壊れていく家 其の三
戒が来てから女将が変わった。
そして、母、伊都も変わってしまった。
思考が追いつかないうちにあっという間に変わってしまった。
戒が来てから…。それだけは分かる。
しかし、これだけ極端に変わってしまった具体的な原因が分からないまま、伊都から冷たくされる詩束はやがて壊れていった。
三軒続いた長屋の真ん中にある稽古場は、女将が言うように二世帯の仕切りの壁を壊して、広々としていた。稽古場としては申し分なく、これを失うとなると、相当な痛手だった。
一番奥の住居から一旦外に出て、稽古場に入るという手間さえ、伊都は気に入っていた。それによって日常に減り張りが生まれ白拍子の稽古も捗った。
詩束は、そんな伊都の気持ちを理解していたが、女将の立場が急に強くなったことを理解するのは耐えられなかった。
ある夜のことだ…。
譜は、神様に祈りを捧げていた。
神様を稽古場に祀った神主様がこう仰っていた。
「いつも感謝のお気持ちをお伝えしなさい。我々凡夫の苦悩は尽きないものです。どんなに辛いことがあったとしても、生きていること、ご飯を頂けること、今日も踊れたこと、小さなことでもいいから感謝をお伝えするのです。感謝をお伝えしていくことで、譜様の願いが叶うのですよ。御願い事ばかりを訴えるのは人の業を顕にしているだけなのです。業の訴えは、必ずしも本当の御願い事ではないのですよ。人は愚かだから、自分の本当の御願い事さえ分からないのです」
それから譜は、どんなに御願い事を叶えて欲しくとも、神様の前では感謝しか伝えていなかった。
「今日も詩束がお稽古を続けることが出来て感謝致します」そう祈りながら、幾つもの涙を流した。
譜の後ろで詩束がさめざめと泣いている。姉の泣き声を聞きながら、お祈りするのは何日目だろうか?
譜は、祈り続ける。
後ろで泣いている詩束に声をかけることができなかったからだ。
稽古場に女将が訪ねて以来、伊都が変わってしまった。詩束は、稽古場を盾に取られた母は仕方なくそうしているのだと思っていた。
伊都は、詩束の稽古をまったく見なくなったのだ。こともあろうに戒の舞を教えることに夢中になっていたのだ。
あれから女将も悉く稽古場に顔を出し、戒の舞を恍惚とした表情で見ている。
詩束の世界が一変したのだ。
戒は、稽古場の多くの場所を占拠して、雅やかに舞っている。声高々に詩を唄い、厳かな空気を振り撒いている。その光景を伊都がふわりとした笑みを浮かべ眺めていた。
詩束が舞っている時のようなピリッとした空気とは明らかに異なる。何が違うのかと言われても他人にはその違いは分からないだろう。
しかし、詩束には分かる。
一目で分かるのだ。
伊都は、戒を決して叱らない。詩束以外の者が見たら、随分と叱っているように見えるかも知れないが、詩束から見ると叱ってなどいないのだ。丁寧に教えているようにしか見えない。
そこにはっきりと現れていないが主従関係が隠れ潜んでいるように見えるのは、考え過ぎだろうか?
詩束には憤りしかない。
私の時は、杖で叩かれた。ひどくなじられた。失望され、見放された。
褒められたくて、もっと褒められたくて、必死に稽古した。何度も何度も同じことを繰り返し…繰り返し…できるまで、いいと言われるまで、そして褒められるまで。
なのに…戒を簡単に褒め、美しくなければ、手を添えて教える。出来たら、また簡単に褒め、微笑む。
その間、詩束は稽古場の片隅で一人舞っている。譜に至っては、舞う場所すらなかった。
「先生、私の稽古も見て下さい」
詩束は、何度も訴えた。
だが、伊都は、いつもこう言った。
「あなたは大丈夫。もう独り立ちしなさい」
その度に、稽古場の中の詩束の場所が小さくなっていった。
そして戒は、伊都の前ではいつも笑っていた。詩束にはその笑顔が怪物に見えた。笑顔の奥に隠れているのだ。
昼の稽古が終わり、伊都が夕餉の準備を始める。稽古場が詩束と戒と譜だけになると、まるで仮面を外すように戒は、詩束の傍に歩み寄る。
「私の稽古中に母様の注意を引くのはいい加減やめたらどうなの。ふふふ…母様はもうお前はいらないと、思っているよ」と、戒が挑発した。
「うるさい!あんたの舞なんて、てんでなっていないのよ!分からないの?」と、詩束はいつも戒の挑発に乗ってしまう。
「ふふふ…舞の良し悪しを決めるのはお前ではないな」と、戒は言い返す。いつも戒の方が有利だ。
「そんなこと知っているわ。でもあんたでもない!母は、女将さんに脅されて、仕方なくあんたの稽古を見ているの。それが分からないの?」と、詩束も負けずと言い返す。
「ふふふ…そんなことはどうでもいいな。母様は私の稽古だけを見る。お前は稽古場の隅で独り寂しく稽古をしている。ただそれだけ…ふふふ」
