蜘蛛の巣
信蕉から新たに譜の情報を聞いた
寿院は、自分が持っている情報網を
使って必死に譜を探し出す。
一方、寿院がいない家では
隆鷗と秋が、仲が悪いながらも
平和に過ごしていた、
そこに魔の手が忍び寄ってくる。
戻って来た寿院を魔の手が襲いかかる。
寿院と隆鷗の信頼を深める話しです。
隆鷗が目が覚めたのは、翌日の陽が沈みかけた時刻だった。意識を失って随分眠っていたようだ。高熱が下がって目覚めた時には寿院の姿はなかった。
しかし、寝床に寿院からの文が置いてあった。
もう薄暗くなった部屋で隆鷗は目を凝らして読んだ。
“戻ってくるまで何処にも行くな…寿院”そう書いてあった。
じゅいん…。
やっぱりあの人が寿院だ。
隆鷗は、寿院の文を読むと、自分でも驚くほど、ほっとしていた。
身体を見ると傷の手当ての跡があった。寿院がしてくれたのか?それに砂埃にまみれた顔も腕も足も綺麗に拭かれているのが分かった。そして、随分身体の具合が良かった。
暗くなりかけた部屋を出て、音がしていた台所に行くと、黒司秋が何やら料理を作っていた。
「やっと目覚めたのですね」と、秋が言う。それと同時にもわもわの目ん玉が黒司秋の身体から現れた。
「おう…」と思わず目ん玉を見ると、ああ、また目が合ってしまった。と、すぐに目を逸らす。
その時、もわもわの目ん玉が笑った気がした。
「寿院さんがもうすぐ帰ってくると思います。だから粥を作っています」と、秋が言う。「すごく眠っていましたね。寿院さんずっと心配していましたよ。不思議なひとですよね。会ったばかりなのに…」
隆鷗は、ぼんやり立ち竦んだ。何をしていいのか分からなかったからだ。
「あすこに何だか分からない引戸があるでしょう」と、唐突に秋が言う。
あすこという具体的な方向を指し示さない秋の言葉に戸惑いながら、勝手口とは反対側を見ると、確かに引戸がある。
「あの引戸の中に何があると思います?」
秋の言っていることがあまり理解できず隆鷗はただ首を傾げた。
「本当にものを言わない人ですよね。なんか損ばかりしているっていう実感ないですか?」と、秋が言うが、やはり隆鷗は首を傾げるばかりだった。
「なんか張り合いのないひとだなぁ。何か答えてくれるのかなと思ったけど、なんかもう面倒臭くなる。あそこに米が沢山貯蓄されているんですよ。それだけではなく、野菜も酒も沢山ある。寿院さんって、いったい何をしているひとなんでしょうかね…と聞いても、どうせ答えないか。つまり僕たちみたいな見ず知らずの子供の面倒を見ても、全然大丈夫なんですよ。僕は暫く寿院さんにお世話になりますので…お前も…まぁ、どうでもいいか」
そう言うと、秋は黙って鉄鍋を眺めた。
そしてもわもわの目ん玉がずっと隆鷗を見ているので、だんだん隆鷗も目ん玉と目が合うのを避けなくなっていった。
おそらく秋よりずっと親しみを感じているに違いない。
その日、寿院はなかなか帰って来なかった。隆鷗は、粥を食べて、青斬刀の手入れをしてからすることがなかったので、早々に寝床に入った。
夜更けに隣りの寝床に寿院が寝ているのを見かけたので、いつのまに戻っていたんだ。と思いながら、すぐに眠ってしまった。
朝が来た…。
隆鷗は、唐突に目を覚ました。寿院が出かけないうちに起きると強く意識していたからだ。
しかし、遅かった。綿の詰まった着物がまるで人が羽織っている形をしていたので、一瞬期待したが、すぐに空だと分かった。
