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木機怪械  作者: 大石優進 / 夜澄大曜
7/25

【ep.7】 出撃:前編 (作戦決行日 7時8分)

 研究所の至る所で警報が鳴り響いている。あまりの音量に異常事態を知らせるオペレーターの声が潰れ、途切れ途切れに聞こえる。そのことが、いやが上にも緊張感を高めていた。


『……屋外調査……は、ただちに格納庫に……ください。繰り返します。屋外調査隊第2班は、…………集合してください』


 天於は扉が閉まりかけているエレベーターに突進した。


「乗り、ますッ!」


 カゴに入った瞬間、解けていた靴紐を踏んでバランスを崩し、勢いよく奥の壁に激突する。


「いっ……て……」


 激しくぶつけた額を手で押さえ、涙目で壁に寄り掛かった。

 枯草色のパイロットスーツの留め具が、いくつか開いている。

 慌てて着込んでロッカールームを飛び出したのが一目瞭然だ。

 エレベーターの扉が閉まり、カゴが動き出したところで、先客が天於に声を掛けた。


「気合十分だな。頼もしいよ」

 

 同じチームの浅葱(あさつき)だ。天於よりも入所が2か月早かったが、ほぼ同期といっていい。

 浅葱が眼鏡のレンズ越しに天於に向ける視線は冷ややかだ。

 こういう目をするとき、浅葱の言葉を額面通りに受け取ってはならない。


「『落ち着け、足を引っ張るなよ』――だろ。心配してくれて、ありがとな」


 天於は駆体に乗り始めてまだ一か月と数日で、しかも実戦を経験していない。

 自分の慌てぶりを見て、浅葱なりに心配しているのだと良い方に解釈した。


「――」


 浅葱がにこりともせず、天於の靴を指で示す。


「そうだった!」


 天於が腰を落として靴紐を固く結び直しつつ、浅葱に訊く。


「『プランB』、政府に漏れたのかな」


「……むしろ、今日までバレなかったのが奇跡だ。お目付け役が優秀だからだろうな」


 淡々とした口調で、辛辣な皮肉を飛ばす。

 天於の脳裏に、防衛省から出向で駐留している尉官たちの厳つい顔が浮かんだ。

 エレベーターが地下4階で停止し、萌が入ってきた。

 いつもと同じく髪に小さな草花を織り込み、色とりどりに飾っている。


「ッはよーん、二人とも」


 萌は童顔と甘ったるい喋り方が相まって幼く見えるが、研究所の所属歴でいうと天於や浅葱の先輩に当たる。片腕にチョコバーの山を抱え、それだけでも相当な量があるのに、ジャケットのポケットやバックルの隙間にもねじ込んでいた。まるでお菓子の山が歩いているようだ。 

