過ぎし日の因果
譜から月子のことを聞いた隆鷗の心がざわめく。そして、月子の名も知らず「童」と呼び、月子を男の子だと思っている寿院は、鼓笙から月子のことを聞かされても、誰だか分からない。
寿院のことを月子から聞いていた隆鷗は、過ぎし日の、月子との日々を思い出す。そんな日々に重要な因子が潜んでいた。
何処までも広がる澄み渡った青い空にふわふわ浮かぶ雲をずっと眺めていると、目の前の血に染まる無惨な光景がどんどん小さくなって、遠い山々の何処かへと消えていく。
あれは現実だったのだろうか?と、ふと考えてしまう。夢の出来事だと言われても何の疑問も抱かなくなるかもしれない。
父と兄を、これまで育てた畑の近くに埋葬し、苞寿様が手厚く経を唱えてくれたのだが、遠くの山々の風景に溶け込んでしまい、また再び訪れることができるのだろうか。と、隆鷗はかすかに不安を覚えた。
いつか、ここを訪れて父と兄の墓を以前住んでいた屋敷があった地へと移してやりたい。と、隆鷗はその風景を心に焼き付けた。
隆鷗は父が大好きだった。いつもそばにいてくれて、面白い色々なことを教えてくれた。父の話しは楽しくてすごくわくわくした。
父には、誠か嘘か、剣士として様々な伝説が語り継がれていた。それを語ってくれるのが歳の離れた兄の役目だった。兄の話しは面白く、共に行動できないことが幼い隆鷗は残念で仕方なかった。
やがて、隆鷗は苞寿の背中を眺めながら幾日も歩き続け、ゆっくりと現実を受け入れていった。
時も然程過ぎていない筈の過去の思い出がすごく遠く、次第に幻のように虚ろなものへと変化していくのが、最も恐ろしいことだが、それは容赦なく訪れるものだと、うすうす感じていた。それは、身近な人々に、幸せの種のようなものだと囁かせるのだろう。
父と兄が殺された数日後には、肩上くらいの位置にある、開け放された蔀戸からいつも空を眺めて過ごしていた。狭い個室だったが、そこが隆鷗の居場所となった。父と兄が殺された場所から救ってくれた苞寿が与えてくれた。
そこは、寺の敷地内にある長屋のような建物だった。長屋と違うのは、入口から入ると、土間があり、そこから上がる長い板張りがある。そして板張りの奥に三つ個室がある。個室と言っても壁で仕切られてはいるが、それぞれの間口には壁も戸もなく、開け放されていた。だが、隆鷗の個室以外は、衝立が置かれていた。
隆鷗は、入口から一番近い隅の個室を与えられた。随分と殺風景な建物だったが、苞寿が言うには、信蕉と、三人の弟子がこつこつと建てたという。
寺に着いた時、隆鷗と年端も変わらない小坊主がそこに案内してくれた。いい衝立を見つけたら、その間口に置くと約束してくれたが、それがいつ来るのか?当てにしていいのかも分からなかった。
その頃、隆鷗は死霊を頻繁に見ていた。与えられた部屋の中にも入ってくる。死霊は何をしてくるでもなかった。ただ、突然現れては消えていくだけだった。
その度に隆鷗は、怯えた。
何かの狭間から現れる死霊は、一つひとつ全く違う顔を持っていた。それは昼夜を問わず、唐突に現れた。暫くの間、自分が何処にいるのかさえ分からなくなったほどだ。
時折食事を持ってきてくれる小坊主と軽く会話を交わすことが唯一隆鷗にとってはっきりと理解できた現世だった。
「隆鷗様、調子はいかがですか?先生が隆鷗様を起こすなと仰っていましたので…。しかし、ここ二、三日はご気分も良くなったのではありませんか?起きていることが多くなりましたよね」
起きているのか寝ているのか…。日毎死霊に悩まされる日々。そんな毎日を過ごしているのだから、然程意味のないことだった。
隆鷗は、顔もいまだ曖昧な小坊主を見ながら、話しを聞いた。
小坊主は、寺のことを教えてくれた。
