うねる闇
寺に逃げて来た兄弟の弟は獣憑きの被害にあっていた。隆鷗は、全ては、麓の屋敷を支配しているという祓屋が引き起こしていると考え、屋敷へ向かった。
果たして、隆鷗は屋敷で何を見たのか…?
そして、都から戻ってきた月子が隆鷗を訪れた。影近も加わり会話も弾む…。
影近の感知能力…研ぎ澄まされた五感は…
極めて凄惨なものを目の当たりにしたことで心の均衡が保てずに崩壊。思考、感情、欲望、おおよそひとを司る精神が削がれ、感覚だけが残された。しかも他が削がれていたことで、より鋭敏な感覚となっていた。そして、影近は、強靭な生命力で再生を成し遂げ、その感覚を更に研ぎ澄ませ、確かなものとした。どんなに些細な、細かい動きでも、粒子ほどの細かな世界のなかで、まるでお祭り騒ぎを聞き分けるほど簡単に感知できる感覚を獲得したのだ。
瀬羅が言う。
瀬羅が離れの平屋に避難して来た夜、皆が寝静まった頃、眠れない隆鷗は、開け放した蔀戸からぼんやりと月を眺めていた。板張りで寝ていた瀬羅が匍匐前進して隆鷗の傍に寄ってきた。
「影近様は、御両親と妹君の無惨な姿を見た後、暫くぽかんと口を開いたまま、何も見ず何も聞かず何も思わず何も食わず…本当に救いようのない有様だったんだ。すぐには寺に連れて来ることができず、暫くの間先生の末弟が面倒を見ていた。影近様の五感の鋭さに気づいたのは末弟だった。それから鋭い五感を損なわず、更に研ぎ澄ませ、影近様の再生をずっと手伝っていた。先生の末弟は本当に優秀な方なんだ。それに耐えた影近様も本当にすごいよ」
瀬羅が続けた。
先生の末弟…?
「皆、辛い思いをしてここにいる。だから隆鷗様は孤独ではないんだよ…」
瀬羅が何故そんな話しをしたのか分からない。しかし、聞いて良かったと、隆鷗は思った。
開けた山道を隆鷗は、急いで降りていた。
陸が信蕉に侵入者の男の正体を報告した日から、随分長い日々が過ぎた。
平和な日々だった。
月子にいろいろなことをいちいち相談される面倒くささも、何かとちょっかいをかけてくる影近に振り回されたことも、悪くはなかった。
そんな日々が長く続くことを、何処かで願っていた。
山を降りた隆鷗は、山沿いの畦道をなるべく山寄りの、茂った林の方を歩いた。屋敷の場所は分かっていた。何度も山の中腹から見ていたからだ。しかし、中腹から眺める風景と地上で見る風景は想像していたものと違う。
屋敷まで来るのに然程時はかからなかった。ただ、陸の報告通り、周囲の樹木が生い茂ってところどころ視界を遮り、屋敷全貌を見ることができなかった。
しかし、明らかに、違和感があった。
樹木に覆われ、日差しが遮られているために屋敷と、その周辺はやけに暗く感じる。だが、明らかに、それは周囲を覆う樹木の影ではなかった。闇を纏っている。
隆鷗は、ゆっくり近づいていく。
よく見ると、闇がうねっていた。ゆっくりと一方向に流れるようにうねっている。そして、上へ上へと視線が導かれていく。上へ上へ更に上へ…。
隆鷗の緊張感が高鳴る。上へ上へと導かれたその先は、山の中腹…いや、更に延びると御霊様の墓まで辿り着く。
えっ?どういうこと…?
