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壊れていく家 其のニ

 屋主の女将は、その昔、伊都の白拍子に魅了され、すっかり惚れ込んでいました。

 今で言う【推し】でしょうか。


 伊都の跡を追いかけ、伊都のことばかり考えて、文字通り全てを捧げていました。つまり貢いでいたのです。


 しかし、今は、表舞台から裏方に徹している伊都。二代目の詩束に自分の全てを叩き込んでいます。


 女将は寂しくて仕方ありません。

 昔のような日々を取り戻したい…。

 夕餉の準備をしている時、屋主の女将が、米とイワシを持って来た。


 これまで黙って準備をしていた伊都いとと、詩束しづかだったが、女将が来たことで始めて言葉を交わした。


 「米とイワシを持って来たけど夕餉に間に合うかい?もう少し早く持って来るつもりだったけど、静かだったからね。まだ伊都さんが帰ってないのかと思ったんだよ」

 「あらまぁ、いつもすみません。どうしましょう。そんな高価なもの。漬物くらいでは足りないわね」


 この時代、平清盛が発行した宋銭が流通していたが、これまで物々交換で物資を賄っていた町民にとって、まだ宋銭の価値に対しての信用がなかった。

 だから、イワシと米の対価に見合う物資であることを前提に考えてしまう習慣が身についていた。


 「いやいや、この前さ、綺麗な刺繍が入った巾着袋をくれただろう。あれを持って、鼓笙こしょう様が誘ってくれた茶会に行ったんだよ。するとどうだろう、貴族の姫様方が、巾着袋を見て凄く羨んでいたんだよ。私は随分と鼻が高かったよ。だからそのお礼だよ」

 「まぁ、女将さん。あんな物で良ければいつでも縫って差し上げますよ」と、伊都は笑った。


 女将は、用事が済むと、そそくさと帰っていった。しかし、部屋を去る前、ほんの一瞬、床に座った子供を見た。あれはうたではなかった。うたよりも少し年上の子供だ。


 女将は、その時、子供の視線に捉えられた。ほんの一瞬だったというのに、視界に閉じ込められ、四方八方から子供の腕が伸びてきて掴まれると、自分の身体がどんどん離れていく感覚を覚えた。ひどく気持ち悪い感じだった。


 夕餉の準備はいつも伊都いとの鼻唄と、詩束しづかのお喋りで賑やかだった。

 しかし、その日は、すごく静かで、灯油ともしあぶらに点いた灯りもいつもより暗く感じる。

 詩束は、夕餉の準備をしながら、ちらちらと、母が連れて帰った少女を見ていた。


 あの子は、誰?


 母はあの子については何も言おうとしない。それにあの子も、座ったままで何も言わないし、何もしようとしない。

 譜もまだ稽古場にいて、戻って来ないし、何だか分からないけどすごく胸騒ぎがする。譜は、いったい何しているんだ。舞の神様に祈っているのだろうか?


 何もせずに座ったままだった少女が、夕餉の膳の位置を自ら選んだことに詩束は苛立ちを覚えた。真っ先に母の隣りに座ったのだ。本来なら、その位置は嫡女である詩束の位置だ。


 しかし、詩束は言えなかった。


 その時、譜が稽古場から戻って来た。見たことのない少女におどおどしながら、伊都と詩束の顔を交互に見たが、伊都とは目が合わなかった。詩束は明らかに苛立っているのが、譜には分かった。


 苛立ちの原因は少女だ。少女は何食わぬ顔で、準備された食膳の前にぽつりと座っていた。まだ誰も座っていないのに一番いい場所に座っていた。

 譜は、少女の前に立った。そしてしゃがみ込んで「あなたは誰?」と言った。その言葉以外に他意はない。


 少女は笑っていた。満面の笑みを浮かべて、譜を見た。そして、譜も少女を見ていた。目が合った。ほんの数秒の間だ。譜が目を逸らして、母を見た。


 「この子は誰?」


 譜の、その言葉に少女は驚いた顔をして、再び譜を見た。

 「そう言えば、名前聞いていないかな」と、伊都が言う。

 「名前なんて言うの?」と、譜が尋ねる。

 

 名前などどうでもいい。と、少女は思う。そんなことより、この娘は、わたしの目を見てもなんともないのか?


