【ep.3】 受粉:後編 (作戦決行138日前)
新宿駅が近づくにつれて、道の勾配が急になる。
シオンを自転車の後ろに乗せてペダルを漕ぐうちに、天於は汗まみれになっていた。
シュウッ――
甲高い擦過音が聞こえた。
進行方向に見えていた高層ビルの壁面が吹き飛び、破片が道路に降り注ぐ。
隕石群が、破壊の先触れとして到達したのだ。
地上は大混乱に陥った。
五月雨で落下する隕石の爆圧に、歩行者がなぎ倒される。
アスファルトに大きな穴が空き、車があちこちで玉突き事故を起こしている。
交錯する悲鳴。
クラクションの合唱。
人が車道に駆け込み、車は歩道に乗り上げる。
「なんなんだよ、これはッ!」
天於は自転車を全力で漕ぎながら怒鳴った。
シオンが空をにらみながら言う。
「これは『惑星受粉』の前触れに過ぎない。地獄はこれからよ」
「惑星受粉だって……?」
初耳の言葉だが、恐ろしい出来事が進行中であることは、天於も肌で感じている。
「2時間前、アレと同じものがアメリカ各地に落ちて、主要都市は壊滅したわ。鳴子先生は、それに巻き込まれて消息不明になったそうよ」
天於はそれを聞いて、後頭部を殴られたような衝撃を受けた。
「何だよ、それ……。大体! なんで、シオンがそんなこと知ってんだよ!」
「鳴子先生が設立した研究所に所属しているから」
「――」
天於は絶句した。
カッと頭の中が熱くなる。
「『植物で世界を救う』なんてバカみたいなこと言っていなくなって、10年間、放置されて。おれにとっちゃ、母さんはとっくに消息不明みたいなもんだったよ。なのに……本当に、いなくなった? なんだよ、それ……ふざけんなよ!」
やりきれない思いを、空に向けて大声で吐き出した。
母親は、一緒にアメリカに行くと号泣する天於に、「体が丈夫になったらね」と約束した。
都内に呼吸器系の治療で有名な病院があり、離れられなかったのだ。
父親は病死していたため、天於は親戚に預けられた。生活に何も不自由はなかったが、取り残されたことは、少年の心に埋めがたい穴を空けた。
早く大人になりたい。もっと丈夫になりたい。
そしたら、母さんと一緒に世界を救うんだ……。
幼い頃、天於は何度も自分にそう言い聞かせた。成長するにつれ、狂気じみた話だと思うようになったが、その妄執は天於の人格形成に大きな影響を与えていた。
「鳴子先生は、本気で世界を救おうとしていたわ」
母を擁護するシオンの態度が、天於を余計に苛立たせた。
「でも……結局、救えなかったってことだろ!」
天於は空虚な瞳で、大量の花粉が舞う都心の光景を見つめた。
「誰も……この世界も」
「違うわ。これから始まるのよ」
天於は困惑して眉をしかめた。
「母さんはもういないんだろ……?」
シオンが背後から手を伸ばし、天於の耳元にブレスレットを当てる。
そこから、女性の声が流れ出た。
『――諸君、抵抗せよ』
母だ。記憶の中にある母の声と同じだ。
言っていることは勇ましいが、余計な力は入っておらず、穏やかな印象すらある。
シオンがブレスレットを付けた手を下げた。
「鳴子先生の最後の通信記録よ」
「抵抗って、何に……?」
「すぐに分か――」
シオンが言いかけたとき、天於たちの行く先に車が飛び出してきた。
「……ッ!」
天於がブレーキを引き、さらに地面に足を付いて、摩擦で自転車を急停止する。
前輪の鼻先をかすめた車は、横滑りしたまま商業施設のショウウィンドウに突っ込んだ。
運転席のドアが開き、よろよろとスーツ姿の中年男が転がり出る。
「……大丈夫ですか!」
天於が声をかけた。
何か様子がおかしい。
中年男は車道に両膝をつき、呆然と天を仰いだ。
両目から滂沱と涙を流している。
普通の涙ではない。
色が青かった。
「シオン、救急車……!」
「残念だけど……、手遅れよ」
男の体から音がする――
体中の骨が軋んでいるような奇妙な音が。
男の眼球を突き破って枝が飛び出した。
続いて口からも、手の指からも――
その男だけではなかった。周囲で生身の人間が次々に倒れ、その体を苗床にして、植物が 爆発的な成長を遂げていく。
「なん……だ、これ――」
「花粉が大量に体内に入ったの。残念だけど、いまは誰も助けられない……!」
シオンが押し殺した声で言った。
「行きましょう。ずっと屋外にいたら、私たちも助からないわ」
「――くそっ……!」
天於が再び自転車を漕ぎだす。
細かな花粉が霧となって周囲を覆い、視界がとても悪くなってきた。
巨大な影が、ビルの谷間にゆらりと浮かび上がる。
車が立て続けに衝突し、ブレーキランプが連鎖して点っていく。
重い破裂音が響き、列の前の方で爆炎が吹き上がった。
「止まらないで! そのまま走り抜けて!」
シオンが叫ぶ。
立ち上る黒煙の中、何かが跳ね上がった。それは巨大な木の枝に似ていた。
何か、いる……!