侵入者の背後の黒い影が谷虎の身体と一筋の長い影で繋がっていたのを見て、咄嗟に谷虎が操られていると連想できた。そして、それが連想通りだと分かっても、その瞬間は連想したことなど忘れている。たった一瞬で多くのことを考えていたのだ。
あの屋敷が纏う黒煙のような闇は、うねりながら上へ上へとくるくるとゆっくり回転しながら登っていく。そして、更に細くなっていく。まるで龍のようだ。
隆鷗は、大きな樹木の影に隠れて、時が流れているのも気づかずにずっと見ていた。
そこに、瀬羅が声をかけてきた。
「隆鷗様…」
その声に驚いた隆鷗は、咄嗟に振り返り瀬羅を見た。
「瀬羅様…?どうしてここに?」
「あぁ、まだ陸様と麓を調査している。噂の出何処はなかなか尻尾を掴ませてくれなかったが、どうも水面下で屋敷が動いている」
「動く?」
「動いているよ。どうも獣憑きとやらが…。各集落で子供が被害に遭っている」
「子供が被害に遭っているって…?噛みつかれたりしているの?」
「そうだな。噛みつかれるくらいだったらましな方かもな。放置された大量の血痕を幾つか見つけたんだが、噛みつかれたくらいではおさまりそうにない大きさだった。しかも今もまだ続いているのではないかと懸念しているよ」
「そうだ!影近君が言っていた寺に紛れ込んだ子供を至誡さんが捕まえたんだ。兄弟だったんですけど、その弟が太腿を噛みつかれていた。兄は、弟が喰われそうになったと言ってました」
「そうか。しかし獣憑きとは言え、女子だよな。憑き物とは本当恐ろしいな。それにしても…、赤子といい…」と、瀬羅は考え込んだ。
「もうひとつあります。今朝、幼な子を連れた母親が寺に押し入って、幼な子を二人置いていきました。双子だった」と、隆鷗は、考え込んでいる瀬羅に告げた。
「えっ?なんだそれ…。いったい何が起こっているんだ?」と、瀬羅はますます考え込んだ。
隆鷗は、瀬羅が考え込んでいるので、邪魔はしなかった。それに屋敷の闇のうねりも気になる。
龍のような闇のうねりはゆっくりとゆっくりと上昇していく。もうすぐしたら中腹の寺に辿り着きそうだ。
あれが寺に辿り着いた時、いったい何が起こるのだろうか?
今から寺に戻ってもとても間に合わない。瀬羅様に話してみる?こんな話し信じてもらえるだろうか?それとも屋敷を襲撃する?
無理だ。
「ところで隆鷗様は何を見ているんだ?わたしは、ずっと向こうの集落から戻ってくる時に隆鷗様を見かけたんだが、ここに辿り着くまでずっと同じところを見ていた。あそこからここまで一刻以上はかかると思うんだけど…。ずっと同じところを見ているよね。何を見ているんだ?」と、瀬羅が不思議そうな顔をして尋ねる。
「あっ、いえ…すみません」と、隆鷗は迷っていた。こんな話し信じてくれるはずもない。しかし、月子様も影近君も信じてくれた。苞寿様だって、この能力を認めてくれた。
「わたしは寺に戻るけど、何か伝えたいことある?」
瀬羅の言葉に隆鷗は焦った。
あの闇のうねりに何の意味があるのか、分からない以上、見たままを説明したとして…瀬羅様がそれを信じてくれたとしても、どう解釈するというのか…?分かるはずもない。徒に混乱を招くだけではないのか?
「隆鷗様、どうも今は警戒を怠ってはいけないようだ。わたしはすぐ苞寿庵に行って、先生に報告して、警戒を固める。影近様には山林の様子を事細かに探ってもらう。そして、月子様が戻って来たら、暫く都に行かないようにしてもらって、不審な言葉を探してもらうようにお願いするよ。だから、隆鷗様…。あなたは自分の仕事をしっかりやって下さい」と、瀬羅が言った。
隆鷗は一瞬驚いた。何もかも察してくれたような口ぶりだった。
「わたしの仕事?」
隆鷗がそう呟いた時には、瀬羅はすでに背中を見せて去っていた。
再び屋敷の、うねった闇を見たら先端の龍はいつのまにか山の中腹を過ぎ、更に登っていた。
「やっぱり御霊様の墓の方か…闇の世界の住人が隠り世の住人に何の用があるという?」
行先が墓なら、ある程度その目的を絞れるかもしれない。
「わたしもすぐに苞寿庵に行かねば…」
しかし、闇のうねりは、頂上の、御霊様の墓の途中で不自然に方向を変えた。ゆっくりと渦を巻いていたが、渦が壊れるように左右上下と不規則な動きになった。まるで進む方向が分からなくなって迷い始めた。
もしかしたら、苞寿様の結界が阻んでいるのかもしれない。
隆鷗は、闇のうねりの出鱈目な動きを暫く眺めた。苞寿の結界は厚い。
そう確信すると、急いで、寺に戻って苞寿庵に向かった。
寺は、静まり返っている。陽射しも随分傾いてしまった。
地上から見た闇のうねりを寺の平地から見ると、随分大きく感じた。まだ先程の動きを繰り返していたが、動きが激しくなっていた。
ぐわんぐわんと音が聞こえてきそうなほど、目に見えない壁にぶつかっているように見えた。ひどく怒っている。ぶつかるたびに細かく砕け散って、破片は消えていく。
隆鷗は、焦った。早く知らせないと、落ち着かない。
きっと、苞寿様はこうした不安な気持ちを落ち着かせてくれるだろう。と、隆鷗は信じて疑わない。しかし、裏庭から山林へと足を踏み入れると、濃い霧が出ていて、すごく歩きにくい。しかも奥へ進むほどどんどん濃くなっていく。
苞寿庵は、その姿を隠すために苞寿が結界を張っていると、随分後になって月子から聞かされた。
「でも、君はどんどん進んで行ったけど、結界なんて全然気にしていなかったよね」と、隆鷗が尋ねると、月子は不思議そうに言った。
「我にも分からないのですが、苞寿庵から不思議な形をした文字がまるで我を迎えに来るようにふわりふわりとやって来るの。だから我はその子らに導かれるまま歩いて行く。すると苞寿庵に出会う…。でも、隆鷗様は、違和感なく苞寿庵に辿り着いたじゃない?強いて言えば霧が出てることしか言わなかった。難なく苞寿様の結界を通り抜けていたでしょう。苞寿庵には誰も辿り着かないって、皆言っているけど、隆鷗様には普通に見えているのだと思ったわ」
この濃い霧が苞寿庵の結界と関係しているのだろうか。と、隆鷗は感じた。
しかし、あの時のようにやはり苞寿庵の姿を普通に見ることができる。他のひとの目には、この苞寿庵がある場所はどのように映っているのだろうか?