秋は、隆鷗よりも、早く起きていて、朝から元気に仕事をしている。とっくに粥は出来上がっているし、勝手口の外に大きな盥を置いて洗濯をしている。
すごいやつだなー。と、隆鷗はただ感心するしかなかった。
隆鷗も、真似てみようと、本堂の床の拭き掃除を買って出た。
しかし、すぐに床に座って“書”を眺めた。祭壇に掛かった掛け軸なのに、すぐに祀っているわけではないと思ったのは、瞬時に“鶏”の文字が目についたからだ。鶏は祀らないだろう。
改めて見ると、“鶏肋”と書いてあった。
あぁ、鶏肋か。
三国志だよな。鶏肋…。思い出すなぁ。兄上といろいろ推測し合って、どっちが正しいかとか蝸角の争をしていたが、兄上はいつも熱くなっていたなぁと、かすかに隆鷗は笑った。
定軍山の戦いで夏侯淵を討ち取った劉備が漢中王を名乗ったことに腹を立てた曹操。漢中を奪還するために自ら陣頭指揮を取ったが、思いの外苦戦する。進退を思案しながら鶏がら湯を食べていた曹操が何気に呟いた「鶏肋」という言葉を夏侯惇が全軍に伝達してしまった。
それを聞いた楊修は早速撤退の準備を始めるよう全軍に命令した。鶏肋とは鶏のあばら骨のことだ。捨てるには惜しいが、肉はついていない。腹の足しにもならない。漢中は惜しいが撤退の潮時と、そう楊修は読み取ったのだ。
それを後から聞いた曹操はひどく怒って、士気を下げる流言を広めたと楊修を死刑にした。
楊修に真意を読まれた曹操は、将来の憂いとなる楊修を排除したかったから死刑にした。という兄上に対し、わたしは、たった一言、余計な事言うからだ。と、呟いた。
兄上は呆れていた。しかし、幼いわたしは、楊修が大きな影響を与えた曹植と、曹丕との後継争いの背景など知らなかった。切り取られた出来事でひとの思いなど測れない。
しかし、なんだって、こんなものを掛けているのだろう。何か思うところあるのだろうか?それとも粥の出汁のことなのか?何かあの人だったら有り得ないこともないなぁ。
そんな感慨に耽っていると、突然秋が声を掛けてきた。
「何かぼんやりしてるなぁ。もしかして、役立たずなひと?床拭きの用意だけはできているんだな。だけ…ですけど。それとも腹減ったの?鶏の書をずっと眺めているけど…。台所で粥でも食べな…あっ、そんなことはどうでもいいんですけど…三軒隣りの紗々さんが産みたての卵をくれるって言うから貰って来る。しっかり留守番しててよ。あっ、呪符貼ったやつ見かけたら、ちゃんと捕まえといてくれよ」
そう言うと、秋は籠を持って、急いで出て行った。
今日は何故か、はめ殺しの篰戸が取り外されていた。だから本堂から門を出て行った秋を最後まで見送ることができた。秋が取り外したのだろうか?よく働くやつだ。
一方寿院は、都に朝陽が登る少し前から動いていた。もちろん白拍子の譜を探している。
白拍子の詩束は結構名の通った舞い手だった。しかし、最近その評判を急激に落としているという。
それは、近衛家の宴での話しから、ある一部のものに流布された噂に過ぎなかった。しかし、そうした話しは意外と、留まることなく、尾鰭がついて静かに広まっていく。
近衛家の宴といっても実際は摂関家の宴ではなかった。一説によると基房の名を語った家臣の子息と、その遊び仲間が主催した歌会だったという噂が飛び交っていた。