「隆鷗様の隣りは影近様の部屋です。その隣りが陸様。そのお二人はお弟子さんではありません。隆鷗様と同じ寺の客人です。わたしは、影近様は少し怖いと思っています。剣士になりたいそうで、この付近の何処かで朝から晩まで剣の修行をなさっているようです。陸様も朝からふらっと出かけて夕餉まで戻ってきません。何をなさっているのか、さっぱりです。ちょっと気難しいひとですね。そして、あとひとり、箭重様という方が寺のお部屋にいるのですが、この方は、最近顔を出さないので、少し心配しています」
そんな話しを隆鷗はただぼんやりと聞いていたが、ほぼ頭の中に入っていない。
「ただ隆鷗様、ひとつだけ守って下さい。この家の並びにたいそう立派なお屋敷があるでしょう。あそこに姫様が住んでいるのですが、その方だけは関わらずにそっとしておいて下さい。姫様は、高貴なお方なのですが、訳あってひっそりと暮らしていらっしゃるのです。一応信蕉様が引き取って養女にされていらっしゃるので、姫様に喋りかけようものならそれはそれは鬼のように怒ります。影近様なんて、怒られても怒られても喋りかけるものですから、いつも顔を腫らしているのですよ」と、小坊主が笑った。
「屋敷?姫様…?」
隆鷗は鸚鵡返しに呟く。
「月子様です。月子様には何でも不思議な力がおありだとか…。ひとの心を読む力があるそうです。それが不思議なことにひとの心が文字となって虚空に現れるそうなんですよ。その文字は我々には見えないのです。だから信蕉様は姫様を大切に育てていらっしゃるのです。そして、忘れてならないのは、そこに一緒に住んでいらっしゃる登葱様です。月子様の乳母なのですが、これが朝廷の女房のごとく怖いお方なのです。わたしは信蕉様より登葱様の方が怖い…」
小坊主は、よく喋った。くるくると、いろいろなことが目まぐるしく、その小さな口から溢れ出た。しかし、隆鷗は厭ではなかった。
死霊に囲まれた暗い闇のなかに降り立つわずかな現世を見ているような感覚だった。
そんな日々が幾日か過ぎたある日のことだった。いつものように蔀戸からぼんやり空を眺めていると、外からひどくガラの悪そうな喋り声が聞こえてきた。
「ここの連中はいったい何者なのだ?寺の掃除も片付けも一切しないし、我らに挨拶もなしときた。好き勝手なことばかりやってる小狡い連中だ。どこぞの物乞いを拾ってきたのか?」
声の主が罵っている間、もう一人が相槌を打っている。しかし、その者は何も言葉を発しなかった。
なんと口の悪いひとだ。と、隆鷗は思った。しかし、ただ、それだけだった。そして、そのことも忘れてしまった。
ところが、小坊主が夕餉を運んできた時、それが起こった。
隣りの住人二人は、寺の台所の板張りの間で信蕉と、その弟子と一緒に食べているらしく、隆鷗は一人だった。
「早く元気になって、隆鷗様も一緒に皆んなと食べましょうよ」などと小坊主が言ってた時、突然、二人の男が入ってきた。
小坊主が「谷虎様」と、呼んでいた男は、信蕉の弟子だと後で分かった。
「ねぇねぇ…お前は何様なんですか?いつもいつも膳を持ってこさせ、片付けさせ、何もしないで、ただ、ぼんやりしている。少しは寺の役に立てよ。お前もお前だこんな膳をいちいち運ぶなよな!」
そう言うと、谷虎は膳を蹴っ飛ばし、板張りへと飛び散るのをにやにやしながら見ていた。
「谷虎様やめて下さい」と、小坊主は隆鷗を守ろうとした。
「どけ!」と、男が小坊主を払い退けると、隆鷗の胸ぐらを掴み締め上げた。だが、隆鷗は抵抗しない。
隆鷗は、谷虎を見ていなかった。入口に黙って立っていた連れの男を見ていた。
連れの男の背後に黒い影が浮かび上がっていたからだ。隆鷗には見覚えがある。父と兄が襲撃された時、屍の上を平然と歩き回る悪霊と化した死霊の塊。強い怨みを持ちひとを襲う化け物だ。
あいつは誰だ?