「驚いたな。本当だ。隆鷗様は先生が招待しなくてもひとりでやって来た。これにはどんなからくりがあるのだろう」と、隆鷗の訪問に驚く瀬羅。
「先生の招待とは、どういうことですか?」と、隆鷗が尋ねる。
「ここに入るのには、ちょっとしたコツがいる。先生にしか分からない異様に複雑な結界術なんだ。先生に修行をしてもらった者のなかでも、特に結界術の修行を受けたひとでなければ、それは出来ないんだ。でも隆鷗様はそうではないよね。不思議だな」と、瀬羅がたいそう驚いて、言った。
苞寿庵は、広い板張りの間に、書籍棚で四方八方が仕切られている。書籍棚には無数の巻き物と、冊子本でびっしり埋められていた。
苞寿は、いつも奥の上座で小さな茵に座り手前に大きな机を置いて、たくさんの巻き物と冊子に囲まれて読み物をしていた。
隆鷗が来ると、苞寿は、読んでいた巻き物をたたんだ。
「どうしました?」と、苞寿が尋ねるので、隆鷗は、苞寿の机の前に座り、なるべく主観を削ぎ、麓の屋敷で見たありのままを伝えた。
「隆鷗様には、あの屋敷はそのように映るのですか?屋敷を覆うその黒い闇の正体については勿論わたしには知る術がありません。しかし、頂上の墓の前で右往左往しているように見えたのでしたら、確かに墓の周囲には特別な結界を張り巡らせておりますので、ちょっとやそっとのことで破られることはないでしょう。しかし、隆鷗様が見たモノはあの屋敷の者を知るうえで重要なことのようです。わたしの祖父が訳あって降霊術の研究に没頭していた時期がありますので、調べていましたが、どうもその記録が見当たらない」と、苞寿が言う。
「あすこには、すごく力のある悪霊が潜んでいると思います。はっきり言って、あんな特異な動きをする悪霊は見たことがないです。これまでの悪霊は怨みとか怒りの単純な感情に突き動かされているだけでした。だからすごく分かりやすかった。しかし、侵入者に憑いていた悪霊は、谷虎殿を操り、屋敷を覆っている黒い闇は、奇妙な動きをしていますし、何より屋敷を取り込むほど巨大です。わたしはあんなもの見たことがありません。だから、あの悪霊を恐ろしく思います。何をしてくるのか…分かりません」と、隆鷗は言った。
苞寿は、ただ黙って隆鷗をしみじみと見た。
「隆鷗様…。おそらく隆鷗様が死霊や悪霊を見るようになったのは、わたしと最初に出会った時ですね。あなたにとっては、長い時が過ぎたように感じるかもしれませんが、あなたが思うほど、そんなに時は経っていないのですよ。新たな世界を垣間見ているあなたがその世界を分かるようになるには時が必要だと思います。わたしには見えないその世界は、隠り世と現世の狭間の、ひどく曖昧な危うい世界。地獄のすぐ傍にある存在するはずのない歪みのなかにあるのかもしれない」
「歪み…?」
「地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、抜け出せない苦痛、苦悩、欲を貪り他者を蔑み、怒り、怨む、妬む、羨む、盗む、束縛、支配…地獄に存在する全ての執着は他者を攻撃し、殺す。また、他者を不幸に陥れる呪いを生み出し地獄に落とす。そうしたすべての厭悪が、歪みのなかで悪霊として具現化する現象を起こしている。この世界は、見えているものが全てと思うことこそ傲慢と言わざるを得ませんね」と、苞寿が言う。
「現象…?悪霊は死人ではないのですか?」
「我々にとって死人はこの世に存在しません。しかし、それを現象と考えるのなら、いささか理解できることもあります。隆鷗様が見えている世界を見ることができないわたしには、隆鷗様が知る以上のことを教えることはできません。しかし、わたしは隆鷗様と共に戦うことはできます。決して孤独だと思わないで下さい。わたしはあらゆる智慧を絞り出しますよ」と、苞寿が微笑した。
