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さよなら月子様 後編

隆鷗と月子の袂を分かつ、重要な出来事。

それは、それぞれの人生を変えてしまった。

 登葱ときは、浅い眠りのなかで、無名むめいとチビすけのはしゃぐ声を聞いていた。

 突然、強い睡魔に襲われて眠りに落ちた登葱は、自分が失神したことも、高熱を出していたことも何も分からないまま目覚めようとしていた。


 ああ、ここは自分の部屋ではないのだ。


 最初に視界に入ったのは、りんの部屋の天井だった。

 登葱ときはゆっくりと上半身を起こして、ばらばらになった記憶を手繰り寄せていると、唐突に赤子のことを思い出した。

 赤子の姿は何処にもない。

 誰が、あんな残酷なことをしたのだ。許せない。

 甦る憎悪を抱きながら、登葱はりんの部屋を出た。そして、客間に入ると、外の廊下に出た。

 あれっ?無名とチビすけの声が聞こえていたが、姿が見えない。あの声は夢だったのか?しかし、静まり返った庭の空気が何処かいつもと違う。

 登葱ときは、屋敷の方に視線を向けた。息を呑んだ。そして、咄嗟に裸足のまま飛び出した。

 「月子様、月子様…!」と、叫び、屋敷の廊下まで庭を駆け抜けた。


 月子が倒れている。ぐったりとして、名を呼んだが、何も反応もない。

 誰か…!誰もいないのか?

 登葱は暫く月子の名を呼んだ。そして、隆鷗たかおう瀬羅せら至誡しかいの名を繰り返し呼び続け救いを求めた。しかし、誰も答えてはくれなかった。

 さすがの登葱も途方に暮れた。

 月子の額に触れても熱はない。少し身体を揺すってみたが、何の反応もない。

 動かしても大丈夫だろうか?取り敢えず部屋で休ませるべきか?しかし、頭を打っていたら、乱暴には動かせない。登葱は考えがまとまらず、ぐるぐると同じ言葉を繰り返していた。

 やがて、山林から隆鷗が姿を見せ、本堂の庭を走って来た。


 「隆鷗様、月子様が…!」登葱が叫んだ。

 息を切らし、屋敷のすぐ傍に辿り着いた隆鷗が、登葱を見た。

 「登葱様、大丈夫ですか?」と、言う隆鷗の言葉に登葱は首を傾げた。

 「何を言っているのですか。月子様が倒れているのですよ」登葱が怒鳴った。

 「それは、分かっています。登葱様は二日も高熱を出して寝込んでいたから…。起きても大丈夫なのかと思って…」と、隆鷗が心配気に言う。

 「私が二日も寝てたと…?そんな馬鹿な。あり得ません」

 登葱は驚いたが、ゆっくりと現実を受け入れていった。そして、隆鷗から二日間の事を聞かされ、更に驚いた。

 「隆鷗様、本当に申し訳ありません。そんな大事な時に…」登葱は自分の不甲斐なさを詫びた。

 「いえ、登葱様が大丈夫ならば良かったです。それと赤子は苞寿様が丁重に弔いました。本当に残念です」

 「そうですか。苞寿様が…。本当に無念です。すっかり情が移っておりまして…」と、登葱の目に涙が溜まる。暫くの間、言葉を詰まらせた。


 「それで月子様はどうなさったの?何故倒れているの」と、登葱が尋ねた。

 「また、悪霊を纏ったあのむすめが来たのです。無名とチビすけが庭で遊んでいるところに突然…。わたしは離れにいたのですが、異様な空気を感じて急いで屋敷に来たのです…。月子様はここで悪霊を纏う娘をただ見ていただけでした。二人は対峙していた。やがて娘は、月子様を見て嘲笑うと、去っていきました。わたしは跡を追ったのですが…。月子様のこともあり、やつの行き先は分かっておりますので、急いで戻って来ました」と、隆鷗が言った。

 「月子様はその娘に何かされたのですか?」と、登葱は気が気ではない。

 「いえ、特に何もなかったと思います。驚いて気を失っただけです」


 隆鷗が屋敷に着いた時、月子は、ただ庭で遊ぶ無名とチビすけの傍に立っていた赤い着物の少女を見ていただけだった。


 少女に纏う、黒くうねる闇は更に大きくなっていた。獣憑きと共にあやめた子供を呑み込んだ、真っ黒くうねる闇。村人の、全ての営みを破壊し、己の闇を強大にする為だけに、子供たちを取り込んだこの悪霊を絶対許してはならない。

