麓の屋敷
隆鷗は、怪しい男を寺で見かける。しかし、怪しい男には誰も気づいていない。
怪しい男の痕跡を辿る隆鷗は、月子、影近、陸に会う…。怪しい男について話している月子と、隆鷗に陸は報告すべきだと助言するが、報告することを微塵も考えていなかった二人…。
陸の助言は、単純ですごく当たり前のことだった。しかし、それをあの状況で言ったことが重要だったのだ。
苞寿と信蕉に報告したことで、しかも、侵入者の男に気が付いたのが、隆鷗と月子だったことが結果的に、より早く、最小限に事件を食い止めることができた。
そればかりでなく、これまで気づかなかった敵が足元に潜んでいることが分かった。
苞寿と信蕉は、一見すると取り立てて大きな事件ではないように思われた今回の騒ぎを表立って動かず、水面化で慎重に静かに動いた。
寺に潜んでいた男は、苞寿が都の、新しい寺に時々滞在していることを知っていた。そして、苞寿の弟子が今では都中に散らばって、それぞれが独自に活動をしていることを知っていたのか、そこにつけ込んで苞寿の弟子に成りすましていた。何処まで寺の事情に精通しているのか、分からなかったから水面化で動いたのだ。
信蕉の弟子、至誡が、男と接したことのある寺の者に聞き取りを行ったところ、巧みな言葉で苞寿の弟子に成りすましている。そのことを考えたら、寺のことをある程度調べられていたのではないかと思えた。
苞寿は今回のことを詳しく調べるように信蕉に命じた。そして信蕉は陸が適任だと思った。
陸は、好奇心が旺盛で、人一倍行動力がある。寺に来て間もなく、じっとしていない陸は、周辺の様子を見て周り、麓の集落について短時間で把握していた。
何故、陸がそんなことをするのか?
苞寿に言われて、陸をこの寺に連れてきたのは信蕉だった。
陸は、孤独のなか都で物乞いをしていた。しかし、暫くじっと観察していた信蕉は、陸が物乞いなどしていないことに気づいた。
陸は都の様子を驚くほど詳しく知っていた。欲しいものは人に乞わず自分で手に入れていたのだ。町民の欲しいものにいち早く気づいて、それを調達して物々交換をするほどに逞しく、そして策士だった。そのための知識は貪欲に自分で見聞していた。
信蕉は、そんな陸に並々ならぬ才能を見抜いていた。
「先生の弟子に成りすました男がいることを知っているだろう。その男のことをできるだけ詳しく調べられるかい?」と、信蕉が陸を呼んで言った。
「はい、出来ます」と、陸が答える。
「至誡に手伝わせるから、その男が誰なのか、何処から来たのか?その目的も調べて欲しいのだが…」
「一人で出来ます。まず一人で調べさせて下さい」と、陸は自信満々に言った。
「分かった。一人で立ち行かなくなったらいつでも至誡を頼りなさい」
「いえ、大丈夫です」
「今回は、男ふたりが先生の弟子になりすまして、勝手に寺を出入りしただけにすぎないのだろうが、何故か先生は、殊の外重く考えでいらっしゃるようだ。その目的を知るのが重要なところだと思う」
「任せて下さい」
一人と、そして月子が言うもう一人。巧みな嘘で勝手に寺に出入りしていたことを苞寿も信蕉も軽く見ていないことを感じた陸は徹底的に調べる覚悟だった。
信蕉に命じられたその足で、まず陸は、男と接触のある隆鷗の元へ向かった。
しかし、隆鷗の部屋はもぬけのからだった。いつもなら部屋から出ずにぐずぐずと、訳の分からない独り言を呟いたり奇声を発したりしている。まぁ、この頃は幾分か良くなったが、それでもひとと口も聞かず、どんよりとひとところでじっとしている気持ちの悪いやつだ。
なのに、誰とも関わりを持とうしない月子がわざわざ隆鷗に会いに来たのが不思議だった。それに山林での隆鷗と月子の会話の内容も違和感があった。
