白い守りびと
寺を去ってしまった隆鷗。幾日過ぎてしまったのか?ぼんやりと感慨に耽っている影近と箭重。そんなある日、ふたりは都から舞い上がる不思議な光るモノを見た。しかし、その光るモノは旋寿には見えていないと言う…。
寺の庭を包む澄んだ空気は、暮れてしまった薄暗い闇の中の光を鮮やかに映し出していた。夜空にはもう星々が輝いている。
そんな星々を眺めながら、影近と箭重は、都を眺めるのに最適な位置にあつらえた横石に腰を降ろしていた。
隆鷗が寺を去って幾日過ぎただろうか?
突然去ってしまった理由を二人は、決して口にしなかった。ただ隆鷗が去ってしまったことで、いつも覚えていた喪失感を認めてしまう敗北感と理由のない葛藤を繰り広げていた。
都の詫びしげな風景を夜空の星々が彩り始める。そんな風景もまた、二人の心を癒した。隆鷗が去ってからというもの、何故か二人はいつも庭から都を眺めることが多くなった。
今頃、何処にいるのだろうか?
二人は、そんなことを思いながらも、決して言葉では共有しなかった。
二人は、同時に、屋敷だろうか?はっきり確認出来ないが、都から白く、鈍い光を放った丸い何かがゆっくりと夜空に舞い上がるのを見ていた。
「えっ?何だろう?白くてぼんやり光っている、あの丸いのは?」と、箭重が呟いた。
「おっ!箭重も見えているのか?何だろうな。どっかの屋敷から出てきたように見えたが。あんなの見るの初めてだ」
白くて鈍い光を放つモノは夜空へ舞い上がると、ゆっくりと優雅に遊泳しているかのように少しずつ少しずつ山に近づいて来た。
「なんかこっちに来てないか?」と、影近が思わず立ち上がった。それにつられるように箭重も立ち上がる。
「確かにこっちに来ているみたいだ。なんか怖い。でもぼんやりと優しい光…」と、箭重が言う。
ぼんやり白く光るモノがどんどん近づいて来る。二人は目が離せない。やがて、白く鈍い光を放つモノは、二人の頭上を超えて山頂の墓の中に消えていった。
「えっ?墓に消えた?」と、影近が驚く。
「うん、墓に消えた。」意外と冷静に答える箭重。
そこに、いつのまに二人に近づいていたのか、男の声が聞こえた。
「それは、白い守りびとだ」
男の言葉にびっくりして同時に二人が振り向いた。
「旋寿様」と、影近が呟いた。「いつ、寺に来たんですか?」
「ずっといたよ」と、旋寿が答える。
「えっ?何ですか、それは。ずっとって?ずっとって何ですか?何処にいたんですか?」と、影近が怒鳴り散らす。
「うるさいよ。もっと静かに話せ」と、旋寿が微笑む。
「何でもっと早く言ってくれなかったんですか?何処に隠れていたんですか?」と、影近が言う。
「隠れていないよ。ずっと苞寿庵にいた。それで影近は苞寿庵に来れるのか?」と、旋寿が皮肉った。
「あっ、いえ。俺にとって見えない苞寿庵はないと同じだ。だから興味ないよ。そんなとこ」と、影近が言う。
「君は、いつもそうだな。恐ろしく現実的だ。その目で見えているものが全てだな。でも今君たちが見ていたぼんやりと光るモノは、わたしには見えていなかったんだよ」
二人は旋寿の言葉が信じられなかった。
「えっ?何を言うんですか?今、夜空にふわふわ浮いて、頂上の墓に消えていった。俺も箭重にもはっきり見えていた。旋寿様が見えていないなんて…。そんなの信じられるわけないよ」と、影近が必死に言う。
「本当だ。見えなかった。でも君たちが言っていることは信じるよ」と、旋寿が微笑む。
「えっと…、白い守りびとと言った…」
箭重にとって見知らぬ旋寿だったが、遠慮がちにそう言った。
