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さよなら月子様 前編

隆鷗は、悪霊から月子を守れるのか…?

 呼吸を乱しながら隆鷗たかおうは、月子の元に急いだ。すごく厭な感じだ。歪んだ空気が隆鷗を抑圧する。何故か抗えない強い威圧感が隆鷗を支配してくる。

 至誡しかいなど放っておけば良かったと、後悔しながら、廊下を走り抜け、台所へ続く渡り廊下へ飛び乗り、反動を利用して高く飛んだ。渡り廊下を降りると、もうすぐ月子の屋敷だ。


 しかし、隆鷗は立ち止まった。

 月子と、赤い少女が向き合っていた。その少女の姿を見て息を呑んだ。

 少女から現れていたうねる闇は、幾人もの子供の霊を飲み込み更に巨大になっていた。そして、侵入者の背後に纏わり付いていた影と同じように触覚のような長く細い無数の糸が月子の顔に近付いていた。

 少女が一方的に月子に話しかけていた。その言葉が聞こえてくる。


 「そうなりたくなければ、その身体を私に捧げよ。わたしの力でお前様を祖霊様のなかで最も強くしてあげられるのだ」

 その言葉を合図に細い無数の糸が一気に月子の眼孔や口の中へ入っていった。


 隆鷗は叫んだ。

 そして、周囲の何もかもが見えなくなるほど集中した。

 青斬刀を抜きながら、突進して高く跳躍。鋭く素早く細い無数の糸を一気に斬り落とした。


 そして、月子の眼孔と口の中に残った、うねうね動く虫のような無数の糸を必死に取り除いた。

 眼孔の糸をすっかり取り除くと、細かく震える瞳孔が見えた。隆鷗を捉えているのか?叫び始めた。

 「だ…れ…だ…?の…ろ…い…の…も…じ…で…な…に…を…し…た?」

 月子の口から糸が溢れ、飛び散った。

 「呪いの文字?」と、隆鷗は呟いた。

 隆鷗は、口の中の束になっている糸を必死で掻き出した。

 「月子様、あんなやつの言葉を聞いては駄目だ。ああいう類いのやつはひとを貶め、陥れて地獄に落とすのだ。全部嘘を言っている。聞いては駄目だ」

 隆鷗は叫びなから糸を掻き出した。全て取り除くと、隆鷗は振り返って少女を睨みつけた。

 「お前は誰だ?月子様に何をする!」


 「なんだ?お前こそ誰だ?何をした?わたしが見えているのか?」

 少女がわずかに後退った。

 

