人か化け物か…?
寺の最悪な1日が始まる。
月子を見つめる闇…。隆鷗、影近が…闇に挑む!
朝餉はいつになく賑やかだった。
台所の板張りに置かれた朝餉の膳のなかに無名とチビすけと双子の分が置かれたことを、えらく無名が喜んではしゃいだ。
影近がいちいち無名に反応して、同じようにはしゃぐ。その隣りで陸がむすっとした顔で食べていた。
朝餉の支度をしたのは瀬羅だ。瀬羅の朝餉は美味い。よく町に出かけるからか、情報が豊富だ。新しい料理が並ぶ。至誡や燐の時のように、麦飯と汁物、菜物、漬物が繰り返されるだけではなかった。魚、肉、時には果物や蘇まで登場した。時々瀬羅は、ここが寺であることさえ忘れているのではないかと思うような料理を出してくるが、皆わりと楽しみにしていた。
今朝の朝餉には唐菓子まで膳に乗っていた。
「あれっ?至誡様、今日は食欲がないの?」
突然の瀬羅の言葉に皆の視線が至誡に集まる。
その時、隆鷗は、ふっと、至誡の眼孔から黒い煤のようなモノがほろりと飛び散りふわりと消えていったように見えた。錯覚だろうか?
「あれっ、全然食べていないな…?粥でも作りましょうか?ここのところいろいろあって、心配事が増えるばかりだ。信蕉様になんと報告するか、困っているのでしょう」と、瀬羅が言う。
しかし、至誡は俯いて、「いや、大丈夫だ…」と、言った。
「至誡さんはこの子らがここで食事をするのが気に入らないだけだ。この子らをどうやって追い出すか思案中なのでしょう」と、陸が小声で言う。
そんな陸の言葉で一瞬空気が重くなった。
しかし、影近は周囲の重い空気など気にしない。
「朝餉が終わったら、庭で剣の稽古でもするか、無名、チビすけ」
「だったら、双子も連れて行ってよ」と、箭重が言う。
「おいおい、双子はないよ。名前、何て言うんだ?」と、影近が言う。
「何も喋らないの」と、箭重がしょんぼりと言う。
「そうか。仕方ないな。箭重が名づけてやればいいだろう」と、影近が言った。
「そうだね」
箭重が隣りに座っていた双子のひとりの頭をさすりながら、考え込んだ。
「影近様、遊ぶのはいいが、庭では一応警戒は解くなよ。陸様は今日はどうするんだ?」と、瀬羅の表情が変わった。
「ああ、瀬羅さん。わたしは暫くあの屋敷を見張るよ」
「気をつけろよ」
だが、瀬羅は隆鷗には何も言わなかった。
その後、皆黙り込んだ。自分の役割を認識したので、今日1日の行動を頭の中で想像していたのだろう…。
そんな時、ぽつりと燐が呟いた。
「信蕉様いつもいないですね。こんな時にもいないなんて…。なんでだろう」
燐の言葉がまるで合図となったかのごとく、皆、それぞれ膳を片付け始めた。
燐は不満そうな顔をしたが、黙って膳を片付けた。
月子と登葱は、屋敷で朝餉を取っている。
台所の片付けが終わると、隆鷗は、月子がいつもぼんやり庭を眺めている、屋敷の庇の下の廊下へ月子が出てくるのを待った。
昨夜、元気がなかったので、心配だったのだ。
本堂の庭では、早速影近が無名とチビすけを連れて剣の稽古に取り掛かろうとしていた。少し後から箭重も双子を連れて庭に出て来た。心なし双子の顔にも表情が分かるようになった。
月子はなかなか廊下に出て来ない。
隆鷗は、首を長くして月子の部屋の方を見て、キョロキョロした。廊下から月子の部屋は見えない。それは分かっていた。
「月子様」と隆鷗は呼んだ。
その声に反応したのか、屋敷の中に足音が響いた。
やがて月子が顔を出した。
「隆鷗君…。待っていてくれたの?」月子が微笑した。
「…君?…様じゃなくなった」
隆鷗は聞こえないような声で呟いた。なんだか、嬉しいような照れ臭いような感情が溢れ、月子の顔をまともに見れなかった。
「あれっ!影近殿は早速、子供たちと遊んでいるのね。穏やかな光景」と、月子は影近と箭重を見ながら、ホッとしたような顔をした。
「昨夜、元気がなかった。ちょっと心配だった。都でなんかあったの?」と、隆鷗は尋ねた。
「うん…。いろいろあった。でも心配しないで。都には修行で行っているから、いろいろあって当然だと思うの。苞寿様にはきちんと報告しているから隆鷗様には心配かけたくないわ」
…様に戻った。と、隆鷗はがっかりする。
「隆鷗君はどうだった。霊を見る力、高めた?」
おぅ、…君!
