細い腕
鼓笙は、自分の不甲斐なさから、戒は化け物なのだからと、化け物退治の決意を固めていく。
ちょうどその時、唐菓子売りの訪問を使用人から告げられ、間の悪さから腹を立てる。
何度使用人に掛け合っても鼓笙に会えない寿院だったが…。
一方、隆鷗は、奇病を患ったしの婆様に会う。
その姿を見た隆鷗は、立ち竦んでしまう。
あれはひとではなく、化け物なのだ。ならばわたしは何を躊躇しているのたろう。
鼓笙は、おそらく生涯にわたって縁がないだろうと思っていた刀を手にしていた。
わたしは逃げてばかりだ。今すぐ伊都さんと詩束君を、あの子供から解放してやらなければ…。水上家に話しを伺いに行こうなどと、ただ逃げているにすぎない。あれは化け物なのだから、わたしの手で退治すればいいのだ。
昨夜、平家の自害を目の当たりにして、初めて鼓笙は戒の恐ろしさを知った。
自害する前の平家の顔は、もうひとのものではなかった。何一つ躊躇せずに一気に首筋を掻き切った姿が鼓笙に底知れない恐怖を植え付けた。すっかり混乱して、ずっと戒に恐怖を抱きながら、体調を壊すまで耐えてきた譜にそれを打ち明けてしまったことを後悔した。
ますます譜は、荒々しい呼吸をして顔を歪めながら眠ってしまい、いまだ目覚めない。
何もかも混乱のなかで起こした不始末だ。随分と情け無い有様だ。
鼓笙は、冷静を取り戻すために、父から授かった刀を手にした。
身体が竦む思いだった。しかし、刀の手入れをしながら、ゆっくりと冷静に決意を固めていった。
その時だった。
使用人が寿院の訪問を伝えに来た。
「若様、どなたか変わった風情の者を連れて、唐菓子売りが若様に会いたいとお越しです」
鼓笙は、昨日の平家の訪問で恐怖を植え付けられたせいで、突然の訪問者に敏感な反応をする。
「誰だ?いや、帰って貰ってくれ」と、鼓笙はかすかに震えた声で言った。
「宜しいのですか?詩束様についてお話しがあるとおっしゃっていますが?」
「えっ?詩束だと…唐菓子売りがか…?何でだ。いや、わたしは会わないぞ。またにしてくれと伝えてくれ」と、鼓笙が言う。
使用人は、「承知いたしました」と、言うと、それ以上は何も言わずに去った。
唐菓子売りは使用人が戻って来るまで、意味のない質問を繰り返していた。空返事を続ける寿院は、屋敷の影で見えなくなった、奥の中庭の方へ視線を投げ、隆鷗の身を案じている。
「だいたい寿院の旦那が詩束様に何の用があると言うんですか?」と、唐菓子売りが言う。
「いや、詩束というひとに用があるわけではないんだが…」寿院は面倒くさいと思いつつ話を続けていた。
「詩束様でなければ誰に用があるんですか?そう言えば、詩束様って、最近めっぽう評判を落としてますよね。鼓笙様もあまり詩束様を呼ばなくなったと聞いてますよ」
「へえー?それはまたなんでだろうね?」と、寿院は、その噂は聞いているが、気になっていた。
「五日ほど前だったかな?鼓笙様から唐菓子の注文を受けたもんだからお届けしたんですよ。中庭の方へ周ってと言われたものですから、鼓笙様のところへ直接お持ちしたのですが、その時、障子の向こうから女の子の声がしたんです。病でも患っていたのか、たいそう具合の悪そうな声でした。その時、鼓笙様が詩束様のことを言ってたような気がします。あれはひどく怒っていた声でした。詩束様に怒っていたかどうかは分からないですけど。あんな鼓笙様の声聞いたことがなかったので、驚きましたよ」
「女の子の声?お客様なのか?」
「そうですね。少なくとも使用人ではなかったから、お客様とは思うんですけど。しかし、怒ったかと思ったら、今度はすごく不安そうな、弱々しい声が聞こえてきた。なんか、あの時尋常じゃなかったなぁ」と、唐菓子売りが空を見て情景を想像しながら話した。「その時、聞こえたんです」
「ん?」と、寿院は、咄嗟に唐菓子売りの顔を真正面から見た。
「詩束の名前を騙って…という言葉が飛び込んできたのです…もしかしたら…」
その時、唐菓子売りの言葉を遮るように、先ほどの使用人が鼓笙の、断りの返事を伝えに来た。
「いや、駄目だ。今、会わなければならない。なんとかしてくれ。間に合わない」と、寿院は、唐菓子売りに頼んだ。
「ま…間に合わない…?分かった。もう一度、お願いしてみるよ」
唐菓子売りが頼むと、使用人は嫌々ながら、承諾して再び鼓笙の元へ向かった。
「頼んだよ」と、使用人の背中に向かって寿院は叫んだ。そして再び、屋敷に隠れて見えない中庭の方を見た。
隆鷗は大丈夫だろうか?