 廊下から飛び降りた隆鷗は、青斬刀を構えながらゆっくり少女に歩み寄っていく。

 「あなたは祖霊様の誰かですか…?」感情を抑えて隆鷗が尋ねる。


 隆鷗は思い出した。昨夜月子が言っていた言葉を。

 『入れて…入れて…追い出さないで…よくも…よくも…追い出したな…』


 少女が笑う。

 「ふふふ、祖霊様…ふふふ、そうかもな」


 「だったら何故お前は墓から拒絶されたのだ?」と、隆鷗が尋ねる。

 「拒絶…?」

 「祖霊様なのに墓に入れなかった…追い出されたのだろう?」

 「お前、何を言う…?墓に入れなかっただと…?何を…」


 その時には、隆鷗は突進して青斬刀を振りかぶっていた。

 少女が素早く後退った。

 「お前は祖霊様ではないな。祖霊様な訳がない」

 「祖霊様祖霊様ってうるさい!」と、少女が細く長い糸を放った。

 隆鷗がそれを避ける。再び青斬刀を構えた。

 「お前を滅する」

 隆鷗がそう言った時、少女が蔑むように笑った。

 不気味な笑いだ。

 隆鷗は咄嗟に振り返って月子を見た。

 そこには、身体中に糸が絡み、締め付けられているのか、苦しむ月子が見えた。

 「お前は断じて祖霊様ではない。その醜くい本体を見れば分かる。罪のない子供を自分の勝手な都合で殺しただろう。醜い…お前は本当に醜い」

 隆鷗は、そう言うと、月子のところに戻って身体を締め付けている糸を取り除いた。

 「月子様…しっかりして!」

 月子は、糸を取り除いたのに、廊下に横たわり、ぼんやりしていた。


 「うるさい。なんでお前みたいなやつがいるのだ?なんで邪魔をする。知らない。お前みたいなやつ知らない。なんだ…お前は誰だ?」

 そう言うと、少女が逃げていった。


 「必ず、お前を滅してやる。必ずだ」

 逃げる少女に隆鷗は叫んだ。


 少女が去った後、寺は静まり返った。ただ隆鷗の必死な声が響いた。

 「月子様、もう大丈夫です。しっかりして下さい」

 やがてぼんやりしていた瞳が隆鷗を捉えると、月子は激しく抗い始めて、隆鷗に怒鳴った。

 「誰だ?お前は誰だ。我に何をした!寄るな、あっちに行け」

 月子が暴れる。

 殴られ、蹴られた隆鷗は呆然とした。


 そこに至誡しかいが姿を見せた。

 「今は混乱しているのですよ。隆鷗様に言っているわけではありません」

 突然現れた至誡に隆鷗は警戒した。


 「わたしもそうでしたからよく分かります」そう言うと、至誡はその場に正座して深々と額を地につけた。

 「隆鷗様、申し訳ありませんでした。これまでの数々のご無礼も併せてお詫び申し上げます」

 隆鷗は、屋敷の廊下から、地面に額を付けた至誡を見下ろした。

 「そういうことはやめて下さい。闇に呑まれる意味をもっと深く考えるべきです。あなたが弱いから…。赤子の、幸福に生きているこの先を見ていく強さを持たなくてはいけなかったんです」

 至誡は、言葉を失った。

 「わたしに対する無礼など、そんなことはどうでもいいことです」

 「いえ、わたしは隆鷗様をすごく誤解していました。寺に役立つことをしろなどと申したことが恥ずかしい。今思えばはっきりと理解できます。谷虎こくこが操られていたことをあの時すでに見抜いていたのは隆鷗様。それが分からなかったから、わたしは闇に呑まれたのだと思います。わたしは本当に愚かです。全て先生に打ち明け、わたしは、破門になる前にここを出ます」

 「いや、それは至誡さんが償うことだ。わたしがどうこう言うことではない。好きなようにすればいい。ただ、その前に月子様が、わたしを恐れて傍に寄ると蹴られてしまう。とにかく、今は月子様を部屋に連れて休ませて下さい。それと、登葱とき様が心配です。それは至誡様の償いのひとつだ」

 「月子様はわたしに任せて下さい。登葱様は、赤子の死の衝撃と、このところの赤子の世話で心労が重なり、赤子の傍で気を失っておりましたので、着物をかけ、すぐここに来た次第です」と、至誡は震えながら言った。

 「まず先に月子様と登葱様をお願いします」

 「承知いたしました。隆鷗様はこれからどうなさいます。わたしにできることがあれば…」

 「わたしは月子様が少し落ち着いたら、あの悪霊の一片の破片さえ残すことないようにしっかりと調べて取り除きます。それと、瀬羅せら様、影近君、箭重殿に今あったことを伝えて下さい。至誡さんは苞寿庵は分かりますか?」

 「すみません。これまで偽っておりましたが、わたしは苞寿庵を見ることができません」

 「そしたら瀬羅様に苞寿ほうじゅ様に伝えてもらって下さい」

 至誡が月子を抱えて去って行くと、隆鷗は、しばらくぐったりと座り込んでしまった。月子の、自分を見る目が頭に焼き付いている。


 その日は、月子の傍に寄ることすら出来なかった。しかし、登葱ときは、赤子の世話の心労が重なった上、小さな口に詰められた小石で恐ろしい顔になってしまった赤子の顔を見た衝撃で高熱を出して眠っていると、りんの知らせを受けていた。信蕉もいなかったので、月子はひとりになってしまう。