「わたしは特に修行などしていないから…でも…」
昨日は、影近ばかり話していたので、話せなかった麓の屋敷を覆う闇のうねりの様子を全て話した。
ひとつひとつ丁寧に聞く月子。隆鷗の、そうした話しを誰よりも真剣に聞いてくれるのは月子だった。月子には多くの言葉はいらない。すぐに理解する。
「我も見たい。後で一緒に行かない?隆鷗君が見える世界と、我の文字を合体したら、もしかしたら真実が分かるかもしれない」と、月子が提案する。
「なるほど、御霊様の名を見た時みたいに…」
…君。隆鷗は小さく呟く。
月子とはなかなか話せなくなったので、隆鷗もつい気持ちが浮き立ってしまう。昨夜はしゃいでいた影近の気持ちがすごく理解できた。
しかし、そこに登葱が来て、隆鷗の、心浮き立つ時も終わってしまった。
「月子様駄目ですよ」と、出し抜けに登葱が言った。
「何?何が駄目なの?」と、月子が尋ねる。
「昨日、瀬羅様から言われたじゃないですか?今は警戒して、寺の様子を見ていて下さい…と。私も、ちょっとおかしなことが起こっていると思いますよ。なんか嫌な予感もしますし」と、登葱が言う。
「だから何が駄目なのですか?」と月子が苛立つ。
「分かっていますよね。寺を出たら駄目だということです」と、登葱。
「また…盗み聞きですか?」
「また、人聞きの悪い。聞こえただけですよ」
「うそばかり。赤子はいいの?朝からずっと放ったらかしですよね」
「それが至誡様に頼んでいるのだけど、朝からずっとおとなしく眠っているのよ。珍しい」と、登葱がホッとした顔で言う。赤子はずっと泣きっぱなしだったので、登葱の顔にも疲れが見え始めていたところだった。
「至誡さんに頼んでいるのですか?」と、隆鷗が話しに入る。
「隆鷗様。お話しのところ遮ってすみませんでした。ええ、朝餉の前くらいから、私の身体を気遣ってくれて、赤子は見てるから月子様とゆっくり朝餉を取って下さいと仰って頂いたのですよ。至誡様は本来お優しい方なのです」と、登葱が微笑んだ。
しかし、至誡は皆と朝餉を取っていたが、赤子を心配する様子はなかった。
隆鷗は、至誡のことが気になった。
「至誡さんって、なんか変わったところはなかったですか?」と、登葱に尋ねた。
「いいえ、まったく。どうかしましたか?」と、登葱が尋ね返す。
「いいえ何でもないです」
そう言うと、隆鷗は、月子の元を離れた。
台所から繋がる渡り廊下から寺の中に入った隆鷗は、至誡の姿を探した。確かに燐の部屋に寝かせたままの赤子の泣き声も声も聞こえない。静かにしている。部屋は閉められていたので、通り過ぎて至誡の部屋まで進んだ。
「至誡さん、いますか?隆鷗です」と、声をかけた。しかし何の返事もなく、静まり返っていた。
静かだ。あまりにも静まり返っている。まだ、朝餉を終えた時刻だというのにどんよりと薄暗い廊下で隆鷗は、何故か厭悪感を覚えた。身体中に覚える不快な空気の歪み。痛みさえ感じる。時折、意識がぼんやりする。曖昧ですっきりしない意識のなかで御簾を通り抜けて客間に入った。更に息苦しさを覚え、新鮮な空気を吸う為に外の廊下へ出た。
何だ、この感じ…?