しかし、歌会の主催がどこの者であろうと、さして民には興味がない。
民の興味は白拍子の詩束の方だ。詩束の姿など誰も見たことこともないのに、アメノウズメに例えて、神様が降りて詩束の身体に宿って舞う姿はこの世のものではないほど美しいといった詩まで創られ、下級貴族から民へと広がっていった。
寿院の情報収集は、いつも決まっていた。まず、行商人から情報を集めた。行商人の情報は馬鹿にならない。寿院には縁のない貴族のことを調べるには最適だ。ただ、貴族の情報を知っているのは絹、麻などの衣類やかんざし、御櫛などの装飾品また魚や京野菜、菓子など、直接屋敷に出入りできる数限られた行商人を探すことから始めなけらばならないので、すごく時間がかかった。
それからこれまで寿院が厄介ごとを解決した貴族を訪ねた。さすがに上級貴族はいないが、知り合いの範疇なら意外と、“聞いた話しなんだけど…”から始まる無責任な話しが聞ける。寿院にはそれはわりといい情報だ。他の情報の断片と組み合わせることで無責任な話しも昇華する。しかし、その移動距離と時間は半端ない。
そして寿院には取っておきの情報通がいた。それは三軒隣りの獅舎爺さんと獅舎爺さんに紹介された虚言様だ。最後の砦だ。
さすがに寿院は疲れた。移動時間を考えると、だいたい1日に二人に会うくらいが丁度いい。信蕉が訪ねてきてから、いったい何人と会っただろう。
取り敢えず今日は休息だ。明日が本番だ。
夕刻までまだありそうだ。隆鷗とも話さなければならない。
そんなことを考えながら、寿院は家の門に入った。
はめ殺しの篰戸が取り外してあった。庇の下の廊下から本堂が丸見えだ。
「へぇ、これはこれでなかなかいいな。気が利いている。どっちがやったのかな。まぁ、そうだな。秋だろうな」と、独り言を呟きながら、廊下に近づいていく。
「へぇ、今日は床も綺麗に拭いてある」寿院は、廊下から履き物を脱いで上り込み、中腰になってずずずと本堂まで移動した。
真正面には師匠が書いた「鶏肋」の書が目に入ってくる。
何で師匠からその書が贈られたのか、寿院にはさっぱり意味が分からなかった。
しかし、そんな鶏肋になんか違和感があった。
「ん?」
何だろう?
虫か?
寿院はゆっくり立ち上がった。
鶏肋の鶏と助の間に、何か、真っ赤な…?赤い虫?師匠の書に何と不届きな!と、思いながら、ゆっくりと寿院は顎を撫でながら鶏肋に近づいていった。
「何だ?」
そして、それを唐突に寿院は理解した。
えっ?まずい…!と、思った時、目ん玉に星が弾け飛ぶほどの衝撃が起こり、一瞬、意識が飛んだ。視界がひっくり返ったが、すぐに冷静さを取り戻した。
すると、変な姿勢を保った隆鷗がいた。
身体が斜めに仰ぎ見た姿勢のまま全然動かず、左手は天井に伸びて、右手は首を掴んで、苦しそうにしている。
「うぐっ…」
寿院は冷静に考えた。
先程の衝撃は、隆鷗が勢いよくぶつかってきたのだ。
何の為に…。
鶏と助の間に呪符が貼ってあったからだ。寿院は、それが何なのか気がつくまで、ずっと直視していたのだ。隆鷗が自分を突き飛ばした理由など容易に想像できた。
そして、寿院は、隆鷗の不自然な姿をじっくり見つめた。
仰ぎ見た姿勢が保てるのは首、腰、足に何かが絡みついているからだ。でなければひとがそんな姿勢を保てない。
「ぐっぐっ…くも…の…す」と、隆鷗が必死に言う。
蜘蛛の巣と言ったのか?