 隆鷗は、心配で屋敷の廊下にただ呆然と座っていた。

 陽が沈もうとしていた時に、影近と箭重やえがやって来て、月子に付き添った。

 途中、影近が廊下に出て来た。


 「月子様、特に記憶を失くしていないぜ。俺のことも箭重のこともちゃんと分かっていた。隆鷗は蹴られるのか?」と、影近が言った。

 「ああ、わたしのことは完全に忘れている。悪霊の毒気は全てを取り除いたつもりなのだが、全然治らない。何が悪いのか?もう分からないよ」と、隆鷗は、泣きそうな顔をする。

 「登葱様が治るまでは箭重に任せろ。箭重は、いつも月子様のこと妬ましいのか、悪口ばかり言っているが、本気ではないから…。ちゃんと面倒見てるから心配するなよ。今、りんが夕餉の用意をしているから、ご飯食べたら、寝ろ。明日は苞寿様も苞寿庵から出てくると、瀬羅様が言っていた。で、瀬羅様は、俺と二人で捕まえた呪術師から、何をしていたのか聞き出しているのだが、口を割らないと言ってたから俺もこれから瀬羅様のところへ戻る…。疲れているんだろう。隆鷗は、自分の部屋に戻って寝ろよ」


 しかし、隆鷗は、結局屋敷の廊下から離れず、そこで眠ってしまった。りんが運んできた夕餉の膳には手をつけていなかった。


 朝早くに、隆鷗は苞寿ほうじゅに起こされた。

 「おやっ…?こんなところで寝ていたら風邪を引きますよ」

 「苞寿様…」

 「隆鷗様、どうしましたか?」

 「あっ、いえ。いつのまにか寝てしまいました」

 「月子様が心配なのですね。屋敷の悪霊と接したと聞いてますが、すぐに駆けつけずに申し訳なかった」

 「いえ、苞寿様が一番心配だったので、苞寿庵にいてくれて、ほっとしています」

 「すぐに動けなくて本当に情け無く思ってます。苞寿庵を出ようとした時、瀬羅に止められまして…寺の状況もあまり分からず、今朝になってしまいました」

 隆鷗は、分かっていた。瀬羅が苞寿を苞寿庵にとどめる為に様々な手腕を振るったのだろう。

 「隆鷗様が悪霊を追い詰めたそうですね」と、苞寿が心配気に尋ねた。

 「あの悪霊は、まるではなっから月子様を狙っていたみたいでした。月子様は御霊みたま様と何か関係があるのでしょうか?」

 「そうですね。月子様の能力に関係があるのかもしれないです。何か気になることでもありましたか?」

 「竜古様の力を受け継ぐ者と、言ってた」

 「そうですか?竜古様の力を受け継ぐ者と…?」

 「はい。確かにそう聞こえました」

 「もし、身体が大丈夫なのでしたら、悪霊と接した時のことを詳しく教えて頂けませんか?」

 隆鷗は頷いて、苞寿にいつもそうするように、主観を入れず、ありのままの報告をした。

 「分かりました。それで、月子様は大丈夫でしたか?」と、苞寿が尋ねた。

 「月子様の中に入った、悪霊のモノは全て取り除きました。しかし、月子様の記憶が少し足りない。全て取り除いたつもりなのですが、何か見落としているのか…分からないのです」

 「足りない記憶…。隆鷗様、自分を追い詰めないで下さい。そういうことに詳しい者に心当たりがありますので、尋ねてみましょう」

 「有難うございます」

 「今日、本堂で皆んなの話しを聞きますが、隆鷗様の話しは伺いましたので、もう身体を休めて下さい」と、苞寿は隆鷗を気遣う。

 

 久しぶりに苞寿庵を出た苞寿は、本堂に皆を集めた。


 麓の屋敷を見張っていた陸が呼び戻され、隆鷗と、月子と登葱の世話をしている箭重やえ以外、本堂に集まった。

 昨日の行動について、苞寿が聞き取りを行った。

 