陸は、隆鷗の荷物に目をやった。青い刀が目に入る。なんか不気味な刀だ。柄、鞘全て青い。かすかに、鈍く光っているように見える。刀を見ながら、隆鷗は何処に行ったのだろう。と、茫然としていた時、声がした。至誡の声だ。近くだ。
「谷虎は、破門だ」と、至誡の声。
「破門?」
そのこもったような小さな声は、隆鷗に違いない。
声は、平屋の裏庭の、陸の部屋の蔀戸のところから聞こえてくる。そこにいる暇がないから陸の部屋の蔀戸は締めっぱなしだった。
「どうして?」と、隆鷗が尋ねる。
「どうしてって、あなたが関わるからですよ。私どもはあなた方からしたら虫けらも同然。あなた方の行動如何によってこれほど影響を受けるのですよ。だから寺の者に関わるなと言った」と、いつになく厳しく至誡が言う。
暫く沈黙がある。
「虫けら…?」と、ぽつりと隆鷗が呟く。
「そうです。虫けらです。あなた方がいかに先生や師匠に大切に扱われているか…。谷虎は馬鹿ですよ。そんなことも見抜けず、あなたを新米の弟子かなんかと勘違いして、あのようなことをするのですから…」
「いや、そんな話しどうでもいいです。虫けらとか言う至誡様の魂のなかの話しです。あなたの世界は、ひとは虫けらなのですね。きっと他者を虫けらと言うのなら至誡様も虫けらか、虫けらと然程変わらないのでしょう。残念な世界だ。わたしはあなたを人と思っておりましたが…」
いつになく厳しい口調で隆鷗は言った。
至誡が黙る。しかし、収まらなかったのか、閉じた口をつまらない言葉でこじ開けてしまった。
「知ったような口を聞くものではない。あなた方が何者なのかは知らないが、突然やって来て、我ら寺の規律を一気に掻き乱したことなど、何も知らないでしょうし、知る必要もないのでしょうから、あなたに虫けらと思われようとわたしには関係のないことだ。あなたからそんなことを言われる筋合いはない」
その言葉が聞こえた陸は、我慢できずに蔀戸から顔を出して、隆鷗に声をかけた。
「そんなとこにいたのか?あんたが見かけた男について幾つか聞きたいことがある。部屋に戻ってくれないか?」
そして、振り返った隆鷗の後ろにいた至誡を陸は睨みつけた。
至誡の表情は複雑だった。後悔と腹立たしさが入り交じった顔だ。そして、すぐにその場から去っていった。
「すみません。お待たせいたしました。聞きたいこととは何でしょうか?」
隆鷗は、すぐに裏庭から廻って来て、土間に入って来た。そして、隆鷗の部屋でくつろいでいる陸に言った。
隆鷗は、履き物を履いたまま板張りに腰を下ろした。
「信蕉様に男が侵入した目的を調べるように言われたんだが…。その前に男が何者か調べる必要がある…。…しかし、何だあれ…?あれは本当に信蕉様の弟子なのか?程度が低いな」
「えっと…。影口?」
「影口……?それがどうした?ただ、不快な気持ちになったから、切り替えたかっただけだ」
「侵入者…のことだよね?何…」
「どんなやつだったか、具体的に聞きたい。あんた、はっきりと見たよね?谷虎とここに来たのだろう?」
隆鷗は、男の顔を思い出そうと、入口の方に目をやった。
じつは、隆鷗は男の、背後の怪しくも不快な黒い影を見ていたので、男の顔はあまり見ていなかった。だから、ゆっくりと思い出さなければ咄嗟に思い浮かばなかった。
陸も隆鷗が思い出すまでゆっくり待った。
黒い影を纏う男。黒い影は、人の形をしていたが、よく見ると触覚のような糸がうねうねと気持ち悪く動いていた。今思うと、あれは何だろうか?その時の男は、恐ろしく表情のない顔をしていた。その顔は人のモノではなかった。何だろう?目は細くつり上がっていた。
「細い、つり上がった目。感情がない。ひととも思えない…」
そうだ、とても冷酷な目をしていた。「れいこくそうな…」
黒い影から出たうねうね動く糸が太く、長くなっていった。それがどんどん長くなって、谷虎のところまで伸びていった。そして、一気に谷虎の身体を突き刺した。
男はその時何をしていた?