 エレベーターが動き出し、さらに深い階層へと降下していく。


「二人とも、なに朝から辛気臭いカオしてんのォ? あ、ネギはいつもか!」


 萌がチョコバーを1本手にとり、浅葱の頬をぐりぐりと突く。

 ネギというのは萌が考案したあだ名で、もちろん浅葱本人はそれを認めていなかった。


「おまえ、虫歯菌に脳を乗っ取られているんじゃないか」


 浅葱が冷たく言い放ち、煩わしそうにチョコバーを手で払う。

 萌の手からこぼれたチョコを、


「――っと」


 床に落ちる前に天於が素早く受け止め、萌が抱える山の上に乗せた。


「スゲー反射神経! ありがと、誰かさんと違ってテオテオは優しいよね~」


 浅葱は無言だったが、内心ムッとしていることが目元にわずかな動きとなって現れた。

 天於と比べられたことに不満があるようだ。


「や、この量は、おれもどうかと思うよ?」


 正直に言う天於に、萌がニッと口を広げて笑う。


「映画でよくあるじゃん、『この戦争が終わったら、何々するんだ』って」


「それ死亡フラグってやつだろ……」


「そうそう、だからそういうのが良くないんだよー、我慢がさ。食べたいものを、食べたいときに食べたいだけ食べる! 神様はさー、欲張りなやつを生かしてくれるんだぜっ」


 言葉だけを聞けばふざけているとしか思えないが、そこには不思議な重みと説得力があった。


「テオテオも言ってみ? あるだろー、本当はしたいけどやめようと思ったこと!」


「そうだなー……作戦の前に、あいつと………」


 天於の両手が半ば無意識のうちに動いて、見えない誰かを抱いた。

 萌が上体を反らして天於から距離を取る。


「エッッッグ! 絶対生き残るつもりだな、この性欲全開マン!」


「エグじゃねー、ハグだぞ、ハグ! 妙な想像すんなよ!」


 大声で騒ぐ二人を尻目に、浅葱が白けた顔で別の話題を振る。


「――出撃が1時間も早まった理由、何か聞いたか」


「あー、ソレね。作戦がバレちゃって、所長室に『お客さん』が詰めかけてるらしーよ?」


「あ、やっぱり? 浅葱とも話してたんだよ。強引に出撃するってことだよな……」


「ショチョーの時間稼ぎに期待しよーぜ! 『暖簾(のれん)の石蕗』は伊達じゃない!」


 萌は完全にいまの状況を楽しんでいるようだ。

 石蕗のその二つ名は、広い額に垂れる前髪と、他人からの要求をのらりくらりとかわす『暖簾に腕押し』を地でいく交渉術からつけられたものだった。

 天於が首を傾げて小さくうなる。


「所長に銃を突きつけられて、作戦を中止しろって迫られたらどうする……?」


 浅葱がごく真剣な表情と口ぶりで、


「所長の高潔な意思は、永遠に語り継がれるべきだ」


「ダメだろ! 犠牲にする気満々じゃねーかよ!」


 天於は不謹慎だと思いつつも、つい笑ってしまった。

 緊張でガチガチに強張っていた体が、いつの間にかだいぶ解れている。

 エレベーターが地下20階の格納庫に到着し、扉が開く。

 何層もぶち抜いた、吹き抜けの広大な空間。

 そこで、整備された人型兵器がパイロットを待っていた。


 全高10.5メートル、総重量6.2トン。

 直線的なフォルムのファインセラミクス製の装甲の隙間に、柔らかな生体機器が覗く。その体の上に、眼球を模したレンズやアンテナ類など、電子機器が詰まった頭部が鎮座する。何より目を引くのは、両肩から垂れる葉の形のショルダープレートだ。光触媒が敷き詰められたこのプレートから日光や大気中の水分を取り入れ、水素を生成して動力源の燃料電池に送り込む。プレートは機体ごとに葉の形が異なり、機体はそれにちなんだ名前をつけられていた。


 パイロットたちは、この人型兵器をごく短く『駆体』と呼ぶ。

 『対敵性未確認生物殲滅用人型駆動機体三二式』という正式名称が長すぎるからだ。

 またその愛称には、貪欲な侵略者を駆除する機体という意味も込められている。

 エレベーターホールの近くで、シオンが整備士と話し込んでいた。


「シオンちゃーん! ッはよ~」


 シオンは萌に目で返事をすると、二言三言、整備士と言葉をかわしてから近づいてきた。


「時間がないので、手短に。今日はサーフ・シールドにバッテリーを内蔵しません」


 天於たち3人の顔を順番に見ながら告げる。

 エー、と萌が困惑の声を上げた。


「線路は盾で走るんだよねえ? 電源どうすんの? 本体から?」


「はい。予報は曇りのち雨ですが、少しでも晴れ間があれば水素変換をして燃料節約を」


「帰りの燃料は不要では?」


 浅葱は、今回の作戦が片道切符だと思っているらしい。

 口調こそ穏やかだが、内容は相当に挑発的だ。

 天於は内心ハラハラして両者を交互に見たが、シオンは穏やかな微笑を浮かべて浅葱の質問を受け止めた。


「バッテリーを減らして軽量化した分、線路でスピード増が見込めます。トータルで見て、そこで時間を短縮した方が燃料消費の抑制に繋がると判断しました。他に何か疑問が?」


 浅葱が無言で首を横に振る。

 本当に納得したのかどうか、その表情からは読み取れない。

 大きな足音が近づいてきた。


「よーし、全員、揃っているな!」


 隊長の緋桐界(ひぎり かい)には、23歳とは思えない貫禄がある。

 北欧出身の祖父を持つクォーターで、顔の彫りが深い。二メートル弱の大きな体は筋肉で膨れ、パイロットスーツが窮屈そうだ。くせ毛であちこちに跳ねた金色の髪は伸ばすままに任せていたが、不潔というよりも気取らない性格を感じさせて、むしろ爽やかだった。

