、あんたに関係ないだろう。客だったら、虚言様が来るまで待てよ。来たらすぐに並べ。あの人たち凄まじいから。あんたなんかあっという間に踏み潰されるだろうな」と、少年は笑った。

 「そんなこと言うな。わたしは今日は急いで聞きたいことがある。わたしの可愛い弟が危ないかもしれないんだよ…」と、寿院が言った。

 「しらねぇーよ。危ないなら、あんたが助けに行けばいいだろう。こんなところにいる方がどうかしてる!」と、少年は怒鳴った。

 「いやいや、そんな単純な話しではないんだ。弟は…いや弟分なんだが…」

 「しらねぇーよ」

 「これは虚言様にしか分からないんだ。並べなんて言わないでくれよ。虚言様が来たらすぐに聞きたい。そう取り計らってくれよ」と、寿院は必死に言った。

 「おぅ、必死だな。なんで虚言様があんたを特別扱いすると思った?並べ…」と、少年が言う。

 「ああ、わたしは虚言様には特別と思われていたと思っていたのだが…」と、寿院は、この少年と話していている場合ではないと、虚言様と話せなかった場合の最善策をいろいろ考えていた。

 「へぇ、虚言様に特別と思われていると、思っていたんだ。そんなやつ大勢いるよ。思い込みって言うやつだな」と、少年が言う。

 「ああ、思い込みって言うのか?少年、思い込みでもいいよ。わたしはもしかして、この知識のなさで弟を助けてやれないかもしれない」

 「えっ?知識のなさ…?どんな知識がいるんだ?」

 「黒根家一門…。あっ…いや、なんでもない。そうだな。ひとは、自分のことを特別だと思うが、自分以外の自分の評価は自分が思っている以上に低い」

 「なんだ…?自分…自分って、おっさん何言っているんだよ…?おっさんさ…黒根家一門って、それ知識とかではないよね。なんで自分で調べようとしないんだ。卜者の虚言様に聞くことじゃないんだけどさ…なんかもう面倒臭いなぁ…」少年は、そう言うと、声を張り上げて、叫んだ。

 「今日は虚言様は…ここには来ません…!」

 箱の周りの突っ立っていたひとが一斉に去って行くと、周囲は意外と静かになった。

 「ほとんど虚言様目当てか?」と、寿院は驚いた。

 「さて、虚言様はもうすぐ来る。人払いしてやったぞ。で、どういうことだよ。黒根家一門の何を聞きたいんだ?」と、少年が言った。

 「いやいや、どういうことと聞きたいのはこっちだが…?何で人払いをした?」

 その時、通りの向こうから派手な衣を纏った虚言様がやって来た。

 「ほらっ来た」と、少年が言った。

 なんだ…?客を帰してしまったが、虚言様に怒られないのか…?と、寿院は不思議に思った。

 やがて虚言様が掘立て小屋に到着すると、満面の笑みを浮かべた。

 「やぁ、寿院殿、随分と久しいな。お前さんのことだから忙しかったんだろうね」と、言うと虚言様は机を少し移動して、腰を下ろした。

 「じゅいん…?」と、少年が小声で呟く。

 「おや!今日は随分と静かだね。客人がひとりもいないんだね。ほぅ、今日はのんびりできそうだね。陸様よ」と、虚言様が言うと、少年は罰が悪そうな顔をした。

 「ああ、申し訳ない。この者が随分と焦って、あんたと…あっ、いや、虚言様と話したいと言うから、もう面倒臭いから、客人には帰ってもらったんだよ」と、少年が言った。

 「あんた…?」おや、この少年は助手と思っていたが、そういう訳でもないのか。と、寿院は、思った。

 「焦ってって…?何かあったのかい?お前さんは九堂家の若君の事件があった時はしょっちゅう来ていたが、手鞠ちゃんがあんなことになって以来、顔を見せなかった。今度は何だい?何かあったのかい?」と、虚言様が言う。