 「そこは、私が座る場所だわ。勝手に決めないで」と、我慢できずに詩束が言った。

 詩束の言葉は聞こえていない。少女は、ただ不思議そうに譜を見ていた。


 「そこでいいの」と、突然伊都が言う。

 「何故?」と驚いた顔で詩束は母を見た。

 「私は、詩束が前にいる方がいいの。だって、あなたの顔がよく見えるもの。あなたと譜の顔を見ていたいのよ。二人が何を思っているのか、顔を見ていた方がよく分かるでしょう」と、母は力無く笑った。

 「分かった」

 母が困っているのを詩束は察した。何故、困っているのかは分からないが、少女の訪問は歓迎されていないのではと、ふと思った。そう考えると、少女への苛立ちは軽減された。


 「それに詩束。あなたの舞で神が降りるのよ。あなたは細かなことを気にしては駄目だし、感情に左右されてはいけないわ」と、伊都が言う。

 「分かっています。ただ…」詩束は言葉を飲んだ。「譜は私の隣りに…」

 「もちろん。私はお姉ちゃんの隣に決まっているもの」


 夕餉は、伊都の正面に詩束が座り、その隣りに譜が座る。そして、伊都の隣りには少女が座った。何とも不思議な感じだ。と、譜は思った。膳の位置など気にしていなかったが、伊都の横に少女が座っているのはやはり居心地が悪い。その位置は詩束が座ると落ち着く。詩束の位置は譜の場所だ。そして、少女が譜の位置。これで収まるのに…。


 「二人とも聞いて。この子を弟子にすることにしました。いろいろ事情があって、人から聞かれたら姉妹だと答えてほしいの。約束できるかしら?」

 「弟子ですって?母が弟子を?この子に白拍子の舞を伝えるの?私は反対だわ。白拍子は儀式で舞われる厳かな舞なのよ。簡単に弟子なんて、そんなの可笑しい」と、詩束は反対した。

 「簡単には教えないわ。あなたたちと同じようにまずは下働きからよ。あなたたちも姉上の家で厳しい修行を積んだでしょう」


 詩束と譜は、暫く伯母の家に住んでいた。伊都は、それこそ神が舞い降りる白拍子で引く手数多だったのだ。伊都の師匠が姉の磯だったので、詩束と譜は暫く磯の弟子となって修行を積んだ。詩束と、譜は思い出したくないほど辛い日々だった。


 「いやよ。絶対いや。白拍子であっても母の弟子はいやよ。母の弟子は私ひとりで十分だわ」

 「この子は何を言っているの。譜の立場がないじゃない」と、伊都が笑う。

 「譜はまだ子供だから、譜の舞は、完全に神を降ろせるようになったら私が教えるのよ。私が母の舞を受け継ぐのよ」と、詩束が必死に言う。


 この少女は、自分が弟子になると知った上で、自ら膳の場所を選んだのだ。譜は不安を覚えた。少女は調和を乱した。そして、詩束の、穏やかな心も乱した。


 少女は、そんな詩束の感情もお構いなく、ずっと譜を見ていた。敵意のある目だ。


 夕餉が終わると、伊都と、詩束は夕餉の後片付けをした。譜は、稽古場の神様の祭壇のお清めの手順を少女に教えるように言われた。


 少女は、かいと名乗った。

 夕餉の時、少女が語ったのはその一言だけだった。


 譜は、戒を稽古場に案内した。

 稽古場はすぐ隣だが、一旦外に出なければならないことがわりと面倒臭い。

 稽古場に入ると、神様の祭壇は奥の上座に祀られている。


 しかし、戒は神様を祀った祭壇に触れようとはしない。かすかに顔を顰めながら笑っている。


 「これはけったいでございますね。お前は、ここに正座して日毎日毎祈りを捧げているのか?そうか、だからお前の周囲には、これまたけったいな空気が漂っているのか?そうか、これのせいか?」と、戒は、突然流暢に話し始めた。