 隆鷗は強い怒りを覚えた。苞寿ほうじゅの言葉を信じて、余計な考えを捨て単純に考えると、こいつは必ず滅す。それだけだ。


 少女は、月子の傍に寄ることもなく、傍にいた無名に耳打ちをしただけだった。

 月子は、威厳を保った。娘を寄せ付けなかった。しかし…隆鷗の姿を見た途端、ひどく怯えた顔をして、気を失ったのだ。

 隆鷗は、そのことを登葱に言えなかった。


 その日を最後に少女が寺に来ることはなかった。


 それから暫くして、苞寿ほうじゅの弟子がひとりひとり寺に集まって来た。

 苞寿の弟子は皆、独特な威圧感があり、近寄り難い人ばかりだ。

 どうやら麓の屋敷を祓う準備が始まったようだ。だが、それについて、隆鷗は何も聞かされることはなかった。


 そんな時、無名とチビすけがいつのまにかいなくなったことに影近が気がついた。


 影近はひどく心配して、毎日山林へ探しに出かけた。影近以外は、麓の集落に帰ったのだろうと騒ぐ者はいなかった。それに苞寿の弟子たちが戻ってきたことで何かと忙しかった。無名とチビすけに構っていられなかったのだ。


 影近の心配をよそに隆鷗には、ひどく心配なことがあった。

 ずっと都に行ってなかった月子が、都に行くと騒ぎ出したのだ。これまでの月子には考えられない頑固さで登葱を困らせていた。

 毎朝、本堂の庭で月子と登葱が言い争う声が響く。静まり返った朝だ。その声は離れの平屋ひらやにも聞こえてくる。

 隆鷗は耳を塞ぐ。


 月子が最初に騒いだ日、隆鷗は庭に駆けつけて、月子を止めた。その時、月子は、凄く怖い顔をして、隆鷗を睨んだ。

 「誰だ其方は?我に触れるな。ここは其方がいる場所ではない。出て行け!」

 隆鷗は、月子にそう言われて、ひどく衝撃を受けた。

 「隆鷗様になんてことを言うんですか。月子様は隆鷗様のことを忘れてしまっているのですよ。記憶が混乱している。そんな身体で寺から出すわけにはいかないんです」と、登葱が言う。

 「何が隆鷗様だ。こやつは呪いの文字を纏う物怪もののけなのだ。登葱、騙されるな!隆鷗様などいないのだ」と、月子が言う。

 登葱は、月子のその言葉に驚いた。

 「月子様は、物怪もののけのような女子おなごに会って明らかにおかしい。隆鷗様を傷つけるようなことを言うなど…。私は月子様を許しませんよ」

 登葱がそう言うと、月子は持っていたむしろを隆鷗に投げつけ、忌々しそうに怒鳴った。

 「隆鷗などいないのだ。其方は物怪もののけなのだ。いい加減理解して、寺から出て行くのだ」

 月子は都に行くのを諦めて屋敷に戻った。


 その日から隆鷗は、離れの部屋の隅で綿入れの着物にくるまって、空っぽになったようにぼんやりした。寺の者は皆忙しかったので、隆鷗に構う者はいなかった。

 「呪いの文字を纏う…?其方は物怪もののけ…酷い言われようだ。わたしのことなどすっかり忘れてしまった…。いや、忘れるくらいなら…いい…よくないが…でも、あのあからさまな嫌悪感には耐えられない」

 そんな隆鷗を唯一気に留めて、朝餉と夕餉を運んでくれたりんは、膳を運ぶたびに月子の話しをする。

 「月子様は何を苛立っているのか一日中登葱様を怒鳴ったり、文句を言ったりしているんです。さすがに登葱様が気の毒です。結局、月子様は、以前のように都に出たいだけなのに、行かせてあげたらいいんですよ」

 隆鷗は、もう月子の話しは聞きたくなかった。隆鷗を物怪もののけと叫んだ月子の冷たい顔が甦る。


 隆鷗がそうした日々を過ごしている時に、山林で無名とチビすけの遺体が見つかった。

 諦めきれずに何日もかけて影近が探し出したのだ。

 影近にとって、無名とチビすけはほんのわずかな時を過ごしただけの間柄だと思っていたが、生命いのちの大切さを影近は誰よりも知っていたのだ。

 似たような境遇だった隆鷗は、影近の本質そのものの、最も重要な領域が生命いのちに対して譲ることのできない大きなこだわりがあると理解していた。

 さすがの隆鷗も、いつまでも情け無い姿を晒すわけにはいかない。


 無名とチビすけが本堂の中央で、しとねに横たわっていた。傍では影近が深刻な表情で項垂れている。その隣りで苞寿ほうじゅが静かに経を唱えていた。影近と苞寿の後ろに寺の者が皆集まっていた。