寿院は心配気だった。
隆鷗を一人にしてしまったことを後悔していた。
その頃中庭では、みよが呆然と立ち竦んでいた。
障子がピシャッと閉まった。
間違いなく少年は、しのさんがいる部屋へと入っていった。ひとつも迷わず、真っ直ぐに…。
みよは、何が起こっているのか、少しも理解することが出来なかった。
何故、分かったのだろうか?
みよは、しのがいる部屋は教えていなかった。しのが眠り病に罹った最初の場所となった庭石を指差して、状況を教えていた時、あの少年は、明らかにしのがいる部屋を見据えていた。
ただの予想なのか?使用人の部屋なら、おおよその見当はつくかもしれないが、それにしては、迷わず真っ直ぐとしのの部屋に入っていった。
多分、あの少年がこの屋敷に来たのは始めてだ…。
恐る恐るしのの部屋へと近づいたみよだが、ある程度近づくと、そこから一歩も動けなかった。何故だか分からない。何かが押し留めているような気もするが、障子がひどく遠くに感じた。障子の前にある廊下にいつも飛び乗っていたのに。そこはいつものそこではなかった。
みよは、部屋に入ることができず庭でじっと待った。
隆鷗が部屋に入ると、婆様は、座布団にただ座っていた。ぽつりと…。
部屋に入って来た隆鷗の気配が分からないのか、ただ真正面を向いたまま、身動きひとつしない。
そんな婆様を見て、隆鷗は立ち竦んだ。息を呑むのも忘れて、驚愕と、恐怖の入り混じった表情で暫く時が止まったように動かなかった。
婆様の目蓋が薄っすらと開いていた。線を描いたくらい細く開かれていた。そしてそこから無数の細い腕が出てきて、婆様の身体の全てを抑え込んでいた。肩、腕、手、指を眼孔から細い腕が伸びて、小さな掌が掴んで押さえ込んでいる。太ももも膝も…。耳の穴も塞いでいた。そして、不思議なことに眼孔から出てきているのに目蓋を閉じさせる為に引っ張っている。
なんだこれは…。
隆鷗は、ゆっくりと婆様に歩み寄った。
「こんな姿で長い間…」隆鷗は、涙が出そうになった。
よく見ると、婆様の目の下がからからに乾いて皮膚がぼろぼろだった。
たくさん泣いたのか?涙は止められなかったのだな。
隆鷗は試しに耳の穴を塞いでいる細い腕を掴んでみた。両の耳の穴を塞いでいた数本の腕がざわめく。何本かの腕を掴むことができた。
隆鷗は、思いっきり引っ張ってみた。一切に全ての腕がざわめいた。何本かの腕が取れて消滅した。
「婆様聞こえる?今、自由にしてやるからね」
隆鷗が刀を抜いた。婆様の身体に纏わり付いている無数の腕を大振りで斬ることはできない。婆様の身体を傷つけてしまうかもしれないからだ。隆鷗は、数本の腕を掴むと、ざわつく腕を狙って斬った。そして、それを何度も繰り返した。
婆様の身体から細い腕が消えた。最後に眼孔から出ている数本の腕が抵抗しているのか、規則性のない激しい動きで攻撃しているようだった。
隆鷗は、ひと摑みで動きを抑え、一気に引っ張って抜き取った。腕が消滅する。
婆様の身体が前に傾いた。咄嗟に両手で支えた婆様に力が蘇った。
そして、ゆっくりと目蓋を開けて、婆様は不思議そうに両の掌を見た。次第に荒々しく呼吸をすると、身体中を触り始めた。
「私だ…」と、婆様が呟く。
「良かった」と、隆鷗が呟いた。
その声に気づいた婆様がゆっくりと隆鷗を見た。
「大丈夫ですか?」と、隆鷗が尋ねた。
「神様ですか?」と、婆様が尋ね返した。
「いえ、神様ではないです」と、隆鷗が答える。
「私はいったいどうしてしまったのでしょう?身体が動かなくなって、目も見えなくなって、何も聞こえなくなってしまった。どれくらいの月日が過ぎたのでしょう。ずっと苦しくて辛くて、悲しくて…。いつもいつも生きているのか、死んでいるのか全然分からなくて…怖くて怖くて…」
「生きています」と、隆鷗は言った。「婆様は強いひとです。諦めずに生きたんです」
「………」
婆様はおそらく泣いていたのだろう。しかし、枯れた涙が出てこないのだ。
「今、婆様のことをすごく心配していたひとを呼んできますね」
そう言うと、隆鷗は、障子を開けて、みよを呼んだ。
「婆様、目が覚めたよ」
みよは、驚きのあまり声が出なかった。思わず廊下に飛び乗り、部屋に入ると、「しのさん!」と、これまでに出したことのない声で叫んだ。