隆鷗は、息苦しさとぼんやりした視界のなかで子供たちに混じった、やたらに赤いモノを見つけた。
あれは何…?
庭に響く影近の声。剣の稽古を繰り広げる威勢の良い声。それに続く、影近を真似た無名の掛け声。箭重の笑い声。いつもの日常より賑やかな庭の光景。
隆鷗が去った後、月子はまだ、屋敷の庇の下の廊下からそんな庭の光景を眺めていた。
「あれは何…?」小声で月子が呟いた。
その言葉が聞き取れず、登葱は月子の顔を見た。
「何か仰いました?」
「登葱には見えているかしら?」と、月子の声が震えている。
「えっ…?何がですか?」
登葱は月子の視線の先を見た。
「おやっ?また何やら新しい子供が勝手に入って来ましたね。次々と…。ここは口減しの最後の砦ではないのだけど…」
月子が震えた口調で呟いた。
「登葱にも見えているのですね」
「月子様、どうかなさいました?なんと顔色が真っ青ですよ?」
「登葱にも見えるのですね」月子は繰り返し尋ねた。
「どうしたんですか?何のことですか?」
「あの…赤い着物の女子…が…見えているのですね」と、月子の震えが止まらない。
「いったいどうしたのですか?見えていますとも。あの子供がどうしたというのですか?」と、登葱が驚いて尋ねる。
「分からない。我にはあれが物怪のように見えるのです。だけど、登葱にも見えているのであれば、あれは人間なのですね」と、震えながら月子が言う。
「私には普通の子供のように見えていますが、月子様にはどのように見えているのですか?また文字が見えているのですか?」と、登葱が尋ねる。
「分からない…。呪いのようなくねくねしたものが驚くほどに…たくさん。赤い女の子に纏わり付いている。あれは何なの?」
赤い衣を着た少女は、剣の稽古をしている無名のすぐ後ろに立っていた。
すぐ傍ではしゃいでいる無名も、チビすけもまるで見えていないように、普通に剣の稽古をしている。それが月子には異様な光景に映る。
「隆鷗様は何処に行ったの?」と、月子が尋ねる。
「隆鷗様…何処に行ったのかしら…?呼び戻した方がいいですか?」
月子は黙ったまま、ただ庭の方を食い入るように見ている。
登葱はただおどおどした。
「月子様、大丈夫ですか?隆鷗様を呼んで来ますが、月子様が心配です」
「隆鷗様なら分かるはずです。あの女子のことが」
「あらっ…隆鷗様、寺の客間の廊下にいますよ。すぐに呼んで参ります」と、心配そうに登葱が言う。
「あれは…本当に人なのか…隆鷗様に、あの女子がどのように見えているのか…」月子が震えながら言う。
「分かりました。月子様の言葉を伝えて呼び戻してきますので、月子様は絶対、何もしないで下さいね。絶対ですよ」
登葱は、急いで隆鷗の元に向かった。
無名のすぐ後ろに立っている赤い着物の少女は、辺りをゆっくり見回すと、少し距離がある屋敷で視線を止め、そこに座っていた月子を見た。
少女が俄に笑った。
そして、影近は、寺の客間の廊下からこちらを見ている隆鷗の唯ならぬ異様な表情を見ていた。
「箭重…」影近は囁くように箭重を呼んだ。
箭重は、じわじわと赤い着物の少女から双子を遠ざけていた。
「双子と、無名、チビすけを連れて離れの平屋に行け…。そして、隆鷗の部屋から青い刀を持って来て隆鷗に渡せ。その後はこの子らを守れ」
影近は、そう箭重に告げると疾風のごとく去った。
隆鷗は、ゆっくりと呼吸をする。
視界を埋め尽くす、真っ黒いうねる闇の真ん中にいる真っ赤な少女。