 隆鷗は、影近に寄り添うために、隣りに座った。


 隆鷗は、あのむすめが無名に耳打ちしたことを思い出していた。それから無名とチビすけは寺からいなくなった。偶然とは考え難い。耳打ちして何も喋らなくとも、あの悪霊は人を操る。一言でも何かを命じれば、無名とチビすけは命じられた通りに動く。

 何故、無垢な子供をあやめなければならない。やつの正体は何だ?祖霊それい様ではない。御霊みたま様や祖霊様を知る者か…?…竜古りゅうこ様の力を継ぐ者たち。多くの弟子たち。その…なかに、正しく受け継げなかった歪んだ意志を持つ者がいたとしたら…?或いは御霊様や祖霊様に敵対し、死んでいったモノ…?

 …と…言うか、竜古様とはいったい誰だ?そして、竜古様の力を受け継いだ二十の祖霊様とはいったい誰なのだ?


 月子様が竜古様の力を受け継ぐ者なのか?

 駄目だ。苞寿様にしか解らないことだ。わたしが必死に考えたところで…何が分かる。苞寿様の言う通り、複雑に考えても無駄なんだ。単純に考えるのが一番いい。無垢な子供を平気で殺めるあの悪霊を滅する。それだけだ。

 隆鷗は、悔しかったのか?俯いている影近の涙を見てしまった。影近が泣くなどこの先見ることはないだろう。



 無名とチビすけの弔いの最中さなか、直接苞寿庵を訪れる男がいた。


 男は、慣れているのか、難なく結界を通り抜け、苞寿庵ほうじゅあんの中に入った。そして、いつも苞寿が座っている、大きな机の上に並んだ冊子や巻き物を眺めていた。


 やがて、苞寿と瀬羅が入ってきた。

 「ああ、旋寿せんじゅ様、久しぶりです。何故、寺に寄らず直接苞寿庵なのですか?」と、瀬羅が嬉しそうに言う。

 「よう、瀬羅。元気か?いやいや、寺には影近がいるだろう。あいつに捕まったら三日は離してくれないだろうな。今日は兄上に呼ばれて来たんだ。多分、影近に構っていられないと思うよ」と、男が親しげに言う。

 「旋寿せんじゅ、わざわざすまない。わたしが呼んでいることに気づいてくれて良かったよ」と、苞寿が言う。

 「わたしは毎日、都からこの山を見ているんです。兄上の呼びには勿論気づきます」


 旋寿せんじゅは末弟だった。苞寿は、末弟を呼ぶ時の合図を決めていた。静まり返った卯の刻に苞寿が作った龍笛を鳴らす。苞寿の龍笛のは特殊で、遠くまで響く。苞寿の龍笛のは兄弟であればすぐに分かった。誰が呼ばれているのか、奏でる時刻により、聞き分けていたのだ。


 「わりと早くやって来たのですが、どうも今日は弔いが行われているようでしたから、邪魔してはいけないと思いまして、声もかけずにここに直接入ったのです」と、旋寿せんじゅが言った。

 「影近様が可愛がっていた子供の弔いです。だから今日は、もしかしたら旋寿せんじゅ様には構っていられないかもしれませんよ」と、瀬羅が言う。

 「そうなんだ…」


 「旋寿、月子様のことで聞いてもらいたいことがある」と、唐突に苞寿が言った。

 「月子様に何かあったのですか?」と、旋寿が尋ねた。

 「じつは、先日、この寺に悪霊に取り憑かれた娘が来た。娘は麓の屋敷に住む者で、どうも取り憑いた悪霊は、ただならぬモノのようだ。月子様は、その悪霊に惑わされている。これまでに見たこともない、不気味な、呪いのような文字を見るようになったと、わたしに泣きついてきた。月子様は、その文字を全く読むことができず、これまで読んでいた普通の文字をかき消すように、無数に現れ、月子様の全てを支配しようとする。と、そう言うのだ。いろいろ推測するのだが、どれもこれも釈然としないのだ。だから君の意見を聞きたくて呼んだのだ」と、苞寿が切り出した。