その時、小さな声で「みよちゃん」と、婆様が囁いた。
「しのさん!しのさん。しのさん…」と、みよは叫び続けた。
まもなく、すごい足音をたて、鼓笙が飛んで来た。
「どうしたんだ。しのに何かあったのか?」
廊下を走る鼓笙はしのの部屋で止まることができずに危うく庭に飛び出しそうになった。踵を返し再びしのの部屋の前で止まるも勢い余ってつんのめってしまった。
ようやく部屋の前に立ち、しのを見ると、しのの目が大きく見開いて、しっかりと鼓笙を見ている、生きた輝きを帯びている瞳だというのが分かった。
「しの…」と、鼓笙が呟く。
「若様、私…随分若様にご心配をおかけしたのではないかと…」と、言う言葉を遮って鼓笙はしのに抱きついた。
「しの…しの…良かった。良かった」
暫く鼓笙はしのに抱きついていたが、みよが鼓笙の袖を掴んだ。
「若様、若様、この方が…」
しかし、暫く鼓笙の耳には何の言葉も入らない様子だった。
なんか微笑ましいなぁ。
そんな様子を見ていた隆鷗は、羨ましくもあった。こんなに暖かい家だ。これまで幸福に包まれていたに違いない。なのに、呪いを引き入れてしまった。いったい何処の誰がこんなモノを連れて来たのだろうか?
幸福を壊される理由が何処にあったのだろうか?
「あっ?みよ、すまない。どうしたのだ?」と、ようやくみよに袖を掴まれているのに気づいた鼓笙が振り返った。
「若様、この方がしのさんを起こしてくれたのです」と、みよが言った。
鼓笙は、みよに促され隆鷗を見た。
「誰ですか?」と、鼓笙が驚いて尋ねた。
「えっ?」隆鷗は、鼓笙の言葉に何と返せばいいのか分からなかった。
「みよ、怒っているのではないからね。知らない子供がどうして奥の屋敷にいるのだ?」と、鼓笙は不思議そうに尋ねた。
「えっ?若様は何もご存知ないのですか?」と、みよも不思議そうに尋ね返す。
「はて、何も存じないとはどう言う意味だ?」と、鼓笙が再び尋ね返す。
「えーと…」と、みよが困った顔をする。
「うーん、君は誰だ?」と、再び鼓笙が尋ねた。
「おじさんは藤原鼓笙?」と、隆鷗が尋ね返した。
「えーと。呼び捨てにしたことを怒っているわけではないからね。わたしが藤原鼓笙ですが?先に名乗るのが礼儀です!」
「て、言うか。おっさんと話していないのか?」
「おっさん?で、わたしはおじさん?それで、おっさんって言うのは誰のことなんだ?」
「あっ。すみません。つい…。わたしは寿院の連れです。てっきりもう寿院と話していると思っていました。おじさんとか言ってすみません」
隆鷗がそう言うと、鼓笙が黙った。
「じゅいん…?」鼓笙が呟いた。「じゅいん…じゅいん」と、ずっと呟いていたかと思うと、突然「じゅいん」と、叫んだ。「じゅいんは何処にいるんですか?」
鼓笙が隆鷗の肩を掴んだ。
「えっ?先程、お家の方が伝えてくれたと思っていましたが?」
「えーと?確かに…でも、唐菓子売りだったと思うけど…」
「あっ、それです。唐菓子売りの方が間に入ると言ってましたから。急に見ず知らずの者が訪ねて来ても会ってくれるか分からないですから」
鼓笙が愕然とする。
「これまでに三度。確かに使用人がわたしに伝えに来たが、わたしは怒鳴ってしまった。ここ数日、ごたごたがあって、今は会えないと言ったのだが、しつこく会わせろというので、つい先程怒鳴ったのだ。その顔を見せたら、この手で斬るぞと…つい。もう去ったのではないだろうか?どうしよう」と、鼓笙は、なりふり構わずあわあわと慌てた。
「鼓笙様、落ち着いて下さい。寿院がわたしを置いて去ったりしません。まだ、門の中にいると思います」
「おおぅ、それは本当か。君には御礼もしていない。わたしが寿院殿を迎えに参ろう。君は、わたしの寝殿で待っていてくれ。御礼と、そして相談もあります」と、言って、鼓笙は急いで門に向かった、隆鷗にしてみたら不自然なほどの慌て様だった。
「ついに怒鳴って斬るかぁ。今日はもう無理ですよ。旦那」と、唐菓子売りがおどおどして言った。
「斬るとまで言ったのは、鼓笙様に何かあったのだろうね。お前さんが聞いたという声の主、お客人に関わることかもしれない。それに昨夜の平家の家臣の自害。だとしたら、本当にここを離れるわけにはいかない。すごく嫌な予感がする」