 プロスポーツの監督のように、手を叩きながら部下たちに声を掛ける。


「急がせてすまないが、駆体の起動確認後、すぐに出るぞ!」


 誰より早くその場を離れようとしたシオンを、萌が呼び止めた。


「ねー、シオンちゃーん! テオテオがハグしてほしいってさ」


「ちょ、おま、バカ!」


 天於が思わず大きな声で罵倒する。


「えー、だってさっき言ってたデショ?」


「いや、まあ、そうだけど、いや、マジで……おまえ……」


 振り返ったシオンが、天於を真っすぐ見つめる。

 そして――


「おバカ」


 (きびす)を返してさっさと歩いて行ってしまった。


「……」


 うなだれる天於に、萌が優しさを装って言葉をかける。


「まぁまぁ。作戦が成功したら、ご褒美にハグしてもらえるって、きっと」


「それ、さっきおまえが言ってた死亡フラグじゃねーかよ!」


 真剣に怒る天於に悪戯っぽく舌を出して、萌が去っていく。

 ポロッとチョコバーを落とし、それにまったく気づかなかったが、浅葱が拾って乱暴に背中に投げつけた。


「ちょー、ネギッ、何? 食べ物を粗末にするやつにはバチが当たるかんね!」


「柴沢の優しさを見習っただけだ」


 落としたぞ、拾ってくれてありがとう――

 この二人が絡むと、なぜかそういう当たり前の会話にならない。


「いつもと変わんないな、あいつら……」


 天於は呆れつつ、直前になっても軽口を叩き合う余裕があることが羨ましかった。

 それを察した緋桐が天於に笑いかける。


「露草はあれで歴戦の猛者だし、浅葱は在籍期間が短いのにトップの駆除数を誇るエースだ。おまえは初陣なんだから、緊張して当然だよ。いつもの訓練通りにやれば、何も問題ない」


 緋桐が力強く天於の肩を叩いた。

 緋桐の自信に満ちた顔を見ていると、言われた方も、その言葉通りになると思えてくる。


「はい!」


「最初に駆体に乗った日のことを覚えているか?」


「……ホント、すみませんでした」


 思い出すだけで、恥ずかしくて頬が熱くなる。

 天於はその日、昼食を盛大にコクピットにぶちまけてしまったのだ。


「整備士に任せてもいいのに、ひとりで残ってコクピットを掃除していただろ。そのとき、こいつは自分の乗る駆体を大事にするやつだ、強くなると思ったよ」


「いえ、訓練でさんざん壊しまくったんで……!」


 そのことで、所長から何度呼び出しを受けたか分からない。


「その分、機体に記憶が蓄積されたから、ムダじゃないさ。期待しているぞ」


 植物も人間と同じく、記憶形成にかかせないグルタミン酸受容体を有する。

 この物質が人間でいうところの手続き記憶と似たシステムを葉や茎に持たせているのだが、駆体はそれをさらに発展させて、植物性組織を用いた部位に記憶を蓄積する仕組みがある。たとえば、同じ行動をとり続ければ、挙動が最適化して反応にかかる速度が短縮されていくのだ。


「隊長の期待に応えられるように頑張ります!」


 天於は勢い込んで言った。


「よし、愛機が待ってるぞ」


 緋桐がそう話を結び、天於の背中を押して、『アルテシマ』へと送り出した。

 リーフ・プレートは美しい楕円形で羽状に葉脈が走り、艶やかな光沢を保っている。クワ科の『フィカス・アルテシマ』の葉を模したデザインで、そのままコードネームにもなっていた。黄色のアクセントカラーが装甲を彩り、目に鮮やかだ。


 機体の前で、整備士の貝原が天於を待っていた。

 御年67、総白髪と顔に深く刻まれた皺が過ごしてきた時間の長さを感じさせるが、ぎょろりとした目が少年のように生き生きと輝き、連れている空気が若々しい。

 天於は深く頭を下げた。


「今日も宜しくお願いします!」


「『アルテシマ』、いつでも出せますよ。機動確認をお願いします」


「この間の訓練で傷めた、つなぎ手(リンカー)の5番は……」


「修理済みです。かえってフィーリングが少し硬くなっているかもしれません。リーフ・プレートの左側は、クロロフィル反応中心複合体の変換効率が80パーセントの状態です。こちらは機材がなく、イギリスから取り寄せていますが、間に合いませんでした」