感じたことのない危険な尖った空気を放出し続けながら、少女は月子を見ている。
うねる闇のなかには子供たちを取り巻く不幸な死を呑み込み、闇を巨大にしたのか?幾人もの子供の霊が悪霊と化し、その中心にいる少女が呑み込む。少女に宿る悪霊の正体を見極めるのはひどく困難だ。
隆鷗は、立っていることもできず、両脚を震わせていた。倒れることなどできない。脚にぐんと力を入れていたが、暫くの間動くことも出来ず、ただ少女を見ていた。
赤い着物の少女がゆっくりと屋敷へと歩を進めた。
「まさか…月子様のところへ行くのか?」隆鷗が呟く。
登葱の掌が隆鷗の腕を掴んだ。
「隆鷗様、大丈夫ですか?お倒れになるのかと思いましたよ」
「登葱様…。登葱様、今すぐ戻って月子様を屋敷の奥へ…そして月子様を守って下さい」と、隆鷗が言う。
「あの女子ですね。月子様がすぐに戻って来てほしいと。すごく怯えています。あの女子には呪いのようなくねくねした文字が、恐ろしくたくさん纏わり付いていると、月子様にはあの女子が物怪に見えると…」
「分かりました。わたしも月子様のところへ戻るつもりでしたが、動けずに…」
その時、燐の叫び声が聞こえた。
その声は寺の中の燐の部屋の方から聞こえきた。
登葱が叫んだ。
「燐殿、何があった」
すぐに足音が響いた。燐がすごく慌てている。
燐が涙を流している。
「登葱様、登葱様…!赤子が…赤子が…」
「燐殿、慌てずにゆっくりと。どうしたのですか?」と、登葱が尋ねた。
「赤子の口の中に小石がいっぱい詰められていて、赤子は呼吸ができずに…、すでに亡くなっているのではないかと…」と、燐が言う。
登葱が呆然とする。
「登葱様…。すぐに来て下さい」燐が言う。
「分かりました。隆鷗様、月子様をお願いしてもよろしいでしょうか?」と、声を震わせながら言うと、登葱は慌てて客間の奥へと駆けて行った。
入れ替わりに箭重が来た。
「兄様に頼まれた」と、箭重は、隆鷗に青斬刀を手渡した。
青斬刀を手にした隆鷗は、確かに感じた。これまでに明確に感じたことなどなかったが、いつも力をもらっていると思ってはいた。だが、今、はっきりと感じた。
青斬刀から湧き立つ力が隆鷗に雪崩れ込んできた。力が入らない脚に力が漲る。
やはり青斬刀から力が送り込まれている。
「父上、兄上」と、隆鷗は呟いた。
隆鷗は、月子のところへ行く前に赤子のところへ向かった。
燐の部屋へ行く途中、もう一度、至誡の部屋の前で声を掛けた。やはり、返事はない。燐の部屋から登葱の叫び声が聞こえていた。登葱は何度も、自分で名付けた赤子の名を呼んでいる。
しかし、隆鷗には、まだ、そこにとどまる不快な空気の歪みを感じていた。
勢いよく隆鷗は、障子を開けた。
そこには、壁に寄りかかりへらへら笑う至誡がいた。その眼孔から細かな黒い煤のようなモノが漏れていた。そして外気に触れると消えていった。
「至誡さん、何故呑まれた?」隆鷗が尋ねた。
至誡が隆鷗をぼんやり見つめた。
「呑まれる…?」
「至誡さんですね。赤子を殺めたのは?」
「殺めた?」
そう呟くと、一瞬、至誡から表情が消えた。そして突然叫んだ。
「わたしは知らない。殺めていない。わたしではない!殺めてなどいない!」
「谷虎殿も闇に呑まれたがゆえ、苞寿様は破門にした。ここにいる者は闇に呑まれてはいけないのです。闇に呑まれるような心の持ち主では務まらないのです」
至誡が泣き叫ぶ。