「だから何!私は独りでもやっていけるから、そうしているだけだ」
「ふふふ…だから…?お前は嫉妬に狂ってしまうほど怒鳴り散らして、稽古中もずっと嫉妬している。そのうちお前は本当に狂ってしまうかもな…ふふふ」
戒の言葉は詩束の心を抉った。
「あんたに嫉妬などするものか。あんたの舞なんて見てられないわよ」と、詩束の声が震える。涙が溢れ出た。
「ふふふ…神を降ろす舞と評判だったお前の舞は、果たしてどうかな。神を降ろす…笑ってしまう。今では嫉妬と憎しみで悪鬼も寄りつかない。ふふふ…別の意味で評判になるかもな。まぁ、でもお前はもう何処からも呼ばれはしないだろう。近々、近衛家で宴が催されるとのことだが、お前は母様から何も聞いていないだろう。母様が連れて行くのは、私だからな。これからお前はもう呼ばれなくなるから稽古も無駄になるな。ふふふ…でもお前は稽古をやめられないんだ。無駄な稽古を。見ていると哀れなものだ」
「うるさい!」
詩束は、もうそれ以上何も言い返せなかった。戒の言葉で完全に伊都に見放されたことを知った。…いったい私が何をした?涙が止め処なく溢れ出た。身体の何処にあったのだろうと思うほど、涙がとまらなかった。
そんなことがずっと続いた。
もう、詩束の涙も枯れ果てている。なのに祈りを捧げる譜の後ろでずっと泣き続けていた。
「いつまで祈るつもりなの?」と、詩束が言った。「あんたまで私を馬鹿にしているのね」
譜は、思わず後ろを振り向いた。
「そんなことはないわ。だって祈らずにはいられないもの。こんなにも家族がばらばらになってしまうなんて…」
「何もかも戒のせいだわ。どうしてあんな娘が、我が家に引き取られてきたのかしら?」と、詩束が呟く。すっかり弱々しくなってしまった。
「なんだか、戒が怖い。わざと引っ掻き回しているみたいに見える」と、譜は、すっかり変わってしまった伊都を思い出す。
「昨日、鼓笙おじ様がいらしてたの。鼓笙おじ様は戒には気をつけるように言っていたのに…母は聞く耳も持たなかったのよ。おじ様は、うちに来る前に戒を預かっていた水上様という方を探し当てて、お話しを聞かれたそうなの…」
詩束が弱々しく語り始めた。
「鼓笙おじ様は戒のことを調べているのかしら?」と、譜は不思議に思った。
「水上様は、陰陽寮の方とか言っていたわ。なんだかすごく怖そうな話しをしていらしたのよ。女将さんの家の前の細い路地でふたりで話していたから、私は身を隠して聞いてたの。もう辺りが暗くなっていて、私はとても心細くて震えていたわ」と、詩束が言う。
詩束がぼんやりと虚空を見つめた時、泣き腫らした、腫れぼったい顔を見て、改めて譜は驚いた。いったいどれくらい泣くとそんなに腫れるのだろう。と、心が痛んだ。
「戒は出自が少し変わっているらしく、詳細はお話しにならなかったわ。戒は、生まれるとすぐに何故か縁起が悪い赤子だと罵られていたそうよ。そして、まだ歩くこともままならない頃にわざわざ遠くの山に捨てられたそうよ。口減しとか、そんな単純な話ではなさそうだった。呪術とかそんな類いの話しだったわ。鼓笙様が小声で話していらっしゃったから聞こえないところがあって…。でも、一度は捨てられたけど、すぐにお家の御当主様が後悔なさったのか、どなたかに戒を探すように命じられた。その者が必死に探し、やっとの思いで見つけることができたのだけど…。なんと戒は、獰猛な山犬に囲まれていて、もうどうすることもできなかった。すごく怖くて震え上がり、足も竦んで動けない。だけど、獰猛な山犬に囲まれ食われる幼な子の姿などとても見ていられないので、たとえ自分が食われようとも、幼な子だけは助けようとなさったそうなの」
そう言うと、詩束は深くて長い深呼吸をしたかと思うと、ぶるぶる身体を震わせた。
…そして、再び話し始めた。
「だけど、やっぱり恐ろしくて一歩も動けないの。心の中で、ごめんなさいと、何度も呟いたのだけど…ところが、その者は、とんでもない光景を見ることになるの」
再び詩束が話しを止める。
少しの間を開けて、話しを続けた。
「歩くこともままならない幼な子がよろよろと、立ち上がると、今にも飛び掛かりそうに唸り声を上げていた山犬たちが静かになったの。そして、一番身体の大きな山犬が戒の前に歩み寄ったかと思うと、するりと向きを変えたそうよ。大きな山犬は、他の山犬たちと対峙する形になった。それから大きな山犬は、まるで幼な子の戒を守るかのように他の山犬たちを威嚇し始めた。やがて、一匹の山犬が大きな山犬に飛び掛かると、あっという間に噛み殺されてしまった。それを皮切りに一斉に大きな山犬を他の山犬が襲った…の…だけど、すべて噛み殺されてしまった。そして、最後に残った大きな山犬も小さく遠吠えをして、命尽きて倒れた。山犬は全滅したそうよ。それを幼ない戒は恐れもせずにずっと見ていたという話しを水上様から聞いた鼓笙おじ様が話していらっしゃったの」