そして、化け物から伸びた一筋の影が、谷虎という男のなかへと入り込んでいる。
隆鷗は、男を睨みつけた。
「何処見ているんだ。舐めたやつだ!」と、谷虎は、隆鷗を投げ飛ばした。
隆鷗は壁にぶつかったが、痛みはそう感じなかった。すぐに立ち上がり、真っ直ぐに男を睨みつけながら歩み寄っていく。
男はじわじわと後退りした。
「わたしは信蕉様を呼んできます」と、小坊主が言うと、隆鷗はそれを阻止した。
「駄目だ。今、信蕉様を呼んだらこの者が責めを負うことになるだろう」と、谷虎を指差した。
「なんだお前?」と、谷虎も少しばかり後ろに下がった。
隆鷗の言葉が小坊主には理解できない。
隆鷗はずっと連れの男を睨んでいた。
やがて、舌打ちをすると、連れの男が去っていった。
「今の男は誰?」
隆鷗の問いに小坊主は小首を傾げた。
「確か、先生の新しいお弟子さんだとお聞きしました」
「苞寿様の?君は苞寿様のお弟子さんは把握していないのかい?」
「先生は、時々都のお寺で過ごしていらっしゃいますし、わたしのような下っ端が恐れ多くて先生のお弟子さんに話しかけることなどできませんから…」
その間、おとなしくしていた谷虎が唐突に口を開いた。
「あれっ?わたしは何をしているんだ?ここは何処なんだ?」
その言葉に小坊主が驚いた。
「何を言っているんですか?」
隆鷗が口に人差し指を当て黙るように合図を送ると、小坊主が不思議そうにした。
「なんだよ。器がばらばらに散らばっているではないか?お前、まさか燐を虐めているのではあるまいな!」と、谷虎が隆鷗を睨んだ。
「いやいや違いますよ。谷虎様落ち着いて下さい」と、小坊主が両手で阻止した。
「しかし…これは?」と、谷虎が器を指し示した。
それはあなたの仕業です。という言葉を飲み込んだ小坊主は、谷虎を一瞬睨みつけた。
「わたしが慌てて転んだんですよ。すぐに片付けますから、谷虎様は早く台所へ行って下さい。皆んなもう夕餉を始めてますよ!」
「おおぅ、虐められていないのだな。本当だな。なんかあったら俺に言ってくるんだよ…。そうだそうだ。俺には夕餉が待っているんだ。なんで、ここにいるんだろう?まったくどうなってるんだ?」
「どうなっているんだ…と、言いたいのはわたしの方です」と、小坊主が呟く。
谷虎が慌てて台所へ向かうと、入れ違いのように女の子が入って来た。
女の子は、明るい桃色の衣を身につけ、音もたてずに自然にすうーっと入ってきたので、隆鷗も小坊主も気づかなかった。
「どうして…?」
ぽつりと囁く女の子の声で隆鷗は振り返った。
入口の傍に立っている、色白でふわっとした女の子に隆鷗はたいそう驚いた。
「月子様…」と、同時に小坊主も驚く。
月子は、なんの喜怒哀楽も載せていない表情で隆鷗を見ている。
「どうして…?」
「月子様、こんなところに来ては駄目です。お帰り下さい。信蕉様に叱られます」
月子は、必死にそう叫ぶ小坊主を僅かに見た。小坊主が後ずさる。
「何ですか?」と、隆鷗は聞いた。
「何故…?」月子が聞き返す。
「何故…?」隆鷗は月子の言葉が分からずにただ繰り返した。
「何か見た?」と、月子が尋ねた。
「見た?」首を傾げる隆鷗。
「分かったの?」と、質問を繰り出す月子。
「なにが…?」
「其方は馬鹿なのですか…?」
「ソナタ…」
「いえ、なんでもないです。すみません。お騒がせいたしました」
そう言うと、月子は出て行った。
小坊主がぽかんとしている。
「あの人なの?喋ったら信蕉様が殴るんだろう?えっと、燐君って言われていたよね。燐君、今見たこと黙っててくれるでしょう?殴られたくないな…」と、隆鷗が言った。
燐は思わず吹き出した。
「誰にも言わないですけど…。見事に噛み合ってなかったですね。きっと心配しなくても、もう月子様は隆鷗様に話しかけたりしないでしょう。月子様が怒った顔初めて見ましたよ」
燐は器を片付けると、出て行った。
月子…?屋敷の…姫様?
ひとの心を読む…力…ひとの心が文字となって…虚空…に現れる…その文字は我々には…見えない…。
なんでひとにそんなことができるのだ。
虚空に文字が浮かぶ…?想像すらできない。
そう思いながら、隆鷗は、男の背後の影を思い出した。人の形をした影から伸びた、谷虎の身体を貫く細い影。あれは何だ?あれは谷虎を操っていた。これまで見えていた悪霊が単純に思えてくるほど意味不明な、あれは何?