寿院は、本堂に巣食う蜘蛛の巣を空想した。そこにぴったりと隆鷗の身体がはまるまで集中した。
やがて、ぴたりとはまると、寿院は遠回りをして、蜘蛛の巣を避けて、急いで隆鷗が持っている青い刀を持ってきた。
「大丈夫だ。わたしを信じろ」
寿院は、隆鷗の身体から想定した蜘蛛の巣を一本一本青い刀で斬った。その度に隆鷗の身体が揺れ動く。それを見て、見えないものが斬れている確信を得ながら斬っていった。
やがて、隆鷗の身体が床に崩れ落ちた。ひどく呼吸が乱れている。
最後に隆鷗がもがいている。その動きを見ていると、身体に纏わりついているものを剥ぎ取っているのが分かる。
「大丈夫か?」と、寿院が言うと、不思議そうな顔で隆鷗が仰ぎ見る。
寿院は辺りを見回した。
「篰を外したのは黒司秋か?」
隆鷗は、頷く。
「誰の気配もなかったのか?」
「気づかなかった」
「黒司秋は何処にいる?」
「三軒隣りの紗々さんのところに卵を取りに行くと出掛けた」
「いつ頃だ?」
「陽が真上に上がる少し前だった」
「何だ?いったいどれくらい紗々のところにいるんだ?本当に肝心な時にいないな」
寿院は、鶏肋を見た。
呪符が消滅していた。
「呪いが無くなると消えるのか?門に貼られていた呪符もいつのまにか消えていたな」
寿院は、隆鷗の着物を整えた。その時、首と胸元に赤く腫れた内出血が見られた。
「休むか?」
「いいえ…」隆鷗はまだ唖然とした表情をしていた。
寿院は深いため息をついた。
黒司秋が戻ってきたのは、そんな時だった。沢山卵が入っている籠を抱えて、向き合って座っている寿院と隆鷗を見ながら、籠を廊下に置いた。
寿院の表情が一瞬で変わった。
「おぅ、また沢山貰ってきたな」と、寿院が笑いながら言う。
「でしょう。卵を集めながら、鶏小屋も掃除したんです。だからこんなに集まりました」と、秋もニコニコしながら答えた。
「今晩はその卵でどんな料理を作るとしようか?」と、寿院が言う。
「考えてみます」と、秋が言う。「ところで何かあったんですか?」
「何がだ?お前さん紗々のところに行ってたんだっけ?」
「はい。紗々さんっていいひとですよね。美人だし」と、秋が返す。
「おいおい、惚れるよ。お前さんまだ子供だし。それで爺さんはいたか?」と、寿院が尋ねた。
「いましたよ。何か軒下の廊下でぼんやりと、鶏小屋を掃除している僕のこと見てましたよ。あの爺さん、何も喋らないで、ぼーっとしてたんですが、大丈夫なんですかね。喋りかけても反応がないんですよ」と、そう言いながら、秋は履き物を脱いで廊下に上がり、籠を置いたまま中腰で寿院の傍に寄って来た。
そして、じっくりと隆鷗を見つめた。
「何かびっくりしたような顔をしている」と、秋が言う。
「ああ、いえ、何もびっくりなんてしてません」と、隆鷗は、はっとして呟いた。
「あっ?喋った」と、逆に秋が驚いた。
その時、もわもわの目ん玉が現れた。そして、すぐに部屋をキョロキョロと見回した。まるで何かを探している様子だ。
隆鷗は、秋に「普通に喋ります」と、何気に返答をした。自然に振る舞うためだ。
もわもわの目ん玉の行動が少し気になった隆鷗は、わざと伸びをして、観察した。すると、秋の身体から少しずつ離れていく。秋にはくっついたままなので、もわもわがどんどん伸びていった。そして、鶏肋の書のところまでいくと、暫くじっとしていた。
えっ?何故そんな行動をとるのか?不思議に思った隆鷗は暫く視線を動かせなかった。そして突然振り返ったもわもわの目ん玉と目が合った。驚いたのはもわもわの目ん玉の方だった。一瞬にして、秋の身体のなかに消えていった。
なんだろう?何か気配を感じたのだろうか?もう呪符は消滅しているのに…?