「いったい何があったのですか?いい加減手前にも話してくれませんか」
「いや、お前さんを関わらせるわけにはいかない。そんな単純なことではないのだ。お前さんはもう帰った方がいい。お前さんの為だ」
「旦那はどうするんですか?」
「隆鷗が戻ったら、何処かで野宿でもして、また明朝来るよ。会ってくれるまで何度でも来るよ。お前さんのここの婆様のことはわたしが必ず何とかするから、もう帰りなさい」
「そうですか。でしたらそう致します。考えたら、そうですよね。昨夜ここで訪問者が突然自害したんですものね。そりゃそうだ。旦那も気をつけて下さい」と、そう言って、唐菓子売りは自分で門を開けて去っていった。
今日は、白水家の時からずっとだ。普通の日と違う、なにやら時の狭間に迷い込んだように怪しい気配がする。これまで蓄積した悪い気が一度に吹き出して、ぽっかり開いてしまった真っ暗な穴のなかに放り込まれたような不安を感じる。
それは寿院のこれまでの経験から生まれる危機感だった。
寿院は、屋敷を眺めた。
この静かで厳かな屋敷の中でいったい何が起こっているのだろうか?
ところが、そんな静けさとは場違いな声が響いた。
「寿院殿はいるかー?」
寿院は、我が目を疑った。
慌てふためいて男が走って近づいてくる。
「わっ?なんだ?」
「寿院殿か?」
男は履き物も履いていなかった。
「わたしは、藤原鼓笙という者です」と、男が言った。
「えっ?なんで…」と、寿院は心の中の声が口に出た。
「あなたに会いたかったのです」と、鼓笙が微笑む。
「えっ?でも、顔を見せたら斬る。と…」寿院が不思議そうに言う。
「あれは…あなたにではないです。唐菓子売りが…詩束のことでとか言うから。こんな時に何故…?と、つい腹が立って」
「………?」
「最初からあなただと分かっていたら、こうやってわたしの方から出向きましたのに」
「えっ…?」最初からわたしがきちんと名乗っていたら、こんな面倒くさいことにはならなかったというのか?
寿院はため息をついた。
「お察しの通り、わたしが寿院です。それで、その歓迎ぶりは何なのでしょうか?」と、寿院が不思議そうに尋ねる。
「あなたのことを譜がずっと探していたのです。そして、わたしも譜に頼まれて探すところだったのです。こんなことってありますか?そして、あなたの連れの少年がわたしの…わたしの侍女のしのを救ってくれた。おそらくあなたはわたしの救世主だ」
侍女のしの…?
そうか。唐菓子売りが言っていた奇病を患った婆様のことか。そうか。隆鷗が救ったのか。白水優雨幻を救ったみたいに。あの子供は本当に凄いな。
「わたしの連れが救ったというのなら、あなたの侍女は、病気とかではない。呪いだったということです」と、寿院は言った。
「呪い?」
「そうですよ。呪いですよ。あなたの屋敷は、厳かで静かだ。そんな屋敷の中に呪いが存在しているんですよ」
「呪い。この屋敷の中に呪いが存在しているのは、全てわたしの責任です。わたしのこの隙だらけで節操のなさが、呪いを招き入れてしまったのです。そして、事もあろうに大好きなひとにその呪いを押し付けてしまった。そのことに気づかないまま…。そして、今日までそのことにずっと蓋をしていた。気が付いた時には、わたしの好きなひとが呪いのなかで苦しんでいる。なのにわたしはまだ蓋を開けていない…」
辺りにすっかり闇が降りていた。陽が暮れ始める時の早さは、追いかけたり逃げたりするように急かされる感覚だ。
「鼓笙様、わたしの連れが異様に野宿を嫌うので、誠にすまないことですが、今晩は泊めていただくことはできましょうか?」と、寿院は言った。
「勿論です」と、鼓笙が答えた。
そして、二人は厳かで静かな屋敷の中へ入っていった。
やっと出会うこたができた寿院と鼓笙。鼓笙は、これまでの不安や後悔の念など、全て寿院に吐き出してしまう。寿院は、それを黙って聞いていた。
ただひとつ、何故、譜が寿院を探していたのか?それが今ひとつ釈然としなかった。
そして、隆鷗は、鼓笙の屋敷でひとり、不思議な光景に出会した。その光景とは…?
次回「化け物とは…。」