 「何を喋っているの?神様のお清めは、これからあなたのお役目になるのよ。しっかり覚えてね。そして、私のことお前って言わないで!」と、譜は言った。

 「これはまた、けったいなことを言う。私が何故神様の世話をしなくてはならないのだ?私は何一つ信仰などしていない。その私に神様の世話をせよと?」


 譜は小首を傾げる。この子は何をぶつぶつと呟いているのだろう?何を言っているのか、さっぱり分からない。

 「ぶつぶつ喋るのはやめて…。手を動かして。早くしないと母と、お姉ちゃんが来るわ。あっ、稽古場に入ったら、母のことは先生と言って、礼儀を重んじるのよ」と、譜は、戒の言葉を無視した。と、言うか、戒が何を言っているのか、よく分からなかった。


 「神様へのお清めには手順があるのよ。ちゃんと覚えてね」と、言いながらも、譜は戒を見ることなく急いでいつもの手順を進めた。

 しかし、何を言っても戒は神様には近づかない。譜は、急がないと伊都と詩束が来るので、半ば戒を無視して、神様が祀られた祭壇の前に行儀良く座ると、合掌し、まつやにの蝋燭に火を灯した。再び合掌して、祈りを捧げる。


 「手順だと。私はごめんだね。これ以上はそこには近づけないな。そこは神様とやらの領域になるのだろう。勝手に近づけないな。お前は、その神様とやらにちゃんと許しを乞うているのか?人が神に近づくなどとそんなことを平気でやってのけるのは人が如何に神なるものの存在の畏敬を知り得ないからだ。人は神に服しているだけの存在だ」


 まだぶつぶつ呟いている。と譜は思いながらも、あまり聞いていなかった。譜には戒の言葉が風のようだった。神様の前にいる時、譜は集中していた。


 暫くすると、背後で随分激しい声が聞こえてきた。驚いた譜が思わず振り返ると、詩束が声を荒げていた。

 誰に言っているふうでもなく、一人で怒鳴っていたのだ。しかし、その言葉は明らかに戒に向けられている。

 戒と言えば、詩束が怒鳴っているのに、驚きもせずに相変わらずぶつぶつ呟いていた。詩束の怒鳴り声と戒の呟く声が重なって、もう何が何だか分からない譜は、混乱して真っ赤になって俯いてしまった。


 「いきなり来たかと思ったら、突然怒鳴り始めた。お前は直接私に言うのが恐ろしいのか、誰もいない、くうを見つめて怒鳴るのだな。ふふふ、神が降りる舞を踊るなど、それは嘘だな。周囲に踊らされているとも知らずに随分いい気なものだ。神と関わりを持つものが、人の営みに興味を抱くものか。お前が怒鳴ってしまうようなしがらみのことだよ。ふふふ、愚かだな。お前は、そうやって日毎日毎憎しみを募らせるのだ。ふふふ楽しみだな…」戒の呟きが聞こえる。


 「なんなの?先生から言われたわよね。なんで、譜にばかり働かせて、一人何もしないで太々(ふてぶて)しく座っているのよ…いったい…どう…て…よ………」


 俯く譜には、何故かあんなにも怒鳴っている詩束の声が耳に入ってこなくなった。なのに、ぶつぶつ呟く戒の声だけが鮮明に聞こえてくる。戒の言葉はまるで呪いのようだった。知らず知らず身体の中に浸透してくるような、不気味な音のようだ。


 譜から見たら手前にいるのが、戒。その後ろで詩束が怒鳴っている。大きな声なのに遠くに感じられ、聞こえ難い。不思議な感覚だった。戒の声には異質なものを感じた。それは説明のつかない、心がえぐられるほどの不快感だった。

 譜はその感覚に蓋をした。


 戒が来た日から詩束はずっと不機嫌だった。戒の態度を見ていると、詩束が不機嫌になるのは仕方のないことだと譜は思う。


 そんなある日、屋主の女将が稽古場に白拍子の新品の衣装を持って来た。

 詩束の稽古を伊都が見ている時だった。稽古場の、厳かな空気が女将の声で一瞬にして崩れた。

 女将が稽古中に稽古場に来るなど、これまでに一度もなかったことだ。もし訪ねて来ても、伊都は遠慮せずに厳しく追い返しただろう。それが分かっていたから女将は、決して稽古中に訪ねて来るような無粋なことはしなかったのだ。