 「全く読めない不気味な呪いのような文字?」と、呟くと、旋寿は考えた。「それはもしかしたらかくから現世うつしよに紛れ込んだ文字かもしれない。かくは、この世ならざるモノの世界。妖怪や物怪もののけが読むという、人には読めない文字や印があると聞いたことがある。月子様の、文字の世界に現れるのであれば、読めなくとも、やはりそれは文字だ」と、旋寿が答えた。


 「確かに、月子様の見ている世界は、文字という定義が確立された世界だ。文字であるからこそ見えている。読めても読めなくても…。その読めない文字を見るようになったのは、やはり悪霊に接したからだろうか?」と、苞寿が首を傾げる。


 「そうとも言えないかもしれない。月子様が自ら覚醒したのかもしれない」と、旋寿が言う。「しかし、月子様の年齢を考えると、早い覚醒かもしれない。無理な覚醒は、逆に月子様を壊してしまうし、闇に堕ちてしまうかもしれない」

 旋寿は慎重に言った。


 「旋寿よ。実はこの寺に竜鷗りゅうおう様のご子息がいる。不思議なことに、竜鷗りゅうおう様と竜界りゅうかい様の死を目の当たりにして、隆鷗様は死人しびとを見る力を授かってしまったのだ」

 「竜鷗りゅうおう様の息子…?竜鷗…」と、旋寿は茫然とする。

 「そうだ。君の、刎頚ふんけいの友のご子息だ」

 「隆鷗様。隆鷗様が死人しびとを見る力を授かった?わたしの知っている限り祖霊それい様のなかでそんな力を持っている者はいない。何故だろう?」

 「そうだな、わたしも最初にそのことを考えた。たが、どんなに考えても我ら凡夫には分からないことだ」

 「同じ世代に能力のある者が二人…?考え深いな」と、旋寿は不思議そうな顔をする

 「能力を持っている者同士、隆鷗様をこの寺に連れてきて、すぐに月子様とはよき友となったのだ。しかし、悪霊が来て以来、月子様には、隆鷗様が呪いの文字を纏う物怪もののけにしか見えないと、言う。顔は勿論、全身を呪いの文字が覆ってしまう。顔を見ることさえ出来ないそうだ。もう、何もかも隆鷗様に騙されていたとしか思えないと。自身でもどうすることもできない。と、訴える」と、苞寿は困惑する。


 「あくまでも推測の話しなんですが、先程言ったみたいに月子様は覚醒したと考えるのが、釈然とする。しかし、その時が最も危険な時だとも言える。信蕉様は、誰かさんに何かと好き勝手に使われて忙しそうだから、誰かが傍について、常に月子様の心を安定させた方がいい。御霊様の一族のことを知っている者で上手く導かないと、それは意味がない。兄上が忙しいなら、瀬羅がいい」と、旋寿が言う。

 「あっ、いえ、旋寿様が適任ではないですか?影近様の時みたいに」と、瀬羅は、自分では荷が重すぎると感じた。

 「いえ、わたしは、むしろ隆鷗様の方が心配です。これまで月子様はよき友だったのですよね。隆鷗様に騙されたと言ってる月子様は、今隆鷗様にはどのように接しているんですか?」

 「あっ…確かに。突然、物怪もののけ呼ばわりされていると、聞いています。しかし、月子様は記憶が混乱していると隆鷗様は信じ切っているご様子。じっと耐えていると…」と、瀬羅が言う。


 「記憶が混乱しているというのは間違いではないかもしれない。突然、かくの文字を見るようになったのですから、かなり混乱されていると思う。記憶も消失する可能性もあるかも知れない。かくに呑まれる瀬戸際にいるかもしれない。しかし…、隆鷗様もまた…」

 「旋寿…隆鷗様はいつもかく現世うつしよの狭間に存在している。ならば隆鷗様の周りにかくの文字が見えるのは道理。隆鷗様も際どいところにいるのかもしれない。よき友だった月子様から突然、理不尽な態度を取られているのだから…。闇に呑まれようとしているから隆鷗様の顔すら見えなくなるまでかくの文字に埋め尽くされているとも考えられる」と、苞寿が旋寿の言葉を遮って、言った。


 「悪霊の仕業ではないかもしれないが、確実に悪霊がきっかけを作っている。もしかしたら、その悪霊は御霊様一族のことを知っているモノかもしれない。瀬羅、明朝、麓の屋敷のモノを閉じ込めるために結界を張っておきたいのだが、案内してくれるかい。早いうちに祓ったほうがいいかもしれない」と、旋寿が言う。