「箭重様ですね。わたしは苞寿の末弟、旋寿です。わたしは子供の頃、苞寿庵にあった竜古様を始祖とする祖霊様方の記録が書かれた沢山の冊子と巻き物を夢中になって読み漁っておりまして、そのなかの記述を思い出したのです。二百年ほど前だったでしょうか。その頃宮廷では雅楽が確立しようとしていた時期でした。それまでは大陸から伝わる唐楽や高麗楽などを楽しみながら次第に日本古来の歌舞が合わさって、この国ならではのものへと変化し雅楽が確立していく。そんななかで貴族でたいそう評判の舞い手がいた。「舞うと死の呪いを受ける」と言われた呪舞を舞い続け、見る人を魅了したと言う。舞い手は人々の心を読み、幸福へと導いていく不思議で優美な気を纏い、「舞うと死の呪いを受ける」と言われた呪舞を、愉悦感に導く舞へと変えていった。その舞い手が祖霊様だ。祖霊様は一部の人々に神と崇められ、祀られるようになった。そして今も尚、その信者がいると聞いたことがある。時々、守りびととなり、墓を抜け出す様が記録されてある。ぼんやりと白く輝き、まるで天女の様だと、後の祖霊様が目撃し墓守に伝え、『守人草子』に記録された。だから君たちが言っていたことが信じられるのだよ。しかし、いったい守りびとは誰を守っていたんだろうね?」
「へぇー、なんか物語みたいだ。守りびとは、どうやって守る人を選ぶのでしょうか?」と、箭重が尋ねる。
「さぁ、凡夫のわたしにはさっぱりだ。命の共鳴でしょうか?」と、旋寿が微笑む。
「けれど、どうして旋寿様には見えなかったんですか?」と、箭重が尋ねる。
「さて、やはりわたしは凡夫だから分からないよ。見えていた君たちが羨ましい。でも君たちが話していたから容易に想像できた。この時代に白い守りびとが現れるなんて、奇跡に近い。それもまた感動だ」と、旋寿は上機嫌だ。
「ところで、旋寿様は、洞窟に捕えられている呪術師もどきのことは知っているの?」と、影近が言う。
「お前さんは、本当に…。わたしは奇跡の感動も味わえないのか?知っているよ。兄上から聞いている。まだ何も口を割らないらしい。しかし、あの洞窟は不潔だ。住み心地をよくしてやろと思っている」と、旋寿が言う。
「えっ?何故そんなことを…」
「憎しみだけをぶつけていたら、話したくとも口は開かないだろうね。わたしは暫く苞寿庵にいるから、わたしが去るまでには苞寿庵を見つけろよ」と、言うと旋寿は去った。
隆鷗が寺を去った日…。
苞寿は、隆鷗が寿院のところに行くのではないかと聞いた途端、嬉しさを隠したような含みのある表情で、旋寿に言った。
「だったら、今すぐ寿院に手紙を書くから、それを旋寿の寺までわたしが持って行くよ。隆鷗様に渡したら、その後、祖父の降霊術の研究の記録を探しに屋敷に戻ってみるから暫く苞寿庵を頼む。その前に信蕉に会って、寺を引き継ぐことにしよう」と、苞寿が言う。
「えっ?しかし、信蕉様は高階家の親戚だから、何かと政の陰謀とかの間者を頼まれたり、厄介事を押し付けられていますよね。寺のことを引き継ぐのは難しいでしょう?相変わらず留守ばかりではないですか?」
「だからだよ。信蕉には、選択してもらう必要がある。寺か政のどちらかを?しかし、寺を任せたとしても苞寿庵は任せられない。暫くの間、わたしが留守をするときは頼まれてくれ」
「そんなの無理ですよ。わたしにも寺があるし、それに隆鷗様のことが心配だ。隆鷗様を守るのはわたしの役目です」
「お前さんの寺には山ほど優秀な弟子がいるではないか?名代くらいいるだろう。それと、隆鷗様は大丈夫だ。寿院がいる。寿院が傍にいてくれたら隆鷗様は闇に堕ちたりはしない」
「随分、信頼しているんですね。寿院とやらを…」
「しているよ」
「破門にしたんですよね?」
「そうだね。獅子の子落としというだろう」
「べつに兄上の御子ではないですよね」
「寿院は、自由が合ってる。寿院に枷を着けることなど出来ない」
「なんだ、それ…?弟子は平等に扱うべきでは…?」
「平等に扱った結果だ」
苞寿は、機嫌が良かった。
旋寿は、何度か遠目で寿院を見たことがある。取り立ててなんということもなかった。ただ、男にしては、ほっそりとして、綺麗な顔立ちをした、なんか頼りなさそうな男だった。