男は谷虎だけを見ていた。その時、腕を組んだ。その拍子に少しだけ襟元が浮いた。浮いた隙間から見えた。首筋から胸元に広がる火傷の跡。胸は着物で見えなかったが、あの広がり方を見ると、火傷の跡は広範囲にあるのかもしれない。
隆鷗は、自分の首筋を指差した。
「ここから…こんな感じで火傷の跡」と、胸元をくるりと指し示した。
「分かった」と、唐突に陸が言った。
「えっ?もういいの?」と、隆鷗が言う。
「いやいや、長いよ!でも待った甲斐があった。分かったよ。何処のどいつか」と、陸は、立ち上がる。
「誰なの?」と、隆鷗が尋ねた。
「まず、信蕉様に報告するのが先だ」と、陸は素早く履き物を履いた。
「わたしも行っていい?」
「あんたは、そこでぼうっとしてろよ。それが好きなんだろう。でも奇声は勘弁してくれ。驚くだろう」
「奇声…?」
隆鷗の奇声は無意識だ。死霊の突然の出現に出た声に違いない。隆鷗は改めて恥ずかしく思った。
つい先程出て行った陸が再び隆鷗を連れて戻って来た。そして、侵入者が何処から来たのか分かったと言う陸に信蕉はただ驚くしかなかった。
陸が話し始めた…。
「わたしは自分が住んでいるところがどんなところか隅から隅まで分かっていないと落ち着かないんです。だから、信蕉様にこの寺に連れて来られて、まず麓の集落のことを見て周りました。しかしそこは、何と言うか…変わった集落で、一度や二度見たところで理解できるところではありませんでした」
信蕉は、話しを遮ったりしないから、思ったように話しなさいと陸に言った。
陸の話しはこうだ。
麓を、寺の平地から眺めると、十数軒の家が集まった集落が幾つかあり、それらはわりと離れていて、一見して繋がりがあるのか不明だった。歩いたら結構距離があるし、集落ごとに雰囲気もがらりと変わる。一日ではとても周りきれなかったから数日をかけておおかた周り終わった頃に、この地には不自然な、たいそう大きな屋敷に出会した。気づけば、見上げると寺の平地もよく見える。寺の足元にその屋敷はあった。
不気味な屋敷だった。
何故、あんなに大きな屋敷に気づかなかったのか?寺の平地から見てみると、屋敷の周りを囲った樹木がすっぽり隠してしまっている。上から見たら見えないのに下からは寺がしっかり見える。あまりにも意図してそこにある気がしてならなかった。
再び屋敷に向かうと、山沿いの畦道を歩いて行くとすぐに辿り着いた。
そして、屋敷を中心に周囲の集落を歩いた。屋敷のことを聞くために。しかし、口を開く者はいなかった。
だけど、ふと思った。何故こんなに、あの屋敷のことを怪しく思ったのか?古くからこの地を治める地主なのかもしれない。ただそれだけのことを大袈裟に感じただけかもしれない。と、自分に言い聞かせたのだが、それでもやはり気になってしまう。
それから随分たって、またいつものようにふらふらと出かけていたある日のことだった。
屋敷の門から、赤い着物を纏った女子が息を切らして出て来た。
畦道を歩いていた陸は思わず山側の大きな樹木に隠れた。
女子は、どう見ても屋敷から逃げて来たようだった。しかし、女子は、すぐに追いかけて来た男に捉えられた。男は女子の顔を突然殴ったのだ。まさか女子を殴るとは…。その時男の着物の胸元がはだけたのだが、そこに隆鷗が言っていた火傷の跡があった。それに男は恐ろしく無表情で冷酷そうな顔をしていた。そして、つり目だった。
しかし、それより驚いたのは、女子が突然獣のように唸り声を上げ、男を威嚇し始めたことだ。男が怯み後退した時、門から新たに男が二人出て来て、女子を押さえ込み、屋敷の中へと引きづり込んだ。そして、門が閉じられた。
陸の好奇心は、もう止まらない。急いで、屋敷の中が見えそうな高い樹木を選んで、よじ登った。そこは屋敷の中がよく見えた。
門に入ると、門から屋敷までは広かった。そこで女子は首に紐を括られ、その紐の先端を、屋敷の前に立ちはだかっていた女子に手渡された。
そして、女子が冷たい口調で言った。
「何処へ逃げるつもりだったんだ。奥方様。あなたはこの屋敷の唯一の奥方。あなたがいなければ、当主様が悲しみます」