 隆鷗はその間も、屋敷の廊下から離れなかった。いつも月子がそうしているように、ぼんやり寺の庭を眺めた。

 本堂からかすかに皆の声が聞こえてきた。すごく響いているような気がする。それほど寺は静かだった。

 過ぎていく時の感覚がまるで分からない。ゆっくり過ぎているのか、刻々と容赦なく過ぎているのか。

 やがて、影近が寺の客間のひさしの下の廊下を飛び越え疾風の如く、屋敷の廊下までやって来た。

 「陸が面白いことを話したので、伝えに来た」

 そう言うと、影近は陸の話を始めた。


 陸は、麓の屋敷のことをこう話した。


 「わたしは、寺でそんな事件が起こっていると知りませんでしたが、おそらく同刻、屋敷がやけに静かで、覗いてみたら、男衆がいなかった。一人だけ確認しましたが、それは年老いた使用人だ。わたしは、これはいい機会だと思って忍び込んだんです。本当に屋敷はもぬけの殻のように静かだった。しかし、大広間のすぐ隣りの部屋で祓屋の女子おなごが眠っていたので驚きました。そこで屋敷の当主と鉢合わせになって、更に驚きました。万事休す…」


 本堂がため息に包まれた。


 「…かと思ったのですが、屋敷の当主は本物のうつけなのですよ。わたしの顔を見るなり、指を差して笑うんです。あっ、いつも覗いているわっぱだ!と。そして、楽しそうに家のことをいろいろ話してくれたのです」


 ほーうっ…と一同身を乗り出す。


 「祓屋の女子おなごはいつも眠っているそうなのです。病を患っており、目覚めることがない。そして、当主の娘はいつもぽかんと口を開け、何処を見ているのかさえ分からず、何も喋らず、ぼんやりしているだけだと。そして、なにやら霊が憑依すると言う。その時だけ祓屋の女子おなごと娘が動くと、そう言うんです。つまり祓屋の女子おなごも娘もただの憑代よりしろなのです。なにやら霊はいつも祓屋の女子おなごか、娘かのどちらかの身体に憑依している。昨日は娘に憑依していた。そして、何の目的か、この寺にやって来た。それまでは、祓屋の女子おなごの身体に憑依して、獣憑きの奥方を連れて、あちこちの集落で子供をあやめている。例の奥方は座敷の中で檻に閉じ込められていました。それについては当主は何も言わなかった。わたしは当主に聞いた。その霊とやらは何がしたいのだ?そして何モノなのだ…と。すると、あのうつけが笑いながら言うのです。あれは配下でわたしを守っているのだ…と。もう馬鹿らしくて…。あの屋敷は、悪霊の棲家です。人を操り、私兵までいる。本物の幽霊屋敷なのです。あんな屋敷放っておいてはなりません。すぐに祓うべきです」


 「驚いただろう?陸…忍び込んだんだぜ」と、影近がはしゃぐ。

 「えっ?そこ…。って、言うか、ここにいていいの?まだ、話し合いは終わっていないのだろう?」と、隆鷗は、はしゃぐ影近を嗜めた。

 「話し合いなんてクソ喰らえだ。隆鷗は直接見たんだろう。悪霊に取り憑かれた娘を。あれは、月子から隆鷗の記憶を抜き取った」と、影近が言う。

 「わたしだけの記憶を抜き取るなんてそんなことできるのだろうか?」と、隆鷗には信じ難い。

 「出来るとか出来ないではないんだ。月子の記憶には隆鷗の記憶だけがないんだよ。それだけのことだ。物事はいつも単純だ。お前、ここを動かず、ただすがっているようにしか見えないぞ。そんなに月子のこと好きなのかよ?」