隆鷗は次の日から朝餉も夕餉も皆んなで食べることにした。
谷虎に会うためだ。そして、谷虎を操っていたあの男を探し出し、背後の悪霊の正体を見極める為だった。しかし、男の姿は何処にもなかった。ただ、あの男が操らなくても谷虎がなかなか性格に問題があることを知った。
それは、男の正体を直接谷虎に尋ねた時だった。
「あの、谷虎様…でしたか?昨日わたしのところに来られた時、一緒にいた男のひとは誰ですか?」
「なんだお前、谷虎様でしたか?ではないよ。お前新人だろう。きちんと先輩の名前くらい分かった上で話しかけて来いよ!て、言うか、先輩に直接話しかけてくるなよ。で、お前誰だよ」
その口の悪さに隆鷗は口を噤んだ。
「お前のところの平家の新人はどいつもこいつも何様のつもりなんだ。先輩より先に起きて、まずは寺のなかの全ての掃除くらいしておけよ。いまだに誰一人掃除もしない、食事も作らない、挨拶もしない!しないしないづくしだよな!で、一丁前に飯だけは食うのか?」
「えーと…。わたしは誰の弟子なのですか?」と、うっかり口を滑らせたとたん、思いっきり左の脛を蹴飛ばされた。どうやら足癖の悪い男のようだった。
そこへ慌ててやって来たのが、信蕉の一番弟子の至誡だった。
「おい、谷虎、何してる?今隆鷗様の足を蹴っただろう?」
「隆鷗様?…様?なんでこいつに様なんてつけているんだ?」
「お前こそ、先輩に敬語くらい使え。いったいいつになったら礼儀を学ぶ?」
「ああ、すみません。しかし、こいつらいったい何者なんですか?我らはこいつらの家を建ててやってるし…後から来たくせになんででかい顔しているんですか?」
「でかい顔などしていないだろう。お前は知らなくていいことだよ。お前は何一つ関わる必要はない。分をわきまえてさえいればいい」
「いや、意味分からないです」
「分からなくていいんだよ」と、言って、谷虎を連れて隆鷗の前から離れていった。離れる前に至誡が囁いた。
「何か気になることがあれば、先生に言いなさい。我ら寺の者に関わっては駄目だ」
隆鷗は茫然とした。谷虎の言う通りわたしは何者なのだろう。と、隆鷗は思う。何故、寺に身を置きながら、寺の者と関わってはいけないのだろうか?
寺は、山の中腹に位置した平地にあり、山頂には、何かを祀ったたいそう立派な祠があるという。その祠を守っているのが、この信陵寺だった。平地には両側に鬱蒼とした山林があり、正面は都を見渡せるほど、美しい風景を望むことができる。
隆鷗は、寺の本堂の広場に繋がる山林の方から時折、異様な気配を感じた。それは、何だか男の気配に似た異様な空気が風とともにやって来るような感じだった。
隆鷗は、一旦平屋に戻って青斬刀を手にした。あの男は寺の者ではない。
侵略者だ。
あの山林を通ってやって来たに違いない。
いったい何の目的で寺に巣食う。
山林に入った隆鷗は、異様な気が溜まる場所を探した。そこに何があるのか隆鷗には分からない。
一旦山林に入ると、次第に森は深くなり、進む方向が分からなくなる。平地に吹いてきた風はいったいどの方向から来たのだろうか?今は無風だ。空を見上げてみたが、密集した樹木に阻まれ僅かな隙間からでしか覗き見ることができない。
たった一人の男を探す為に山林に入る必要があったのか。もう少し待てば良かったのではないのか?と、隆鷗は自問自答を繰り返す。
男は、おそらく麓からやって来たのだろう。寺まで登山するのなら開けた山道がある。誰が造ったかも分からない、雑ではあるが石段さえある。そこを通らず、こんな、方向も分からなくなる森を通ってわざわざ出向いてくるとは…?よほど寺に怨みを持った輩だろう。ひとを操った後にどんな災いをもたらすつもりだったのか?