隆鷗は、青斬刀を抜き、至誡の瞳に近づけた。青斬刀が震える。そして、至誡の眼孔にとどまる澱む闇を吸い取っていった。
すっかり闇が吸い尽くされてしまうと、至誡は蹲った。
「隆鷗様、わたしを斬って下さい。隆鷗様が仰る通り、わたしは呑まれてしまいました…」
「それは自分で解決して下さい。今は一刻の時もないんだ」と、隆鷗は言った。
その頃、影近は、苞寿庵がある位置にいた。影近には苞寿庵は見えない。しかし、感じる。そして、その周辺に隠れている、剣の修行を積んだ者たちがいる。だが、影近には、その者たちは大したことはないと感じた。
しかし、ひとり、異質な何かを感じる者がいる。
影近が感じ取っていた異質な感覚は、隆鷗や月子でないと分からない類いの者かもしれない。
しかし、見えていないが、この付近の何処かに苞寿庵がある。そして、そこには、おそらく苞寿と瀬羅がいる。
守らなければならない、大切な人だ。
影近は、奇妙な動きをしている男を見つけた。
その男は、樹木が少ない、ぽつりとできた小さな平地に奇妙な図形を真っ黒い水で形取っていた。
真っ黒い水は、甕から、掌を突っ込んで、無造作に地面に垂らしている。もしかしたら血ではないか?腐った厭な匂いがそこから漂ってくる。奇妙な図形は円を描いている。呪術に使われているような陣…?呪術師か?
結界に干渉させ、崩壊させようとしているのか?
影近は、ゆっくりと男の傍に歩み寄った。
周囲に潜む者たちが影近と同時に動いた。この男を守っているのか?
影近が勢いをつけて男に斬りつけた。周囲に潜む者たちは、影近の瞬発力には敵わない。しかし、男は、間一髪のところで影近の剣を避けた。
一瞬に五名ほどの男が出て来て、呪術師と思しき男を囲み、影近から守った。男たちは、呪術師が描いた陣を避けている。
「なんだその陣は?」と、影近が言う。
ほぼ同時に五人の男が影近に飛びかかって来た。しかし、次々と男たちが地面に倒れるまで、然程の時はいらなかった。
すぐ傍でも攻防が繰り広げられていることが分かった。
影近は、一瞬その方向を見た。だが、視界が白い霧のようなもので遮られ、よく見えなかった。しかしすぐに、その方向から瀬羅が現れた。
一緒に戦ってくれたんだと、影近は思った。
「影近様、駆けつけてくれてたんですね」と、瀬羅が言う。
「瀬羅様も、戦ってくれていたんですね?」
「ああ、二人倒した。影近様は…」
「五人だ。だが、一人奇妙なやつがいる。そこで地面に陣を書いていた。そいつを守っていやがった」
「そいつは何処だ…?」
「そこで震えていやがる」
瀬羅は、呪術師と思しき男を捕らえた。
「他のやつらは斬ったのか?」
「斬った…」
「そうか、そしたらその男は生け取りだな。何をしようとしていたのか吐かせないと…」
「瀬羅様、ここにいるのは八人だ。俺が感じていたのは九人。一人、何処かにいる」
「えっ?影近様でも分からないのか?」
「すまねぇ。分からない。森の中を駆け回って逃げているのなら感じるんだが…、何も感じない」
「影近様でも感じないのか?どういうことだろうか?取り敢えず、この男を苞寿庵の裏の洞窟に閉じ込めるのが先だな」
「苞寿庵…?洞窟…瀬羅様、わたしには見えない…」と、影近が言う。
「そんなもの見えなくたって、何の問題もない」と、言うと、瀬羅は小声で影近に耳打ちした。「実は苞寿庵は目の前だ。この男、苞寿庵の玄関先で怪しげな陣を描いていたんだ。こいつが何をしようとしていたのか?しっかり聞き出すことが今回の騒動の真実へと繋がる。そいつは先生とわたしに任せて、影近様は残りの一人の捕獲をお願いします」