隆鷗は、黙った。そして、理解した。
自分が見えているものへの理解を求めるのは苦悩を理解してもらうだけのただの自己満足にすぎない。理解してもらうなど不可能なのだから。
「さて、わたしは、もしかしたら、御霊様の力を受け継いだ二十の祖霊様のなかに降霊された祖霊様がいるのではないかとひどく不安なのです。そんなことは絶対有り得ないと信じておりますが、月子様が御霊様の名を口にした時からずっと引っかかっております。御霊様の狂信者はずっと昔から存在していました。代々墓守の『守人草子』を紐解くと、熱狂的な信者がその時代時代に記されておりました。この時代にもいないとは言い切れない。御霊様の教えを正しく聴くことのできない歪んだ精神のなかで解釈する狂信者は害毒です。そんな狂信者が人々を闇に落としてしまう。降霊された祖霊様がそんな狂信者に利用されては墓守の存在が根本から覆されるでしょう。わたしは祖霊様が降霊されたか否か調べなければなりません」
「祖霊様の霊?麓の屋敷の悪霊のことですか?」
「分かりません」
「それをわたしが見極めるのですね」
隆鷗は言った。
「いえ、隆鷗様の言葉は有難いですが、それは墓守のわたしの役目です。しかし、隆鷗様が突然その力を手に入れたことはわたしには本当に心強い」と、苞寿が言う。
「わたしも苞寿様と共に祖霊様の霊を探します」と、隆鷗は言った。
「有難う隆鷗様…。今はまず麓の屋敷の悪霊ですね。あれが祖霊様でないことを願います。しかし、あなたも月子様もなまじそのような能力を持ったばかりにひとがしない苦悩を抱え込むでしょう。そんな時は、悩まずに単純に考えて下さい。その力を人々の幸福の為に役立たせることを。そしてあなた自身が幸福になることを…」
「……」
「あなたは見えている…どうしたってその悪霊の理由や目的のその先を求めてしまう。そして深淵に嵌って抜けきれなくなる可能性もある。だからより単純に考えるのが重要なのです。ひとを幸福にする。それはこの世に安寧を齎す。ただそれだけです」
苞寿が包み込むように微笑む。
そこには苞寿の並々ならぬ決意が込められているように隆鷗には映った。
いつのまにか背後にいた瀬羅の存在を忘れていた。苞寿庵を去る時、苞寿にとって瀬羅の存在は何かしら特別なのだろうか?と、ふと思った。
苞寿庵を去った隆鷗は、本堂の庭に立ち、屋敷の黒い闇を確認した。しかし、苞寿の結界の強さを物語っているように黒い闇は消えていた。
夕餉の後には、寺に戻って来た月子が離れの平屋にやって来た。
なんとなくだけど元気がなかった。
月子が隆鷗の部屋に入ってくると、ほぼ同時に影近も入って来た。
「ここ数日で色々なことが起こったのですね?」と、月子が言う。
「だろう。少し前には朝から悪霊のようなババァが我が子を殺そうとしたんだぜ。でも隆鷗は悪霊は憑いていないって言うんだ。あんなババァこそ憑かれているに決まっている。そして、今日は、今、俺の部屋で騒いでいる無名と、チビすけが捕まったのを俺が助けた。なぁ、いろいろなことがあっただろう」と、影近がはしゃいだ。
「あらっ、影近殿。そんなに優しかったなんて知らなかった。登葱は赤子のところに行きっぱなしよ。だからここに来れたわ。放ったらかされるのも悪いことばかりではないわね」と、月子が笑う。「隆鷗様は何していたの?」
「わたしは麓の屋敷を…」
勢いづいていた影近が隆鷗の話しを遮って、最初から赤子のことや子供たちのこと、森で迷っていた兄弟をいち早く見つけたことなど、面白おかしく話し出した。影近ばかり喋って、隆鷗は、屋敷が纏う黒い闇のことを話せなかった。
影近は、ここに来たばかりの時、誰とも話さない月子が気になって何度も話しかけていた。義父の信蕉が、月子には構うなと何度叱っても構わず話しかけていたのだ。遂には信蕉から毎日殴られて、いつも顔を腫らしていたと、燐が言っていた。