奥方と呼ばれた女子は、膝を落として蹲った。まるで跪いたみたいに。だが、威嚇するように地を這うような唸り声をあげた。
それを見た女子が高笑いをした。
「当主様、奥方様、姫様…。誰ひとり欠けることなく我らがお守り致しますゆえ、ご安心なさいませ。助けを呼んだとて獣憑きの奥方様の声は誰にも届くことはございません」
そう言うと、奥方と呼ばれ、獣憑きだと言われた女子は叫び声を上げた。
「泣いたとて、無駄でございます。あなたの、空けの当主様を怨むといい」
陸は、その時のその言葉には、この屋敷を把握するに重要なことが語られていると思った。
なんと運がいい。陸は、その場面の全てを頭に叩き込んだ。
また暫くして、再び陸は出かけた。獣憑きの奥方のことを周囲の集落へと聞き込みに向かった。
最初に向かった集落についたが、やはり誰も口を開かない。そればかりか陸を見ると皆、小屋にそそくさと隠れてしまう。
おそらく何処の集落に行っても同じだろう。行ったところで無駄足だ。
陸は、寺に帰る途中の畦道の端に並ぶ岩に腰をおろして、ふっと一息をついた。自分でも気づかなかったが、屋敷で見た光景がずっと心に残っていつまでも陸を苦しめていたのだ。あの衝撃は日に日に陸を疲弊させる。ひとの醜い姿などざらに見てきた。しかし、あれはいったい何なのだ。
あの異様さを放っておけないのは、あの屋敷が苞寿様や信蕉様の寺のすぐ下にあるからだ。ただそれだけなのだ。しかし、それが何より陸には重大なことだった。
陸は暫く、何も考えずにぼんやりとした。そんな時、背後から声をかけられた。
振り返ると、腰の曲がった老婆が立っていた。
「お前、ここらへんをいつもうろうろしている童だろう。良くないな。ここはよそ者を異常に嫌う。まして力のない童。あまりうろうろしていたら、攫われるぞ」と、老婆が言った。集落を周って初めてまともな言葉を聞いた。
「攫われるってどう言う意味だ」
「あんた、時々あの屋敷の様子を見ているね。なんでそんなことをするんだ。誰もあの屋敷に関わらずに済むようにひっそりと、身を隠して暮らしているんだ。童があんな屋敷に関わってはなんねぇぞ」
「どうして?あそこは妙だよね。何か獣のようなひとがいるよね。すごく怖い」と、陸は芝居した。
「あぁ、あれはあの屋敷の奥方だ。獣憑きだ。いつもいつもここらへんを徘徊して、叫んだり泣いたりしていたからさ…。皆んなが狐憑きかなんかだって噂していたんだ。そしたらそのうち当主が祓屋を呼んでね。何故かそれからずっと住み着いているんだよ。それからだね。あの屋敷が化け物屋敷みたいになっちまったのは…。今では誰も寄りつかない。まあ、始めからへんな屋敷だったよ。あそこの当主はどうしようもない空けで、嘘ばかり並べたてるのさ。もう嘘と現実の見分けもつかない有様だった。考えてみたら、あそこの奥方がああなってしまったのも無理もない話しだったのかもしれない。あんたも関わらない方がいい…ここらへんを出歩くのも、もうやめた方がいい。本当に呪われるぞ」
そう一方的に喋ると、老婆はそそくさと帰って行った。陸が今まで訪ねていた集落の方向だった。
次の日…。
陸はもう少し詳しく屋敷のことを聞くために、あの老婆がいると予想した集落に行った。しかし、老婆を二度と見つけることができなかった。
そして、皆、息を潜めて、じっと何処からか陸を見ている。そんな視線を感じた。
何処で見ているのか、周囲をキョロキョロ見ているうちに、石ころに足をひっかけて、躓いて大きな甕を倒してしまった。
すると、そこから、昨日話した老婆がごろりと出て来た。
死体だった。
陸は、もう何も考えずに一目散に走って、一息も休まず寺に引き返したのだった。
「あの屋敷はいったいなんなのでしょうか?考えてみたら、祓屋と思しき女子の他に男衆のような者たちがたくさんいた。使用人とは言い難い。強いと言えば、あれは私兵だ。おそらくあれも祓屋だ。祓屋の女の言うことしか聞かないのです。隆鷗君から男の聞き取りを行った時、すぐにあの屋敷の男が思い浮かびました」と、陸は、そう話して、黙った。
信蕉は、腕を組みながら目を瞑っていた。
「それは、陸がここに来た時の話しだね。何故、その時言わなかったんだ?」