 「何かないと顔を見せなくてすまないな。もっと早く来るべきだったんだが…。しかしわたしのなかでいろいろと考えもあったのだが、計算が狂ってしまってね。今、面倒を見ている、わたしの弟分が、驚くことに勝手に動こうとしている。わたしは心配で仕方ないのだよ」と、寿院は、いささか慌てて言った。

 「おやおや、寿院殿、今日は珍しく慌てているんだね。わたしは弟分のことは初めて聞いたよ。いつもなら理路整然と話す寿院殿なのだが、そんなに慌てている様子は初めて見るな。それは、その弟分のせいなのかい?」と、のんびりした口調で虚言様が言った。

 「おぅ、そうだったな。弟分とは、前の師匠から預かった、そうだね、わたしにはいささか大切な御子だから弟だと思って面倒を見ている。その弟が突然、友の為に大切なモノを取り返しに黒根家に忍び込む算段をしているところを見てしまった。だが、黒根家のことはまったく分かっていない。だから虚言様に尋ねたくて、早朝からのこのこやって来た次第なんですよ」と、寿院は、やはり慌てた口調で言った。

 「おや、まぁ、それはわたしを訪ねる前に、弟を止めたほうが無難ではないのか?」と、虚言様が言った。

 寿院の言葉を、身を乗り出して真剣に聞いていた少年を、寿院は鬱陶しく思い、思わず身体を押して距離を離した。少年は、はっとして、自分の位置に落ち着いた。

 「止めて聞くようなやつではないのですよ」と、寿院が言うと、何故か少年が頷いた。

 「黒根家だね。黒根家は呪術師の間では唯一、力のある家系だね。しかし、残念ながら今は衰退する一方だと聞いているよ。最近ではあまりいい噂も聞かないが、衰退とは本当恐ろしいもので、悪いことに手を染めてしまう、そんなこともあるんだろうね。まぁ、黒根家一門…。未だに大きな一門であることには変わりないのだけど…。両翼の呪術師なんて言われていた。西の黒司家、東の香舎家を従え、未だ他の呪術師の追随を決して許してはいない。と、衰退の噂と共にそんなことも言われているね」と、虚言様が言う。

 「その東の香舎家なんですが、最近、なんか聞いてませんか?」と、寿院は尋ねた。

 「果て…?香舎家の噂かい?わたしは何も聞いちゃぁ、いないが…?」と、何故か虚言様は、少年と顔を見合わせた。「何かあったのかい?」

 「いや、なんでもないんですが、香舎家が惨殺されたなんて、ここに来る客人からそれらしい噂はなたったか?」と、寿院は更に尋ねた。

 「ないな」と、虚言様は暫く考え込んだ。

 「ねぇ、あんたさ、それを何処から聞いたんだ?」と、突然少年が割り込んで来た。

 「いや、噂話とかそういうものではないんだが…」と、寿院は言葉を濁した。

 「まぁ、そんな話しは聞かないが、本当はもうひとつあるのだが…。実は黒根家の両翼というのは、黒司家と香舎家のことではないんだよ。本当に恐ろしいのは、黒根家当主の両翼…。両腕のことだね。右の腕には、義忠…義忠は源家の出だが、かの源義忠とは別人だ。そして左の腕が鬼仙きせん。義忠が表舞台で当主の補佐をやっていて、相当切れ者だという噂だ。今の当主があるのは義忠の存在が大きいと言われている。ただ、わたしは本当に恐ろしいのは鬼仙きせんの方だと思う。表舞台にはまったく姿を現さない謎の人物だ。だが裏で何かやっているのは間違いない。衰退してゆく黒根家だが、その地位を保てているのは、おそらく鬼仙の力が大きい。と、わたしは思っているのだが…」と、虚言様が言った。

 「鬼仙…?そんなやつがいるのか。相当危ないやつか?」と、寿院が尋ねた。

 「相当危ないやつだ…!しかし、実際のところはわたしにも分からない」と、虚言様が言う。

 「そうか。しかし、危ないやつには違いないのだな。ここに来て良かった。虚言様。さて、これからどうするか。わたしもこっそりとあの子たちについて行くか…?」と、寿院は顎を摩りながら考えた。