 「それなんだが、旋寿。気になる記録を目にしたのだが…」と、突然苞寿が言う。

 「兄上、どんな記録ですか?」

 「ああ、八十年から百年前にかけて、双胎の祖霊様がいたことが記されていた。双胎共に力を持ち、一人は竜古様と同様の力。だがもう一人は異質な力。人を傀儡同様に扱う忌みなる力。故に是を抹消。その先の記録はない。だが、もしその者が生きていて、脈々とその血筋が受け継がれていたとしたら…もしかして祖父が研究していた降霊術と関係があるのかもしれない」

 「その者が御霊様一族を怨んでいてもおかしくないですね。悪霊の正体を探る可能性のひとつだ…。だとしたら、祖霊様ほどの力を持っている可能性もあるということですね。祓うにも慎重にしなくては我らが危険かもしれない。いずれにせよ明朝、屋敷に行ってみます」と、旋寿が言う。

 「わたしも、祖父のことをもっと詳しく調べたい。その研究の記録がきっとあるはずなのだ」と、苞寿が言った。



 翌朝…。

 まだ、陽も明けていない、静まり返った本堂の庭では、いつものように月子と、登葱の声が響き渡った。


 苞寿の弟子が滞在しているために、離れの平屋ひらやには至誡しかい箭重やえと双子、りんが寝て、隆鷗と影近は、本堂で無名とチビすけの傍で寝ていた。

 月子と登葱の声が響き渡る。離れの平屋とは様子が違って、随分うるさく、激しく聞こえてくる。

 心配する登葱の言葉に被せて、月子の容赦のない独りよがりな主張が聞こえてくる。

 影近も隆鷗も、次第に登葱が気の毒に思えてきた。そのうち、突き飛ばされたのか、激しい音と共に登葱の苦痛を訴える叫び声が聞こえて来た。

 「ああ、突き飛ばしたよね。どうするかな…いい加減止める…」と、影近が言っているうちに隆鷗は、すでに玄関にいた。


 そして、月子の前に立ちはだかった。


 「月子様、最近おかしいですよ。登葱様にはぞんざいな口を聞くし、わたしには…。まぁ、それはいいとして…。登葱様は何もあなたが都に行くのを止めているのではない。あなたがおかしくなったから、休めと言っているだけだ。なのにあなたは一言も聞く耳を持たず、自分のやりたいことだけを主張する。まったく容認できません」と、隆鷗は怒鳴った。

 隆鷗の言葉に、怒りを止められない月子は、この上ないほど冷酷な顔をして、隆鷗を睨んだ。

 「物怪もののけの分際で我にものを申すな!」

 月子のその一言で隆鷗は、もう感情を抑えることができなかった。

 思わず月子の頬を叩いてしまった。だが、すぐに後悔した。

 「お前は誰だ!私はただ、都に戻って、寿院と共に手鞠の仇を討ちたいのだ!何故それを阻む。お前は誰なのだ?」と、月子が涙をいっぱい溜めた。

 

 隆鷗は、後悔とともに踵を返した。箭重やえが眠る自分の部屋に戻って、青斬刀と、少ない自分の荷物をまとめて、麓に向かった。

 「月子様を叩いてしまった…なんてことを…なんてことを…じゅいんって誰だよ…じゅいん?」と、呟きながら、隆鷗は麓の屋敷に急いで向かった。


 苞寿庵では、隆鷗と月子の諍いなど、知る由もなく、旋寿と、瀬羅が麓の屋敷に向かうために苞寿庵を後にしていた。


 瀬羅は山を降りるのは慣れいているので、いつもならそれほど時はかからないのだが、旋寿はそういうわけにもいかなかった。山を降りた時には、疲れ果てていた。

 「子供の頃は、いつも苞寿庵に出入りしていたから山にも慣れていたが、もうそういうわけにもいかないな。あの頃、わたしはいつも、兄上が読んでいる、あの『守人草子』を読み漁っていたんですけどね」と、苦笑する。「わたしも兄上が言っていた双胎の祖霊様のことはなんとなく覚えている…うーん、何だったかな?」

 「旋寿様は読書人でしたからね。だから今日こんにちの影近様がいる。知識人の旋寿様だからできたことだ」

 「あれは特別だ。隆鷗様の死人しびとを見る力とまではいかないのだろうが、人間の限界ぎりぎりの力を発揮する。それは恐ろしい。わたしには、そこに能力者とどんな違いがあるのか分からないな」