 貝原が手元のタブレットを操って天於に映像を見せつつ、よどみなく説明していく。


「了解です!」


 天於は移動式の階段(ラッタル)を駆け上がり、胸部のハッチからコクピットに滑り込んだ。

 シートに座り、アームレストの先端にあるスティック状のデバイスを握る。

 制御OS『世界樹(ユグドラシル)』が起動し、球形のコクピットの内側に情報を映し出す。

 燃料電池の残量、最大。

 転流機関、システム正常。

 全つなぎ手(リンカー)、水圧制御系統、浸透性アクチュエータに異常なし。

 リーフ・プレート起動、クロロフィル反応中心複合体の変換効率に左右で若干の偏りを確認、基準範囲内。

 レールガン、火器管制機器類、弾薬、ともに問題なし。


「反応中心で励起した全電子、失活して基底状態に移行。駆体と固有感覚を同期します」


 天於は左右の操縦デバイスを同時に引いた。


 ゴウン――


 低い唸り声に似た音が駆体を駆け巡り、天於の身体が緩やかに駆体と接続。四肢の相対的位置と重力の方向を感知して、それを自分の手足の延長と感じられるようになる。

 天於の瞳の色が、黒から淡い緑色に変わった。

 頭部の眼球を模したレンズの他に、機体の各所に6つのカメラがあり、球形のコクピットの内壁に外の景色をリアルタイムで映し込んでいる。密閉された空間の中にいながら、足元を除く全周囲を視認することができた。

 天於は小さく息をつき、貝原に報告した。


「起動確認、すべて問題なく完了しました!」


『いよいよ実戦ですね』


 無線から響く貝原の声に、静かな力がこもっている。


「今日までありがとうございました。おれみたいな若造に、なんていうか、ちゃんと接してくれて嬉しかったです」


 生まれは半世紀近く離れている。貝原にとって天於は、何をするにも未熟な候補生(インターン)に過ぎない。しかし貝原は天於を一人前として扱い、会話では常に敬語を用いた。


『東京を頼みましたよ、柴沢さん。あそこにはまだ、私の孫がいるんです』


「はい! 柴沢天於、5号機『アルテシマ』、出ます!」


 天於は駆体をゆっくりと歩かせた。

 誘導灯を持つ整備士たちが、列を作って進路を知らせる。

 貝原だけではない。天於の駆体には、多くのスタッフが関わっているのだ。

 この人たちのお陰で、おれは出撃できるんだ――

 感謝の気持ちがこみあげてきて、天於はコクピットの中でひとりひとりに頭を下げた。

 格納庫の隅にある駆体用の巨大昇降機(リフト)で、四機の駆体が天於を待っていた。


 シオンが乗るリリィ、浅葱のアイス、萌のCQ、そしてもう1機。

 角張った山脈の尾根のように堂々としたリーフ・プレートを持つ駆体、ザンティアム。

 緋桐が搭乗する隊長機だ。

 チームで唯一、最新の第4世代機で、厚い重装甲を持つ。気孔筒からの排熱機能が大幅に改良されており、定期的にシューッという独特の音を発する。

 緋桐が映像回線を開き、各機と繋いだ。

 モニターの共有スクリーンに、チームの全パイロットの顔が並ぶ。


『これから回線のテストを兼ねて点呼を行う。鏑木シオン』


『はい』


『浅葱啓馬』


『います』


『露草萌』


『ハーイ』


『柴沢天於』


「はい!」


『よし――屋外調査隊第2班、出撃する。所長、許可をお願いします』


 ザザッとノイズが入って、所長と回線が繋がる。

 しかしモニターに映ったのは、ごま塩状の後頭部だった。


『これは屋外調査の一環でして! つまり、樹海や敵対生物の死骸からサンプルを持ち帰るという、極めて平和的な研究活動であります、ええ――』


 画面の大半を石蕗の頭が占めていて見えないが、対面で誰かと会話しているらしい。 

 相手の怒声が音声回線を震わせた。


『ふざけないでいただきたい! 駆体を動かすには防衛出動に準じた法手続きが必要だとご存じのはず。今回、官邸も防衛省(われわれ)も、何の話も聞いておりませんぞ! そのようにシラを切るおつもりなら、こちらも実力行使で作戦を中止させていただく!』