暫く鬱蒼とした山林を歩いていると、樹木が少なくなった開けた場所に出た。視界を遮るものがなくなると方向感覚も戻る。見上げると、寺の平地を仰ぎ見ることができた。
思った以上に距離が短かった。
そこから更に下って行くと、驚くことにひとの影が見えた。
それは樹木の影にすぅっと消えて行った。隆鷗は刀の柄を握り締めた。しかし、その影からは怪しい感じはなかった。
隆鷗は、その樹木に歩み寄った。そこに男がいた。見覚えのある顔だ。
「ばかっ、てめぇ何しに来たんだ」と、男が言う。
「えっ?何しにって…」と、隆鷗は呟く。
男は唇に人差し指を当て、「しっ」と、言うと、更に下った所を指差した。
そこには女の子がいた。月子だ。
「何をしているんだ。こんな所で」と、隆鷗が呟くと、月子が二人を振り返った。
月子もまた、唇に人差し指を当て、静かにするように合図を送った。
二人はゆっくりと月子に歩み寄った。
「どうしたんだ?」と、男が尋ねた。
「男の跡を追って来た」と、月子が言う。
「えっ?男なんて何処にもいないけど…?」と、男が言う。
「いつも、ここを通るのよ。だけどあの男だけではない。もう一人いる。でもあの男はよく来るけど、もう一人はあまり来ない。多分、よく来る男の方が高い能力を持っている」と、月子が言った。
「何の話しだ?」と、男が尋ねる。
隆鷗はずっと黙っている。
「我はここまで…。これ以上行くと、義父上が怒る」
「あっ!」と、唐突に隆鷗が声を上げる。
「何だ?脅かすなよ」と、男が言う。
「いえ、何でもありません」
隣りの影近…どの…。隆鷗は思い出した。
「えー?なんだよそれ、俺、割とお前のこと心配してたんだぜ。ずっと眠ってるし、起きててもぼんやりしてるし、時々奇声を発するし…」と、影近が隆鷗に言った。
「あっ、すみません」
「其方なら分かるだろう?」と、月子が隆鷗に尋ねる。
「ソナタ…?」
「またですか?口癖です」
「姫様だから?」
「燐か?」
「小坊主…」
「何の話しをしている。俺を置いて行くな」と、影近が言う。
「何が見えている。我に教えてくれないか?」と、月子が隆鷗に言った。
「見えている?」と、隆鷗は小首を傾げた。
「もういいから…。我は見ていた。ガラの悪い谷虎殿に胸ぐらを掴まれていた時、其方は連れの男を見ていた。燐が信蕉様を呼んでくるのを阻止して言ってた。今呼んだらこの者が責められると…谷虎殿を指差した。いろいろ考えると、其方は谷虎殿よりも連れの男を悪く思っていた。誰が見ても谷虎殿が悪いと思うでしょう。そこは…。だけど、あの男、寺の者ではない。嘘をついて寺にいる。どう考えても何か企んでいる。我はその男の跡を追ってここまで来たのです」
「何処から見てたんですか?」
「裏庭に廻って、開いていた蔀戸から…」
「覗くのやめて下さい」
「いやいやいや、なんだ男って?何の話しをしているんだ」と、影近。
「影近殿、この寺は狙われているのです。壊す…。この寺壊す…。必ず壊す。邪魔。必ず壊す。無くす…」
月子は、そう呟いた。
「文字…?」と、ぽつりと隆鷗が呟く。
「文字?」と、影近もつられて、呟く。「それで、その男は何処にいる?俺がとっ捕まえてやる!」
「影近殿、ありがとう。でも、もう降りてしまったと思います。我は足が遅いゆえ」
「そうか。俺が追いかけてもいいが、顔がわからねー」と、影近。
「男の正体…」
隆鷗が何かを言おうとした時、影近が一瞬の間に背後にある大きな樹木の所へ移動した。そして、そこに隠れている男を捕まえた。
隆鷗は、その俊敏な動きに驚いた。それに、隠れていた男の気配を嗅ぎ分けたことに更に驚いた。
「なんだお前かよ」と、影近が、がっかりしたように言った。
「悪かったよ」と、男が言う。
確か、あの男は隣りの隣の陸という男。
「何してるんだ?」と、影近が言う。
「何でもいいだろう。まぁ、月子様が変な男の跡をつけていたから、ちょっと心配になって、その跡をつけた。そしたらあんたもいたから、引き返そうとしたら、面白そうな話しをしてたから聞いていただけだ」
「聞いてただけ?盗み聞きかよ?」と、影近が呆れる。
「そう言う話しなら、苞寿様と、信蕉様に話すべきだ。寺のことに関わるのなら、早く対策すべきだ」と、陸が言った。
陸の登場に、何故だか隆鷗も月子も黙り込んでしまった。
隆鷗も月子もひどい人見知りだったのだ。
隆鷗にとって、影近は、死霊に悩まされていた時、時折大きな声で「お前、大丈夫かよ!」と、声を掛けてくれていたので、僅かだが、耐性が出来ていた。しかし、陸からは完全に無視されていた。
月子も似たような理由だった。誰とも話そうとしない月子の心にズカズカ入って来たのが、影近だった。
だから二人とも影近以外には、何故か物怖じしてしまう。
そして、その影近が言う。
「それは…陸の言っていることが正しいと思うぞ…」
隆鷗も月子もぼんやりしていたが、ほんの少し間を置いて、「あっ!」と、ほぼ同時に、初めて気がついたように頷いた。
「えー?気づけよ」と、ほぼ同時に影近と、陸が呟く。
そんな些細な事件が、これからの四人の人生を大きく変えた歪な事件の因子となった。
隆鷗には、月子の他にもずっと縁が切れない友がいた。そんな友との日々は楽しくもあり、悲しくもあり、また辛く苦しい日々でもあった。
次回、「麓の屋敷」
侵入者の正体を暴く…。