 そんな話しをしているうちに屋敷に辿り着いた。


 「うん?あれが悪霊が潜む屋敷なのか?わたしには何も感じないな」と、旋寿が言う。

 「隆鷗様は屋敷の周りには闇がうねっていると言ってたな。勿論わたしには何も見えないが…」と、瀬羅が、隆鷗の言葉を思い出しながら言った。

 「闇がうねっている…?また変わった表現を使うな」と、旋寿が微笑む。

 「そうだ…。山の方から、おそらく陸様が屋敷を見張っていると思う。先に陸様を探そう」と、突然、瀬羅が言う。

 「へぇー、一晩中見張っているのか?」と、旋寿が感心する。

 「陸様は、自分が納得するまでやり通すんだ。止めても聞きやしない」と、瀬羅が呆れたように言う。


 屋敷の近くに緩やかな勾配の山林の入り口がある。そこからふらりふらりと、陸が出て来た。そして、瀬羅を見ると、走り始めた。

 「瀬羅さん、瀬羅さん…すみません。わたしは止めたのです」と、叫びながら、陸はすぐに瀬羅の元にやって来た。

 「何だ?止めたとは?」と、不思議な顔で瀬羅が言う。

 「ふーん。この子が陸様か」と、隣で旋寿が呟く。


 「隆鷗です。隆鷗が突然やって来て、多分、悪霊を滅したと思うんですが…肩が波打って、ゼェーゼェー言ってたから相当手こずったんだと思うけど…」と、言う陸の肩も胸も波打っている。

 「えっ?隆鷗様が…何も聞いていないぞ。陸様は止めたのか?」

 「すみません。嘘をついてました。屋敷には当主もいたし、男衆ではないですが、当主のもとからの使用人もいたので、わたしは隆鷗に作戦を与えました。今朝は祓屋の女子おなごの方に霊が憑依していたから、女子おなごを拘束する、わたしが編んだ罠も与えました。隆鷗は何故か小石をたくさん拾って屋敷の中に入って行きました」と、陸は正直に打ち明けた。

 「えっ?それで隆鷗様は何処にいるのだ?」

 「屋敷から出て来た隆鷗は疲弊していた。祓屋の女子おなごの口の中に小石をいっぱい詰め込んでやった。と、してやったりと隆鷗が言った。それから女子おなこの身体から悪霊が離れたので、おおよその力は削いだとは思うけど、最後に黒煙のようになって、ふわふわと壁の隙間に逃げられてしまった。と言っていた。それで隆鷗は寺を出て行った。わたしは苞寿様にきちんと話してからにしろと言ったけど…聞き入れてはもらえなかった」

 「いつ…?何処へ行くと言った?」

 「一刻はたっているだろうか?もっとか?いや、正確には分からない。それと、何処へ行くのか?と尋ねたが、聞いたこともない名を言っていた。じゅいんとか…?そんな名を言っていた」

 「瀬羅、すぐに追いかけてくれ。そして、都のわたしの寺に連れて行って隆鷗様を足止めしてくれ」と、旋寿が口を挟んだ。

 「分かりました」と、言うと、すぐに瀬羅は動いた。

 その瞬間、陸が言う。

 「瀬羅さん、隆鷗が言った。獣憑きの奥方には何も見えなかった…と。何も憑いていないということだ。結局、ただの洗脳だ。それから隆鷗がわたしの罠はすごく役に立った。作戦もすごく合理的だった。わたしを尊敬すると言ってくれたんだ」

 陸の声が次第に大きくなった。隆鷗を追う為に、瀬羅が陸の元を離れて、すぐに遠ざかったからだ。最後の言葉は聞こえていないかもしれない。


 「ふうーん。寿院か」

 その傍で旋寿が呟いた。


 その日、瀬羅が隆鷗を追いかけた、半刻後に、月子は、登葱を欺いて寺を出て都に向かった。

隆鷗の懐古が終わり、物語は戒との闘いの前夜に戻る。

鼓笙の屋敷で見た「白い守りびと」が、寺と繋がっていく。


次回「白い守りびと」


※「過ぎし日の因果」からこのエピソードまで、他サイトに置いている『月下回廊』のなかのエピソードと重なる部分がありますが、結構、改訂しています。続編として書き始めましたが、改訂により、『月下回廊』は、原案という立ち位置になっています。

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