旋寿は少しばかり嫉妬した。
竜鷗様の子息を守るのは自分の役目であることを何故、兄上は分からないのだろう。と、いつのまにか歯ぎしりをしていた。
「おや、隆鷗君は、眠れないのか?廊下に座って、何を考えているんだ?」
突然、寿院が声を掛けた。
鼓笙の部屋を一人出て来た隆鷗は、侍女に客間を案内されると、ずっと中庭が見える廊下から夜空を眺めて、ぼんやりとしていた。
「あ、おっさん、もう鼓笙様との話しは終わったの?なんか盛り上がっていた」と、隆鷗は言った。
「ああ、鼓笙様はわたしと同じ匂いがする。つい話し込んでしまった」
「寿院は知っていた?この屋敷に譜さんがいるのを。ずっと探していたんでしょう?」隆鷗は尋ねた。
「ああ、鼓笙様に聞いた。でもご病気だとか。だから遠慮したんだが、何故隆鷗君が知っているんだ?」
「うん。鼓笙様の寝殿に向かう途中に譜さんが滞在していた部屋を通りかかったから少し話した」と、隆鷗が言う。
「えっ?それはおかしいな。君は譜さんのこと何も知らないでしょう。それに譜さんだって君を知らない。なのに、どうしてお互いのことを知り得て話すまでに至るんだ。それに鼓笙様の屋敷は、御簾とか衝立で仕切られていない、どの部屋も障子で閉ざされている。迎え入れてもらえない限り、話すなんて無理だ。隆鷗君、良ければ、わたしにありのまま話してくれないかい?」
「でも…」と、隆鷗は口を閉ざす。
寿院は、少し後悔した。
まだ早かったか。信頼を得るとは難しいことだ。話しを遮らず、そのまま聞いた方が良かったかな。と、寿院も黙ってしまった。
「そうだ。確かに障子で閉ざされていた。でも通りかかった時、譜さんの部屋が妙に青白く光っていた。それは現実ではあり得ないほど輝いていた…」
突然、話し始めた隆鷗に寿院はいささか驚いたが、静かに聞いた。
「わたしはすぐにそれがこの世の光ではないと直感した。やがて部屋から白く輝く、まるで神様みたいな女の人が障子を通り抜けた。そして、空にとどまり、暫くわたしを見ていたが、そのうち、夜空へと舞い上がり、何処かへ消えていった。それをぼんやり見ていた時に、わたしを鼓笙様と間違えた譜さんが声をかけてきた」
「白い神様…」と、寿院は呟いた。
「うん。それは守りびとだと思ったんだ。譜さんを守っていた。でも、譜さんは、患っている。すごく苦しそうにしていた。なのに、何故、守りびとは譜さんから離れて、去っていったのだろう?今、一番守らなければならない時ではないのかって、ずっと考えていた。でも、どうしても分からない」と、隆鷗が言った。
「ああ、君に分からないことをわたしが分かるわけないけど、共に考えることはできるかもしれない」
寿院は言う。
「寿院は、どう思う?教えてなんて言わないよ。以前、言われたことがあるんだ。我らにとって、悪霊は存在していない。でもそれを現象と捉えるならいささか理解できると。でも共に闘うことはできると、寿院と同じ様なことを言われた。人によって見える世界は違うのだと…。分かっていたけれど、でも本当は、はっきり理解したのはその時だったと思う。見える世界が違っていても、受け入れてくれる人がいないと孤独でしかない」と、隆鷗が言った。
「その人は、隆鷗君の言うことは疑わないけど、肯定もしない…ということか?その人には見えていないからね。わたしも見えていない。でも、隆鷗君を通じて見えることもあった。呪符のときだって、白水優雨幻のときだって…。わたしは蜘蛛の糸が見えた。視界ではなく、心の目で」と、寿院は微笑んだ。
「だけど、やはりそれも現象かもしれないよ」
「でも幻ではないよ」と、寿院が笑うと、隆鷗は不思議そうにした。
「何か不安なことでもあるのかな?」と、寿院が尋ねた。
「多分、譜さんは、白い守りびとから守られていたから、戒という娘の力が及ばなかったのだと思う。だけど、突然いなくなってしまった。理由もなく。突然…。拒絶されてしまったんだ。そんなの恐怖でしかないよ」と、隆鷗の身体がわずかに震えた。