 「うるさいよ。月子様のこと呼び捨てにするなよ!」

 「おっ…様」

 「遅いよ」


 影近が再び本堂に戻ると、隆鷗は、りんの部屋で休んでいる登葱を見舞った。しかし、登葱はまだ目覚めていなかった。その後、わりと勇気を出して、月子の屋敷に向かい登葱の様子を知らせようとした。


 月子の部屋には箭重がいた。月子は、元気だ。

 いつもは、少しばかり互いの存在を意識するあまり、口を聞かない月子と箭重だった。

 しかし、何故かその日は、虚空に浮かぶ文字の話しを興味深く箭重が真剣に聞いている。箭重は、虚空の文字の話を月子から直接聞くのは初めてだった。そこから、月子の都の話しを夢中に聞いていた。

 隆鷗が月子の部屋を訪れたのは、そんな時だった。

 月子は、昨日の赤い着物の少女のことを忘れたかのようだ。しかし、それは箭重の、月子への配慮であり、月子の、箭重への配慮であり、互いの気遣いだ。

 隆鷗の顔を見た途端、月子の顔が曇った。

 「えっ…?」

 月子は咄嗟に箭重の影に隠れた。

 「ねぇ、箭重さん、これはナニモノ…?」

 箭重もひどく複雑な表情をした。

 「えっ?何言ってるんだ?まだ混乱しているのか?まったく呆れたもんだ。月子様のことを誰よりも理解してくれるのは隆鷗じゃないのか?」と、箭重が言った。

 「えっ…?」月子が震え始めた。「何の話をしているの?」

 「私さぁ、昨日…見たわけじゃないから、あんまり分からないんだけど…似たような能力を持って、すごく理解しあっていたじゃない?そんな態度取るなよ。忘れていたとしても、そんなあからさまにするなよ」

 これまで盛り上がっていたのに、箭重の態度が一変する。

 「やめて……箭重殿」と、弱々しく隆鷗が言う。

 「分かっている。私は登葱様の様子見てくる…」

 「登葱様はまだ眠っていた」

 「今、それを言うのか…?いいから。隆鷗も来いよ。ここにいたら傷つくだけだ」と、箭重が隆鷗の腕を掴んで引っ張った。

 「分かっている。月子様が悪いわけではないことは…。でも…あんたが傷つくところはあまり見たくない」と、箭重が隆鷗を引っ張りながら、言う。どうやら登葱のところへ向かっているわけではなさそうだ。

 「私も、あんたのこと散々傷つけたからね」と、箭重が言った。

 そして、隆鷗の腕を離した。

 「でも…、私は本当に感謝しているんだ。だから、もう隆鷗には傷ついてほしくない」

 「えっ?わたしは箭重殿に傷つけられたと思ってないよ」と、隆鷗が言う。


 ここに来た頃、隆鷗より少し前に寺に来ていた箭重の存在にはしばらく気がつかなかった。

 しかし、箭重を初めて見た時、背後にいた真っ黒い霊に隆鷗は驚いた。箭重の背後にはずっと悪霊が憑いていると思っていた。

 しかし、その黒い霊から何一つ厭悪を覚えなかった。むしろ見た目とは真逆な守りびとのような慈愛を覚えた。

 隆鷗は、その違和感に黒い霊から暫く目を逸らすことができなかった。ずっと怯えたような、それでいて怪訝そうに見つめる隆鷗に箭重が苛立っていることも分かったいた。暫く箭重からひどくぞんざいな扱いを受けた。

 箭重が、影近に隆鷗の様子を打ち明けて相談した時、「あいつには悪霊が見えるんだよ。箭重にも悪霊が憑いているのかもな」と、影近は何の配慮もない返答をした。その夜、箭重は顔がぱんぱんに腫れるくらい泣き明かした。悔しかったのか?恐ろしかったのか?箭重が何故泣いたのか、誰も理解できなかった。