「そうです」と、陸は後悔したように呟く。「わたしとしたことが…。まったく…仰る通りです」
「いえ、責めてませんよ。陸は子供ながらにずっと一人で何でもやってきたのですから。陸が報告しなかったのは、これまでの習慣。だが、今回は月子と隆鷗に助言した。それは成長なのかもしれませんが…。いや、そうではないかな。陸がここの生活を気に入っているということですかね。陸のことだ、今もその屋敷の監視は怠っていないのでしょう」と、信蕉は微笑んだ。
「はい。ずっと…。しかし、これと言って動きという動きはなかったのですが、ただ…」と、陸は言葉を飲み込んだ。
「逆に、こう考えられませんか?」と、信蕉が言う。
「ん…?」と、陸はかすかに小首を傾げて信蕉を見た。
「陸に屋敷の事情を話した老婆は、その後殺されている。想像するにそれは報復、或いは口封じ…。いつも見張っている陸を警戒して、逆に陸自身が調べられていたと、少しでも考えたことはないですか?」
「……?」
陸は言葉を失った。
「先生がよく言ってますね。闇を覗いている時は闇もまたあなたを見ている…と。まぁ、あれにはもっと深い意味がありますが…闇を覗いている時は闇に取り込まれていることに気付かず、自身もまた闇…。わたしは陸を心配して、あえて言いましたが、安易に結論を出すつもりもありませんよ。その老婆のご遺体を見たのはいつ頃の話しなのでしょうか?」と、信蕉はいつになく厳しく言う。
「そんなに前ではありません…」
陸の顔が真っ赤になった。
わずかだが涙を溜めているのではないかとさえ思えた。
陸は、隆鷗から見たら信蕉様をすごく慕っているように見えた。燐の話しでは、陸は信蕉様に担がれて、この寺にやって来たそうだ。すごくギラギラしていたそうで、異様な出立ちで一見すると物乞いにも見えた…と。最初は声もかけられないほど尖った怖い顔をしていたそうだ。
「苞寿庵に行ってくるよ」と、信蕉が立ち上がろうとした時、陸が再び口を開いた。
「もうひとつだけ…」と、陸が呟く。
信蕉が座り直した。
「何か?言い足りないことがありますか?」
「まだ、肝心なことを言ってませんでした」
「肝心なこと…?」
「はい。あの祓屋の女子は化け物です。あの女子は男衆を何らかの方法で操っています。いや、そうとしか思えないのです。そして、獣憑きの奥方には娘がいます。娘は空っぽだ。まるで祓屋の女子の傀儡です」と、陸が小声で囁いた。
それは陸には、全て信じ難いことだった。だからこれは言うつもりはなかった。これ以上、何を聞かれても説明できなかったからだ。
信蕉が黙った。陸は、それに関して何か聞かれたら何も答えられないので、びくびくした。しかし、不思議な能力を持っている月子を見ている信蕉だったら理解してくれるのではないかという一縷の希望を抱いた。
「分かりました」と、信蕉は立ち上がった。「苞寿庵に行って、先生に相談してきます」
苞寿庵とは、誰が言ったか知らないが、本堂の裏庭の奥にひっそりと建てられた苞寿の棲家だった。そこは決められたひと以外誰も近づかなかった。
信蕉が去った後、陸はただ俯いて黙っていた。隆鷗には、陸が泣いているようにも見えた。何故、陸がそんなふうに憔悴しているのか分からない。
やがて陸が何かを呟き始めた。心の声が漏れたような小さな呟きだった。
…なのか?
わたしがこの寺に危険を及ぼすことをしてしまったのか。皆を危険に晒してしまったのか。なんとわたしは傲慢なのか?心の何処かでこの寺を守るのはわたししかいないなどと…。結局、あの屋敷のものに寺の存在を教えてしまっただけなのか?
隆鷗にも陸の声が聞こえてきた。
陸は、自分自身が許せないのか?しきりに呟いている。
しかし、陸のしたことで、あの男が寺に侵入して、谷虎を操っていたとは、どうしても思えない。
本当にそうなのか?
そんな単純な話しなのか?
隆鷗は、何度も考えた。
暫くして、隆鷗は、陸を置いてゆっくりと静かに信蕉の部屋から出て行った。
密かに寺に侵入した男のことを苞寿は、ことのほか重大なことと捉えている。
次回「山頂に祀られるもの」
何故、山頂に祀られたものの正体を知る者は少ないのか…?