「……!」


 天於たちは仲間たちとモニター越しに緊張に満ちた視線を交わした。 

 格納庫が、にわかに騒々しくなった。エレベーターから銃を持った10人の自衛官が出てきて、行く手を阻む整備士たちともみ合いになっている。

 天於は自衛官の中に面識のある坊主頭を見つけ、密かに溜息をついた。

 シオンの駆体がレールガンを構えた。細長い加速装置の下部に、単発式のグレネードランチャーを装着している。その筒身をジャッとスライドさせ、薬室を開放した。


『スモーク・グレネードで鎮圧します。隊長、ご指示を』


 落ち着いた声に、かえって凄みがある。

 天於は激しく首を横に振った。


「だめだ、シオン。スタッフもたくさんいるのに……!」


 シオンは眉に皺を寄せて天於の懸念を一蹴した。


『いまは出撃することが最優先よ』

 

『鏑木、待て。所長を信じろ』


 緋桐がシオンを制止したとき、


『ええと――つまりですね――』


 石蕗がくるりと振り返った。

 心労でやつれた顔が、画面いっぱいに広がる。


『もう限界だッ! 何をしている、緋桐くん。早く行け――!』


 緋桐が駆体の手で整備士に合図を送り、5機を載せたリフトが上昇を始める。

 天於たちを見送る整備士たちの歓声と、自衛官たちの怒号が重なり合って響いた。

 リフトがスピードを増して斜めに上昇していく。非常灯が明滅する薄暗い金属のトンネルを抜けると、壁の素材が強化ガラスに変わった。壁を1枚隔てた向こうに、緑色に濁った湖水が横たわっている。天於たちの眼前を、ニジマスの群れが横切った。


『――現在、8時55分。リスケジュールした時刻通りに出発できます』


 シオンの顔も声も、平静そのものだ。


『一応、確認だ。お客さんたちに情報を漏らしたのは、鏑木副隊長、おまえか?』


 緋桐の声は穏やかだが、曖昧な回答を許さない迫力があった。

 シオンはうなずき、あっさりとそれを認めた。


『所長は直前になって作戦の決行を迷ってらっしゃるように見えました。そのため、決定事項として防衛省にリークし、同時にオペレーターに指示して出撃時刻の繰り上げを放送しました』


 まったく悪びれた様子もなく、すらすらと告白する。

 天於はうなだれた。

 話して欲しかった――せめて、自分には。

 呆れるが、シオンらしいといえば、らしい気もする。


『所長はおまえが思うより気骨のある人だよ。おまえは余計な小細工をせず、おれに相談するべきだった。今日の作戦では、独断を慎んで仲間を信じろ。でなければ、人が死ぬ』


 緋桐の説教を受け、シオンがしおらしい態度で頭を下げた。


『承知しました』


『……話は以上だ。各員、作戦の終了刻限を共有』


 緋桐が各機の共有スクリーンに、残:9時間5分と表示を出した。


『露草、自衛隊の動きはどうだ』


 緋桐の問いかけに、萌が明るい声で応じる。


『ちょうど衛星のハッキングが完了したとこ! 第13師団は現有戦力の八割を東京湾に展開中。こっちを追っかけるのはムリだね~』


 第13師団は、壊滅した陸上自衛隊東部方面隊を中心に再編成された陸海空の混成部隊で、現在この国が旧首都圏で動かせる唯一の戦力になる。

 リフトがゆっくりと停止した。

 湖畔に、かつての物流倉庫を転用した三角屋根の建物があり、そこが出入口になっている。シャッターが重々しい音を立てて開き、山の稜線と鈍色の空が見えた。


『これよりプランBを開始する』


 緋桐が宣言するように言い放った。

 目的地は、樹海の中心にある根幹樹。その上空に駆除薬『ネッソス』を打ち上げて根幹樹を確実に枯らし、さらに雨粒と混じり合った薬剤が都内全域に降ることで、草獣を一掃する。

 それがプランB。人類の命運が懸った作戦だ。

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