 そんなある日のことだった…。

 黒い霊が箭重から離れて、山林を駆け抜けて、隆鷗がいる離れの平屋ひらやまでやって来た。その姿はまるで人と変わらなかった。

 すごい必死な顔をしていた。

 その時、隆鷗ははっきりと黒い霊の顔を見た。悪霊とは程遠い慈愛に溢れた顔をしていた。こんなに必死に何かを訴えているのは、箭重の身に何かあったに違いない。と、隆鷗は本堂の庭に出て、影近の名を叫んだ。

 それに驚いて本堂から出てきたのは信蕉しんしょうだった。隆鷗は、箭重に憑いている黒い霊のことや、霊が何かを必死に訴えていること、箭重に何かあったに違いないと、慌てて伝えた。

 「箭重は最近、影近を見習って山林の何処かで剣の稽古をしている筈だ。屋敷の裏の山林で影近が稽古をしているから、おそらく影近なら分かるかもしれない。先に行ってくれ、わたしは足が遅いゆえ…」

 信蕉の言葉で隆鷗が先に走った。その時、信蕉が叫んだ。

 「それは、箭重の母上だ。箭重の母上は大火の中、自分が燃えているのも構わず、必死で箭重を助けて、亡くなったと聞いている」

 信蕉の言葉を背中で聞いた隆鷗は、すごく腑に落ちた。

 そして、隆鷗は、影近の名を叫びながら、山林を駆けた。すると、いつのまにか影近が隣を走っていた。

 「分かっている。箭重に何かあったのだろう。俺には分かる。場所も分かる。多分山犬か何かが集まっている…俺はもっと早く走れるから先に行く。とにかく俺の行く方向だ。付いて来い…」

 隆鷗は、この時から影近には、何か先のことが分かる特別な能力があるのだろうかと感じていた。

 山犬に襲われるギリギリのところで影近は、飛び蹴りの一撃で箭重を救った。そして、強い闘気を放つと、集まった山犬が一斉に仔犬のように吠え逃げ惑った。

 隆鷗は、影近が英雄のように見えた。


 「あの頃、剣が達者な兄様が羨ましくてね。だって瀬羅様も至誡さんも全然兄様には敵わないのだもの。だから私も強くなりたくて、兄様の真似して、一人山林で剣の稽古していたんだ。あの時、誰にも内緒にして、山林で剣の稽古をしていたのに、何で分かったんだろうと不思議に思っていたら…、あんたが、君の母上が必死で教えてくれたんだ…って。私本当に涙がとまらなかった。あんたが、私を守っている母上をいつも見てくれてるんだと思ったら、それだけで嬉しいんだよ。本当に感謝しているんだ。あんたには辛い思いしてほしくない。だから暫く月子様には会うな!」と、言って、箭重は、平屋の前に隆鷗を置いて行った。


 あの時…。

 後から辿り着いた信蕉にかかえられた箭重が、信蕉に尋ねた。

 「なんでここにいると分かったの?」

 「隆鷗に聞くといい」と、信蕉に言われた箭重が振り返って隆鷗に尋ねた。

 「君の母上様が必死で山林を走って、わたしに知らせてくれたんだ。いつも母上様は君の後ろで、守ってくれている守りびとなんだよ」と、隆鷗は答えた。

 すると、箭重が怒鳴った

 「何言ってるの?あんた馬鹿じゃない。頭おかしい。馬鹿がうつるから、二度と話しかけてくるな!ばーか」


 その言葉を思い出した隆鷗は、ぽつりと呟いた。

 「感謝してたのか…?」

 

 あの頃、まだ箭重の存在すら知らなかったのに、箭重に散々虐められ、そして、感謝されるまでになった。それくらい時が過ぎてしまったのだ。


 長い1日が過ぎてゆく。

 麓の屋敷に逃げた悪霊は、何も恐れていないのか?平気で寺の足元にいる。


 舐められたものだな…。

 隆鷗は怒っていた。


 だが、翌日、そんな隆鷗を嘲笑うように、再び少女に憑依した悪霊が姿を現した。

隆鷗の記憶を無くした月子は、ふたりの未来を大きく変えてしまった。


次回「さよなら月子様 後編」

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