「えっ?そんな話し信じられないわ」
譜は、驚いた。そして、唇が乾くほどの緊張感を覚えた。
「私も信じられなかったわ。でも鼓笙おじ様がすごく真剣に話していらっしゃるのを見て、もう、信じるとか信じられないとか、そんな話しではないと思ったの」と、詩束が不安気に言った。「そして、戒を託された者は、これは大変なモノを見てしまった。と、隠すように戒を連れ帰ったそうよ」
「だけど戒は、結局家には戻っていない…」と、譜は思った。
「戒を託された者が連れ帰った後のことは、分からないし、水上様の家に預けられるまでの間は誰も分からないのよ。だけど水上様が…、戒は神に守られた子供だから大切にするように言われたと、仰っていたのだけれど、でも、水上様は決してそう思っていないだろう。と鼓笙おじ様が言っていたわ。戒を託された者は、結局御当主様の元へは戻らなかった。戒を隠すように連れ帰って、また誰かに託したのではないだろうか…そして、最後に水上様が預かったのではないかと、鼓笙おじ様は考えているみたいだったわ。結局戒が捨てられたことに変わりないのよ」そう言う、詩束の言葉には憎しみが込められていた。
「あの娘が神に守られているわけがない。あの娘は、妖怪とか物怪の類いに違いないのよ。だから密かに陰陽寮が動いているんだわ」と、詩束は続けた。
譜は日常が恐ろしく思う。
これまで母と詩束との楽しい日々が一変してしまった。
「鼓笙おじ様は必死に、あの娘には気をつけろ。と、仰っていたわ。きちんと調べて、返すべきところに必ずあの娘を返すから。それまで辛抱してくれと、そうおじ様が仰っているのに母は何と言ったと思う?」と、静かな口調で詩束が尋ねた。
母は、いったい何と言ったのだろう。譜は、その答えを聞きたいような聞きたくないような、もやもやした感覚が苦痛へと変わっていく。
「戒は、もう私の子供です。誰にも渡さない。と、そう言い切ったのよ。もういいわ。私は疲れた。なんで私の家だったのかしら」と、詩束は再び掠れた声を漏らし泣き始めた。
「お姉ちゃん、もう泣かないで。お願いだから泣かないで…」譜は、それ以上のことは言えなかった。
その時だった。稽古場に大きな音が響く。戒が激しく戸を開ける音だった。
「いったい何の話しをしている?」稽古場に入るなり戒が怒鳴った。
いつもは、声も張らずぶつぶつ呟くように話す戒だったが、その時は違った。
「噂話か?しかも根拠のない話しだ」と、苛立ったように戒が言う。
「盗み聞きなの?はしたない娘ね。何が根拠がないの?あんた捨て子なんでしょう。それを認めたくないだけでしょう」と、詩束が言い返す。
「はしたないのはお前だ。本当にお前は気の毒なやつだ。馬鹿な鼓笙が言う、ありもしないことをべらべらと。でも、お前に何と言われようと、何も気にならない。お前はもう必要のない娘だからな…」
「何が言いたいの?鼓笙おじ様のことを呼び捨てにするなんて…!あんたこそ人の家を乗っ取った気になっているんじゃないわよ…すぐに追い出してやるわ。妖怪のくせに人の世界に入ってこないでよ!」
詩束がそう言っている時に戒は土足で稽古場に上がり込んだ。そして、床に座った詩束の前に立ちはだかると、蔑んだように見下ろした。
「どうだろう?ふふふ…出て行くのお前の方ではないのか?ふふふ…いつまでも稽古場から戻って来ないから母様はもう寝たよ。母様はお前たちのことは何も言ってなかったな。もう忘れてしまったんだろうな…だからもう帰ってくるな。母様が起きてしまう。ふふふ…今夜は、稽古場に寝るんだな。私が母様の隣りに寝るから」
詩束は我慢の限界を超えた。
ぶるぶる身体が震え始めたかと思うと、すくっと立ち上がり、戒の襟首を掴んで床に転がした。すかさず戒の身体に馬乗りになり、力いっぱい首を絞めた。
そして、戒の顔の間近に迫り、睨みつけた。
「妖怪!」
戒が笑った。
「ふふふ、やっと私の目を見たな。苦労した。よほどお前は私が嫌いなのだな。私の顔を見るのも嫌だったんろう?」
戒の眼光が詩束の視線を捉えた。
詩束が虚空を仰ぎ見た。そして、そのまま身体が硬直して動かなくなった。
何かが起こったと譜は、二人から目を逸らすことができなかった。あまりにも恐ろしい光景で気を失いそうだった。
次回「はじめての友達」
すっかり変貌してしまった日常を譜は受け入れられず、苦しくて仕方ありません。孤独になってしまったことで譜は、鼓笙に救い求め、家を出た…。