隆鷗が首を傾げていると、寿院が隆鷗を呼んだ。
「隆鷗君は時々心ここにあらずみたいにぼーぅっとするよね」と、寿院が言う。
「えっ?隆鷗…って?」
「ああ、隆鷗って言うんだろう。君の持ち物のなかにそう書いてあった」と、寿院が言う。
持ち物って…苞寿様の文のことだろう。読んだのか?
寿院が卵の入った籠を抱えて台所の方へ行くと、その後を秋が追いかけた。
ひとり取り残された隆鷗は、ぼんやりした。暫く動く気にはなれなかった。
寿院という男…?
なんと不思議なひとだろうか。これまで会ったどの大人とも違う。
寿院が戻ってきた時、隆鷗は裏庭にいた。朝、早いうちから洗濯をしていた秋が裏庭の半分の場所を使って着物を干していた。
隆鷗は、裏庭から見える遠くの小高い山々をただぼんやりと見ていた。
どれくらいの時が流れただろうか?漂う微風にわずかな異風を感じ、隆鷗は台所を繋ぐ渡り廊下から本堂に入った。左右にはそれぞれ孤立した大部屋と小部屋があり、出入口は台所側にあった。大部屋は寿院と隆鷗が使い、小部屋は秋が使っていた。その真ん中に廊下がある。そこを進むと本堂に出る。
隆鷗は急いで、その廊下を進んだ。すると、本堂の真ん中に、何かをしきりに見ている寿院がいた。その視線の先には、異様な動きをしている、無数の蜘蛛の糸のようなモノが寿院めがけてわさわさと沸き出ている。
隆鷗は咄嗟にそれが極めて危険なモノだと察した。
よく見ると、それは鶏肋の書から出ていた。おそらく寿院には見えていないはずだ。寿院はいったい何をしきりに見ているのだろうか?しかし、無数の蜘蛛の糸は容赦なく寿院に近づく。考えている場合ではなかった。隆鷗は、力一杯床を脚で蹴り上げて、寿院目掛けて突進した。
間一髪で間に合ったが、隆鷗が無数の蜘蛛の糸に囚われてしまった。動くたびにそいつは肌に食い込んできた。自分がどんな姿で囚われているのかさえ分からない。
失敗だ。
この無数の蜘蛛の糸は寿院には見えない。何故、隆鷗が固まっているのか理解できないだろう。これが逆だったら隆鷗が助けるはことができたのだ。
後悔しても、もう遅い。
首が異常な力で締められていた。
苦痛の中、隆鷗は目を凝らして、鶏肋を見た。この「縛り」の呪いが何処から沸き出ているのか確かめた。目の前に巨大な赤い図形が見える。まるで自分ひとり違う空間にいるみたいだ。その図形の中央から化け物が姿を現わそうとしていた。蜘蛛のようだ。
やはりこれは蜘蛛の巣だ。
駄目だ。もうどうすることもできない。
蜘蛛の巣も蜘蛛もきっと幻覚に違いないのだ。幻覚なのだ。この幻覚を虚空に戻さないと…。しかし、いったん認識した、限りなく現実に近い目の前の事象を覆すなど、到底無理なのだ。それでも隆鷗は抗った。
やがて少しずつ、蜘蛛の糸、一本一本が解かれていくように「縛り」が緩くなっていく。一本…また一本と、どんどん緩くなった。遂に解放され、床に崩れるように落ちた。隆鷗は、その瞬間、目の前の巨大な赤い図形を見た。壊れている。そして、その図形の間から鶏肋の中央にある呪符を見た。呪符もまた細かな煤のようになって散っていく。
また、呪符なのか…?
なんと恐ろしい呪いだろうか。
周りの光景が本堂に戻った。
驚くことに、隆鷗のすぐ傍に青斬刀を持った寿院が立ち竦んでいる。両肩が波打ち、ひどく恐ろしい顔をして、鶏肋の方を見ていた。
隆鷗は、ひとつも事態を飲み込めなかった。何が起こっているのだろうか?
青斬刀…?まさか…?