瀬羅は、そう言うと、呪術師を連れて、濃い霧の中へ消えていった。
影近…箭重…子供たちの姿がいつのまにか見えなくなっていた。
庭に残された少女は、ただ月子を見ている。
朝の、少し上向きの陽射しがいつものように寺を包んでいた。
すごくゆっくりだが、少女が、屋敷の廊下に座っている月子に歩み寄っていた。
歩み寄るたびに、呪いのようなくねくねした文字が気味の悪い動きをする。
この女子には、いったい何が憑いているのだろうか?隆鷗様なら分かるかもしれない…?我には分からない。
少女は、まったく少女らしからぬ、滑らかで妖艶な動きをして、その表情はやけに大人びていた。
月子は次第に、少女に圧倒される。それは恐怖を感じているからだと知った。
「お前様は、竜古様の力を受け継ぐ者なのか?」と、少女が言った。
月子は、少女が何を口にしたのか理解できなかった。
「ふぅーん、随分弱いのだな」と、少女が言う。
月子は、ただ黙って少女を見つめた。
「そんなに弱いお前様が竜古様の力を受け継いだのか?それはいささか問題だな」と、少女が笑う。
少女は、月子が座る廊下まで歩を進めるつもりなのか、止まろうとはしない。距離が縮まるたびに、少女が放出している呪いのようなくねくねした文字が増えていくような気がした。そして、次第にその範囲が広がっていく。
月子は、このままではまずいと思った。
「私から提案があるのだが、聞いてくれるかな?」と、少女が唐突に言う。
まるで、その文字が月子に触れようとしているようだ。
提案…?
「何をぼんやりしているのだ?お前様にとってもいい話しだ」
少女は、五歩ほど離れたところで立ち止まった。
「其方は誰だ?我は其方が何者なのか一向に分からぬのに、先程からいったい何の話しをしている?」
月子がかすかに震えながら尋ねた。
「ほぉう…震えているのか?愚かしいと言うか、残念な話ではないか。この時代の、竜古様の力を受け継ぐ者がこのように脆弱な者とはなぁ。いよいよ竜古様の力も尽きてしまうのだな。それはそれで見ものだが。お前様は竜古様の力を途絶えさせた汚名を背負うことになるやもしれぬぞ」と、少女は高笑いする。
「其方はいったい何者だ?何故勝手にここに入って、訳の分からないことを喋っているのだ!」
少女は、月子の言葉を無視して、自分の話しを続けた。
「お前様は数々の名誉を遂げた御霊様と、祖霊様に泥を塗ることをするのだ。御霊様と、祖霊様に続く大勢の弟子がお前様を許さないだろう」
少女の言葉に月子は、わけの分からないまま涙を流した。
「そうなりたくなければ、その身体を私に捧げよ。わたしの力でお前様を祖霊様のなかで最も強くしてあげられるのだ」
そう言うと、少女の呪いの文字が月子のところまで伸びてきた。
月子は、抗った。しかし、恐怖と緊張のために身体が硬直して、動けない。
やがて呪いの文字が月子の身体に纏わりつき、ぐるぐると、締め付け始めた。
「何をする」月子は叫んだ。涙が取り止めもなく溢れ出てくる。
何故、抗えない?何だ…竜古様の力を受け継ぐとはどういう意味だ…?
月子の意識が朦朧とする。
その時、隆鷗の青い刀が月子に纏わりついている呪いの文字を斬った。
月子と隆鷗の人生が大きく揺れ動く。
次回「さよなら月子様 前編」