ここのところ都に行ってばかりの月子と喋るのがよほど嬉しかったのだろう。だから隆鷗は黙った。
気がつくと、部屋で静かにしていた陸もいつのまにか加わって、皆、時を忘れてずっと喋った。
手鞠が『呪い屋』の少女に殺されてから、それほど時は経っていなかった。月子にしてみたら悲しみのなかの、ホッとしたささやかな時だった。
「そう言えば隆鷗様、寺に戻って来た時だったかな…。寺のあちこちで『入れて…入れて…追い出さないで…よくも…よくも…追い出したな…』って言う言葉がふわふわ浮いていたんだけど、あれは何だろう?」
屋敷に戻る時、月子が言った。
「えっ、何だろう…?」
隆鷗は、月子のその言葉を聞き流してしまった。
だが、見えていたその言葉以外に、この世のものとは思えないような歪な模様を描いた、文字とは言えないようなモノが見えていたことを月子は隆鷗には言えなかった。
説明のできないそれを文字と認識しなかったからだ。
その翌朝…。
苞寿庵がある山林からひとりの少女が裏庭に入って来た。
朝霧の、白く不透明な風景に恐ろしく際立つ真っ赤な衣の少女の姿は、朝の自然が醸し出す無数の音のなかに紛れ込んだ不協和音のようだった。少しずつ少しずつ周囲を破壊に導いていく。
少女は、なにひとつ躊躇なく寺の玄関から土足で上がり、誰もいない静まり返った本堂を横切り、客間を通り過ぎて、至誡の部屋の前で止まった。
その時、登葱と箭重は、双子を連れて台所にいた。燐は本堂の庭を掃いていた。赤子のことを頼まれていた至誡は、不貞腐れて部屋に閉じ籠っていたのだ。だから赤子は燐の部屋でひとり眠っていた。
少女は、至誡の部屋の障子を開けた。
至誡が突然現れた少女に驚く。
少女は、真っ赤な着物を身に纏ったその出立ちで子供にしては、大人のような滑らかな仕種で、おっとりと至誡に歩み寄った。
「お前は至誡かい?」と、少女が尋ねた。
至誡は、驚きのあまり少女の言葉が耳に入らない。
「何故、谷虎はいないのだ」と、更に少女が尋ねる。
異様な妖艶さに、至誡はただ圧倒され自分でも驚くほど萎縮した。
「谷虎は随分とやりやすかったのに、それを見越して苞寿が追い出したのだな。生意気なやつだ」
至誡は、身体をぶるぶる震わせた。
「な、なんだお前は…?妖怪…か?」
「ふん…。妖怪だと…?つまらない質問だ。谷虎を追い出した苞寿を怨むとよい。これからはお前が谷虎の代わりだ」と、少女が言う。
「何を言っている。お前は誰だ?何故、ここにいる?」と、至誡は身体の震えが止まらない。
少女はゆっくりと、至誡の前まで歩み寄ると、そこに腰を下ろした。そして、ゴツゴツした茶巾袋を至誡の前に置いた。
「赤子がいるだろう。あの赤子は麓の集落の娘なのだが、育てることができない母親がこの寺に捨て去ってしまった。もともと生きることのできない赤子だ。放っておくと、やがてこの世で人に仇なす鬼となるだろう。運命に従うのだ」
至誡の額から大粒の汗が溢れ出た。至誡の目を見る少女の瞳の奥がうねっているように見えた。
「それは本当の話しなのか?」と、至誡が言う。しかし、鬼となるはずはなかろう。と、心のなかで囁いていた。
「本当の話しだ。お前に民を思う気持ちがあるのなら、口いっぱいになるまでこれを与えるといい。赤子は鬼にならず幸福のまま安らかに黄泉の国へ行ける」
至誡は茶巾袋を開けた。
そこにはゴツゴツした小石がいっぱい詰まっていた。
なんだこれは…?
「与えるのだ」
少女は、至誡の目から視線を離さない。
瞳の奥からゆっくりと、うねった黒煙のような闇が溢れて至誡の瞳孔を捉えた。
「たくさん与えるのだ」と、少女が言う。
「たくさん与えるのだな」と、至誡が答えた。
寺の最悪な1日の始まり…。
次回「人か化け物か…?」