「だけど、守られていたことも、去ったことも譜さんは知らないのでしょう?」
「知らない。知らなくて良かったと思う。本当に…。だけど、これからは、譜さんも家族のように操られてしまう」
「だったら明日、譜さんの家族を救って、戒という娘から解放してやるんだ」と、寿院が言うと、隆鷗は、強く頷いた。
隆鷗は突然拒絶されることへの恐怖に怯えていたのだろうか?と、寿院は考えた。いつも、何も言わず、飄々としているかのように見えても、凄く色々なことを考えて、感受性も豊かだ。しかし、それを表には出さない。というか、出せないのかもしれない。
何か、人には言えない傷を負っている。しかし、寿院はそこには踏み込めない。
翌朝、隆鷗は、誰よりも早く起床して、青斬刀の手入れを始めていた。辺りはまだ闇に包まれていた。
麓の屋敷の悪霊と闘って、それほど時は経っていなかった。初めて悪霊に触れた時、意識が飛んで、まったく違う世界に紛れ込んでしまった感覚が、まだ隆鷗の身体に刻まれたままだった。その時の恐怖がまだ残っている。
あの時…。
屋敷を見張っていた陸と出会い、悪霊と闘う為の作戦を聞かされた隆鷗は、何も考えずに突っ走っただけの自分が恥ずかしくなった。陸の作戦はよく考えられていた。
陸は闘う時に備えて、藁で罠を作っていた。それを渡されて、陸から教えられた抜け道を通って、屋敷の中庭から広間の隣の、祓屋の部屋に直接押し入った隆鷗は、すぐに悪霊に憑依された祓屋の女を見つけることができた。
女は、何かぶつぶつ呟きながら、部屋の中を動き回っていた。
隆鷗は天井の梁に罠を投げ込んだ。そして、先端の輪っかを投げた。輪っかは意外にも女の頭からスッと首に嵌った。賭けだった。もし失敗したら隆鷗は真正面から悪霊に憑依された女と対決しなければならなかった。
隆鷗は梁から垂れたもう一方の綱を思い切り引っ張って、それを固定した。女の首が絞められ、爪先立ちほど空中に浮いた。女が叫んだ。その時、衣を引っ張って女の顔を引き寄せて、口の中に小石を詰め込んでやった。
赤子と同じ苦痛を味わえばいいと思ったからだ。
女の口から真っ赤な血が流れた。
だが、次の瞬間には、あっという間に小石が吐き出され、悪霊は女の身体を捨てた。悪霊の黒い闇が部屋中を覆った。
隆鷗の視界が闇に塞がれた。
だが、隆鷗は落ち着いていた。視界を闇に慣らしながらゆっくりと、青斬刀を抜き、くねくねうねり始めた闇の、曲線の軌道を冷静に辿った。
身体から抜け出した悪霊はまるで無機質な物質だ。だが、隆鷗はそれを言葉で表現することはできない。
うねる闇の軌道を辿ると、そこには何故か土で作られた鬼を模した人形があった。
黒い闇は、その人形と繋がっているように見えた。
鬼の人形…?
それが、本来の憑代なのか?それとも、そこに封印されていたのか?
隆鷗は、人形を破壊するために青斬刀を振り上げた。だがその時、隆鷗の視界に父と兄が無惨に殺された時の光景が突然、映し出された。
その場にいた骸が次々とむくっと立ち上がり、悪霊と化していく。そして、隆鷗に覆い被さって来た。
まるで闇が嘲笑うかのように、覆い被さった悪霊の隙間から、何度も斬られる父と兄の姿を見せられた。
隆鷗は、力の限り、悪霊を払いのけようとした。だが悪霊の、訳の分からないぬめっとした感触が伝わって、それはひどく怠惰な感覚を呼び覚ました。腐った饐えた匂いが纏わり付いてきてすごく不快だった。次第に動くのが億劫になる。遂には、何もかもが厭になって座り込んでしまった。思考が麻痺している。
まるで身体の内側からゆっくりと侵蝕されているようで、気色悪くて、嘔吐感を覚えた。どんどん自分自身が愚かに思えてきた。
闘うなど、そんなことどうでもよくなってくる感覚だ。人とはなんと弱いのだろう。これが支配か?