 「ほらっ、戒のために繕ってきたんだよ。上質の絹だから、これで稽古をするといいよ。ほれっ、こっちにおいで着せてあげるから」と、女将は上機嫌で言う。


 そんな女将に伊都も詩束も驚いた。

 「女将さん、これはまた、無粋なことをなさいましたな」と、伊都が呆れるが、まるで女将には伊都が見えていないみたいだった。


 「ふん、私は舞えない。下働きだ」と、戒が言う。戒の喋り方は抑揚がなく淡々としている。


 「何だって!下働きとは聞き捨てならないね。このが下働きですって。やめておくれよ。このは鼓笙様から頼まれた娘でしょう。鼓笙様に呼ばれた日にこの娘はやって来た。隠しても駄目です。伊都さんね、あなたが白拍子として一目置かれていた時は過ぎたよ。私も随分と入れ上げたけどね。でもね、やっぱりあんたみたいな白拍子がいなくては楽しくないんだよ。この娘を見た時、わたしはこの娘だ。と一目でそう思ったよ。もう一度私を楽しませておくれよ。この娘だったらあんたのようになれる。いやそれ以上になるよ」と、夢中に女将が言う。


 「何を勝手なことを言うの。私の跡を継ぐのは詩束です。他の誰でもない。ここには勝手に入って来ないで下さい」と、厳しく伊都が言った。


 「伊都さんね、本来ならあんたが私に偉そうにするのは可笑しいのよ。この稽古場にしたって本当は二世帯が住めるんだよ。それを旦那に頼んで壁を外してもらってあんた達が稽古できるようにしたのは私の好意なんだよ。私の言うことが聞けないのなら、出て行ってもらってもいいんだよ。詩束はあんたの娘だから跡を継ぐのは普通なのだろうけど、でもねあんたの跡となると、そう簡単なことではない。あんたは自分のことを分かっていないんだ。あんたは特別なんだよ。だからあんたを継ぐものも特別な娘でなければならない…」と女将が言うのを詩束が遮った。


 「私が特別ではないと仰るの?何もご存知ではないのね。私の人気を…」


 「ふふふ…人気があると言いたいのだな。だが、お前の人気のことは母様が教えているのだろう。それは本当のことなのかな?お前は母様の威光に守られているにすぎない。そんなことも分からない、まだ稚拙な子供なのだな。母様も母様だ。私を見ようともせずに我が子だけを依怙贔屓する、つまらない先生だ。よくもまぁ、神を降ろす白拍子などと騒がれたものだな」と、淡々と戒が呟く。


 「まったくだ。戒の言う通りだ。もっと純粋に人を見る目を持っているかと思っていたが…」と、女将が言う。


 譜は、ただただ驚いていた。そんな事を言う女将の目がなんだか人の目ではないような恐ろしいものに見えた。真っ白い透明なものが覆っているような説明のつかない恐ろしさだ。何より、女将が伊都にはっきりとものを言ったことなどこれまで一度もなかったのだ。


 「いい加減にして下さい。戒、あなたもです。何もしようとしないあなたがどうしてそんなことを飄々と言っているのか、訳が分からないわ」

 伊都が怒鳴りつけても、戒は「ふふふ…」と笑っている。だから余計に伊都も詩束も感情的になった。


 「母様は、最初から私を娘にしようとは思っていませんでしたよね。そう鼓笙様に言っていたのをこの耳でしかとお聞きしました。鼓笙様があんなに頼んでいらっしゃったのに、母様は本当に頑固でいらっしゃる。それなのに私には笑顔で母と呼んでもいいと仰る。母様は恐ろしい方だ。しっかりと使い分けた表情で、人を騙していらっしゃる」と、飄々と戒が言うと、伊都の顔が鬼のようになった。


 何ということか。こんな子供が嘘と本当を入り混ぜて、まるで真実のように語っている。あの時…盗み聞きをしていた時、こんな小狡こずるい、いやらしい大人のようなことをするとは夢にも思っていなかった。

 伊都は、これまでに覚えたことのない怒りを覚え、戒の目の前まで顔を近づけて、怒りを抑え、静かに激しく戒に言い放った。

 「お前様は、さっきから何を言っている?大人を舐めるのも大概にしなさい!今度舐めた真似をしたらただじゃおかない…!」


 戒は笑った。

 不気味な笑いだった。

 伊都の視線を自分の視界の中に入れた。

 まんまと罠に嵌め成功したことを笑ったのだ。

次回「壊れていく家 其の三」


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