蜘蛛の糸も蜘蛛もまったく見えない人間が、その青斬刀で斬ったというのか…?
あり得ない。
隆鷗は、不思議な表情で寿院を見た。もう先程の恐ろしい顔ではなかった。
寿院の優しい手が隆鷗の着物を整えた。
そして、寿院は、呪符のことを黒司秋に伝えなかった。
隆鷗は、寿院のその意図が測れない。
その夕刻。
夕餉を終え、蔀戸を嵌め終わった時のことだった。
寿院は、満面の笑みを浮かべて「隆鷗君、明日わたしに付き合ってくれないか?重要な証人をやっと見つけることが出来たのだ。その証人の知人の所へ話しを聞きに行きたい。その前に一つ寄りたい所もある」と、言った。
隆鷗は、何だろうと思いながら、微かな恐怖を感じたが、承諾した。
その時、姿を見せなかった秋が慌てて台所の方から飛んで来て話しに割り込んで来た。
「あっ!なんか、僕抜きで面白そうな話ししていませんか?」
「なんだ?突然…。すごい勢いで飛んで来たな。…って言うか?なんで聞こえた?」と、寿院が驚いた。
「えっ?なんで聞こえないと思ったんですか?この静けさなんですよ。耳鳴りがうるさいくらいです。ひとの声って、響くんですよ」と、秋が言う。「えっ?もしかして、僕の悪口かなんかですか?」
「だったらどうする?」
「えっ?僕、なんか悪口言われるようなことしましたか?」
「いや…悪口なんか言うかよ。お前さんが苦労して、取り外した篰戸をはめたんだよ。その音は聞こえなかったのか?」と、寿院が呆れたように言った。
「ああ、聞こえてましたよ。せっかくいい季節になったのに。今夜は月でも見ながら、のんびりしようかとか考えていたんですが…」と、秋が言う。
「おお、いいね。と、言いたいところだが、一応な」と、寿院が言った。
「あぁぁ、やっぱり何かあったんですね。あの時、僕が紗々さんの所から戻った時、何か変だった」と、秋が隆鷗を見た。
「なんもないよ」と、寿院。
「そうなんですか?だったらいいんですけど…」そう言うと、秋は何か思い出しのか、笑い始めた。「だけど…お前面白いよね。寿院さん聞いて下さいよ。こいつあの鶏の書をじっと見ていたんですよ。腹でも空いていたんですかね。すごく真剣に見ていたんですよ」
「可笑しいか?」と、寿院は笑わない。「鶏肋か?隆鷗君知っているのか?」
「三国志。ちょっと昔のこと思い出して…」と、隆鷗はぽつりと呟いた。
「知っているのか?子供のくせに…。君の両親はさぞ立派な方だったんだろうね」と、寿院が言う。
「三国志…?」秋がポカンとした顔をする。
「普通、知らないから、恥じることではない」と、寿院が秋に言う。
秋はひどく不満そうな顔をした。「なんだよ三国志って…?」
「恥じることはないと言っただろう。後漢書とか、三国志演義の話だ。知っている方がすごく珍しいんだ。気にするな。それにしても隆鷗君が鶏の書を見ていたなんて、わざわざ報告することでもないだろう。お前さんが食いしん坊だからだ」と、寿院が笑った。
しかし、秋の不満な顔が消えることはなかった。
鶏肋…。
秋が知ってさえいたら、わざわざわたしに言ったりしなかっただろうな。
隆鷗と呪符を関連付けたかったか?呪符を貼ったのは隆鷗だとわたしに疑念を抱かせたかったのか?
何故、そんなことをする必要があった?
寿院は憂鬱だった。
白水家の大立ち回りで
『呪い屋』一味が去ってしまったかに
思われた白水家だが、
門にはいまだに警護が六人もいる。
そのことが気になっていた寿院は
譜の知人に会う前に立ち寄ったのだが…
次回「白水家の災い」