隆鷗が、怠惰に呑まれている時、隣りの部屋の檻の中で蹲っていた奥方が、突然、垂れていた首をむくっと持ち上げた。檻の前には、昔から仕えていた使用人の老人がいた。その使用人を睨みつけた奥方が、言った。
「この閂を開けろ…」
老人は、はて、何か聞こえたかな?と、首を傾げた。
「そこのじぃよ。お前はいったいどれくらい主の顔を忘れている?はよー閂を開けよ」と、老人は数年ぶりに主の声を聞いた。
さっさっと膝で床を滑らせながら、老人は、檻に近付いた。
「奥方様、はて、何か申されましたか?」と、老人は、口を噤み、確かめるように奥方を見た。
「はよー閂を開けよ」と、奥方が鋭い口調で言った。
奥方の言葉に腰を抜かすほど驚いた老人は、途端に立ち上がると、素早く檻の閂を開けた。
奥方は立ち上がった。
当主である夫から受けた理不尽な暴力と、虚構の上に成り立った夫との不遇な日常により、心を壊してしまった奥方は、狐憑きと夫から散々罵られ、祓屋を呼ばれた。
そして、更に祓屋の女に繰り返し繰り返し説き伏せられ、今度は狐憑きから大陸にいる、存在しているのかも分からないような獣が憑いていると洗脳されていく一方で、両足に無数の青痣をつけ、自らつねったり、殴ったりしながら正気を保つ努力を惜しまなかった。それにより、洗脳されてもかろうじて、時々正気に戻ることができた。
奥方は、使用人の老人に刀を持ってくるように命令した。老人はすぐ様、嫁いだ時に持参した刀を持ってきて、奥方に渡した。奥方は刀を抜き、かつて自分の部屋だった祓屋の部屋に入ると、無作為に斬りまくった。
「怪物!怪物は何処だ。よくも、よくも…わたしに地獄を見せたな」
奥方は、そう叫びながら刀を振り回し、そして、梁にぶら下がっていた祓屋の女に何度も刃を突き刺していた。
祓屋の女が息絶えたところで悪霊の力が弱まった。まだ祓屋の女とは繋がっていたのか、隆鷗の怠惰も消えていった。
隆鷗は、刀を振り回している女を見た。
「これは獣憑きと言われた奥方なのだろうか?」と、隆鷗は咄嗟に思った。
しかし、奥方を見ても、何も見えない。獣の霊は愚か、何も憑いていなかった。何故、獣憑きなどと言われていたのか?
刀を振り回していた奥方が、ふと立ち止まり、突然後ろを振り返った。そこには、月子を襲った赤い衣の娘が立っていた。しかし、様子が随分違う。ぼんやりとした表情は子供じみていて、あの時とはまったく別人だった。
奥方は突然混乱し、守るように娘に覆い被さった。
「怪物がまた娘の身体を奪ってしまう。そこの御子よ。お願いです。その人形を壊して…」と、奥方が叫んだ。
隆鷗は、部屋の中を見渡した。先程より薄くなったように感じた悪霊の黒い闇が小さな塊となって黒く濃くなっていく。娘の身体に入るつもりなのか?
隆鷗は、咄嗟に青斬刀を突き刺して人形を壊した。
すると、人形の内部に見たこともない黒い闇が見えた。それは深い漆黒の闇だった。何処か別の空間に繋がっているような…深い穴…が見える。それをじっと見ていると、現実の自分の存在が危うくなるような錯覚を覚えた。何処か、別の空間に迷い込んで、もう二度と戻れない、そんな危うさだ。隆鷗は恐ろしくなって人形を粉々に壊していた。
気がつくと、穴は消えていた。
その時、黒い闇は何かを保てなくなったように散り散りになり、黒煙みたいにスカスカになって壁の隙間に消えてしまった。
「ありがとう。ありがとう…」
奥方はさめざめと泣いていた。
あの漆黒の闇の中に見えた深い穴は何だったのだろうか…?
自分にはとても理解することのできない世界なのかもしれない。それは、苞寿が言っていた現象というものだろうか?
まだまだ理解できないことがある。隠り世と現世の狭間の世界。そこにわたしはいるのだろうか?
やがて、寿院が起きてきた。
「早いね。隆鷗君」
「ああ、寿院」
寿院を見た隆鷗の表情が、何処か緊張しているように見えた。
いつも飄々としている隆鷗だが、心のなかでは考え過ぎるほど考えている。戒という子供との闘いの前に臆病風を吹かせているわけではないのは分かっている。
ただ、寿院には、隆鷗に巣食う本当の恐怖の正体は分からなかった。しかし、それが容易なものでないことは分かる。だから簡単に聞き出せなかった。
寿院に続き鼓笙も起きてきて客間に顔を出した。
「寿院様、隆鷗様…」と、鼓笙が声を掛ける。
「鼓笙様。お早いですね」と、寿院は答える。
「鼓笙様、譜さんは起きていますか?」と、隆鷗が尋ねた。
「分からないけど。譜に何か言うことでもあるのですか?」と、鼓笙が尋ね返す。
「はい。今日、必ず家族団欒ができるようにします。それまでそこで待っていて下さい。と、そう伝えて下さい」と、隆鷗は言った。
「はい。必ず…」
鼓笙が答えた。
いよいよ、隆鷗と戒の闘いが始まる…。
次回「傀儡になった母娘」