 「寿院…様」と、突然、少年が言った。「その子たちはいつ実行するつもりでいるんだ」

 「分からないな。まぁ、今日にでも実行する勢いだったな。真昼間はさすがにやらないだろうが…?」と、寿院は更に考えた。だが、ふと、何故この少年がそんなことを聞くんだ?と、わずかに首を傾げた。

 「一日、稼いでくれ。今日一日足止めしておいてくれよ。僕が黒根家を調べてくるから…」と、少年が言った。

 「えっ?何故…?いや、しかし、たった一日で何ができるというのだ?」と、寿院が少年を見た。

 「何とかするよ。せめて、誰も気づかない抜け道くらい探し出すさ。何かあったら助け出せる経路を…。なっ、一日時をくれ!」と、少年は必死だった。

 寿院は、何故、少年はこんなにも必死なのだろう?と、更に首を傾げた。

 「頼んだよ!寿院…様」

 そう言うと、少年は、素早くその場を去って行った。

 「あの少年は何故、あんなにも必死になっているんだろうか?」と、寿院は、呆然とした。

 「あれは、わたしの家のあるじの子息なんだが、あるじが亡くなって、わたしが面倒を見ている。寿院殿の弟分と立場が似ているとは思わないか?わたしもあるじの子息ゆえ弟のように大切にしている。あの子も寿院殿の弟と自分を重ねたのではないか?それより何より、あの子は寿院殿を気に入ったようだな。あの子があんなに必死になっているところを初めて見たよ」と、虚言様はほくそ笑んでいた。

 「そうか…?よく分からないが、虚言様のお家自体あまり知らないが、あの子の家の家臣かなんかだったのか?」と、寿院が尋ねた。

 「さあ、そこのところはわたしは何ひとつ興味がないので、分からないな。そんなことより寿院殿、九堂の若様のことだが、何故若様が命を落とさなければならなかったか?これまでいろいろ聞いたが、どうやら、はた家に関する秘密に若様が気づいた形跡がある。なので、あれは自害ではなく、殺された可能性があるな。それに秦家は乗っ取られていたよ。おそらく…。でも失敗に終わっている。だから秦家は皆殺しになってるのではないかと思う。弟の件が終わったら寿院殿も調べてくれないかい?」と、虚言様が言う。

 「そうなのか?と、言うことは、乗っ取りに関する何かに気づいたということだな。虚言様もずっと気にかけていただいて有難い…」と、寿院は言った。

 「おそらく、そういうことだろうね…。寿院殿、陸様の言う通り、早速、弟分の足止めをお願いしますよ」と、虚言様が微笑む。

 「おお、あの子は陸という名か…?了解した」と、寿院は、その名を記憶に留めた。

 「陸様は、ああ見えて、勘と耳がいい、おまけに恐ろしく洞察力が優れている。それに陸様のお家の元家来が今でも陸様のために動いてくれるんだ。意外と役に立つよ。それはびっくりするほどに…」と、虚言様が微笑む。

 「おぅ、なんと頼もしい。虚言様有難う。すぐに屋敷に戻るよ!」と、寿院は早速、虚言様の元を去った。


 寿院は、ああ言ったが、隆鷗としゅうが今日実行するとは思っていなかった。宿紙が真っ黒になるまで二人は話していたのだ。その足ですぐに黒根家に忍び込むような馬鹿な真似は、さすがにしないだろう。何かしら準備をするだろうと考えていた。

 だが、甘かった。

 屋敷はもぬけの殻だった。

 戒もいない。

 寿院は、慌てて獅舎ししゃの屋敷に出向き、戒を見つけた。そして、二人の行方を聞くも「知らなーい」と、言うと、戒はそっぽを向いて、紗々と夢中に喋っていた。すごく楽しそうだった。

 再び屋敷に戻ったが、二人は戻っていない。

 万事休す!

 寿院は、本堂の真ん中に座り込んで茫然とした。


 こうなったら二人を信じるしかない…のかな?


 そして、ばたーんと横になると、天井の太い梁と、細い梁をゆっくり辿りながら見つめた。

 まず最悪のことから考えよう。

 もし、見つかって、斬られたら…?いやいや、そんなことを考えるのはやめよう。そうなってしまえば、もう何もできない。

 捕えられたら…。その可能性が一番高い。その時は…

 あの二人は必ずわたしが助け出す。

 そう、寿院は腹を括った。

 腹を括れば、はやり立つ心も静かになる。

 黒根家全員の息の根を止めてやるほどの覚悟を持った。

 寿院は滅多に身につけない、仕舞い込んだ刀を取り出して、丁寧に手入れをした。


 陽が沈みかけた頃、二人の声が聞こえてきた。笑い声さえ聞こえてくる。

 本堂にいた寿院は、咄嗟に廊下から裸足で庭へ降り立った。

 やがて門から二人の姿が現れた。

 思いの外元気な姿だ。

 「何処へ行っていた?!」思わず寿院は叫んだ。

 「ああ、寿院様?びっくりするじゃありませんか?」と、しゅうが驚いた顔をする。

 「何処へ行ってたんだ?!」と、再び寿院は怒鳴った。

 「どうしたんだ、寿院。今日は、黒根家の下見だよ。寿院に黙ってやらないから、ちゃんと話して行くよ」と、隆鷗は、寿院の気持ちを察して言った。

 「本当にやるつもりなのか?」と、寿院は心配気に言った。

 「うん。寿院…。黒根家は空間が歪んでいるところがあったんだよ。誰かが『異文の書』を知っている。だけど、あれは昨日や今日のものではないと、わたしは思う。誰かが、ずっと過去からあの文字を使いこなしているかもしれない。もう、わたしはじっとしていられないんだ。寿院、分かってほしい」と、隆鷗は、寿院の傍に寄って、小声で言った。

 その時にはしゅうは、廊下から本堂に入っていた。

 「寿院様、心配しないで、僕が隆鷗を導くから。隆鷗を絶対に危険な目に合わせないから」と、真剣な表情でしゅうが言った。

 寿院は、しゅうが隆鷗のことを何処まで知っているのか分からなかった。あまり余計なことを喋らない方が良さそうだな。と、隆鷗に気を遣った。だが、寿院の心は不安でいっぱいだ。隆鷗を止められないのならば、やはり黒根家を殲滅するくらいの覚悟は必要だと思った。


 その夕刻、すっかり陽が沈んだ頃、二人の剣士と、男が襲撃して来た。

 二人の剣士は寿院があっという間に片付けてしまった。

 そして、後から現れた男を見て、寿院は、何故か一目で、それが義忠だということが分かった。

 寿院の勘だった。それはこれまで蓄積したあらゆる経験から導き出された、説明のつかないものだった。まるで闇に照らされた光明のように自然と解ったのだ。


 男は、しゅうを見て明らかに動揺した。

 それを見て、寿院は確信した。

 この男は義忠だ。


 しゅうもまた激しく動揺しながらも震えた声で叫んだ。

 「知らないよ。なんだこの男?盗賊だよ!」

 「寿院様、盗賊だ!何ぼんやりしているの?ぶっ殺してよ!こんな盗賊、寿院様なら一瞬でやれるよ!」

 しゅうのそんな言葉を受け入れるほどに義忠という男は寛大なのだろうか?

 それに、男は、気になることを言った。

 戒を見て、確かに「そう様」と、そう呼んだのだ。そう様…そう?当主の娘の名は記憶に新しい。寿院は勿論覚えていた。

 だが、『呪い屋』の娘。それはどうしても思い出せなかった。寿院は思わず頭を掻きむしった。


 しゅうは、まだ全てを明かしていない。しかし、今はまだ問い詰める時ではない。少しでもひびが入れば一瞬にして、崩壊していくような、そんな気がした。



隆鷗と秋は、いよいよ黒根家に忍び込む。果たして『異文の書』は奪い返せるのか…?寿院と陸は隆鷗を守る為に動き始めるが…?次回をお楽しみに。


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