次の瞬間、天於は自分の目を疑った。
車が何台も宙を舞っている!
まるで癇癪を起こした子どもがミニカーを放り投げたようにくるくると回転し――
「う……ああああ!」
周囲に車が落下する中を、天於は自転車で駆け抜けた。
爆風に煽られてバランスを崩しかけながらも力強くペダルを漕ぎ、車道を塞いでいる巨大な壁の下を潜り抜ける。
「――見えた! あれ!」
シオンが荷台から身を乗り出して、濃霧の中を降下してくるヘリコプターらしき影を指した。
車通りが絶えて、交差点にぽっかりとスペースができている。
ヘリはそこに強引に着陸しようとしているようだ。
シオンがヘリに手を振り、赤いブレスレットに怒鳴った。
「緋桐さん! すぐに着きます!」
『――近くにデカい個体がいる。花粉濃度も限界に近い。1分以内に出るぞ!』
太い男の声が返ってきた。
ヘリが激しく左右に揺れながら、高度を下げてくる。
パッパッと霧の中で白光が閃き、短い風切り音が頭上を走ったかと思うと、背後で立て続けに爆音がした。
ヘリが、先ほどの巨大な何かを攻撃したらしい。
「間に合った……!」
シオンが自転車の荷台から飛び降りる。
天於は交差点の脇で自転車を乗り捨て、手をついてその場に座り込んだ。
「ハァッ……ハァッ……!」
胸が苦しい。
悲鳴を上げているのが心臓なのか肺なのか、もう分からなかった。
ヘリコプターが、花粉の霧を散らしながら交差点の真ん中に着地する。
武器をあちこちに取り付けてずんぐりと膨らんだ、軍用の攻撃ヘリだ。
メインローターが完全に止まる前にシオンが近づき、ヘリの横腹にある扉をスライドさせて中に乗り込む。
「早く、こっち!」
天於に向かって手を伸ばしたが、天於は動こうとしない。
「このヘリでどこに行くんだ?」
「奥多摩にある研究所よ。そこまで行けば安全だから――」
「学校のみんなは? この街に置いていくのか?」
「指示通りに地下にいれば、すぐに死ぬことはないはずよ」
シオンが苛立ちを露わに、差し伸べた手を振り、『早く』と急かす。
「シオン、おれは……」
霧の向こうで大きな影が動いた。
ズン――
微震とともに霧がどろりと背後に向かって流れ、大きな影が揺らめいた。
霧のカーテンに、物音の主の巨大な輪郭が映り込む。
なんという大きさだろう。
10階建ての雑居ビルより高い。
それが、動いている。
小さな悲鳴が聞こえた。
小学生くらいの歳の少年が、車道の脇に倒れている。
爆発の衝撃で倒れた電柱に体を挟まれたらしい。
「誰か……! 助けて!」
「――」
天於は逡巡し、振り返った。
シオンと目が合う。
シオンは、ハッと何かに気づいた顔をした。
「……ダメ!」
「シオン、ごめんな!」
天於はヘリに背を向けて走った。
「天於!」
シオンがヘリから身を乗り出し、遠ざかる天於に手を伸ばす。
天於は振り返って、言い放った。
「おれはここに残る。行ってくれ!」
「――ばかァッ!」
シオンが絶叫した。
「鏑木、もう限界だ、行くぞ!」
ヘリのパイロットが怒鳴り、メインローターが再び回転を始めた。
ヘリがふらつきながら急上昇していく。
そこからこぼれるように、赤いブレスレットが落ちてきた。
「――!」
天於はそれをキャッチした。
シオンが身に着けていたものだ。
巨大な怪物の影が、ヘリを追ってゆっくりと遠ざかる。
天於は少年に駆け寄った。
「大丈夫か!」
幸い、電柱と地面にはわずかな隙間がある。
引きずり出せそうだ。
栗色のくせ毛の少年は、涙に潤んだ目で天於を見た。
「……誰?」
「おれは、柴沢天於」
天於は笑顔で答えたが、少年の顔には不安が残っている。
「誰……?」
と同じ質問を繰り返す。
「そこの高校の……えーと、いまは正義の味方みたいなもんだ。おまえの名前は?」
「椎名春人……」
名乗った少年の頬に、涙がこぼれる。
「家に帰りたい……! 父さん、母さん……!」
天於は少年に手を差し出した。
「春人、泣くな。おれが絶対に会わせてやる!」
少年は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、天於の手を握った。
どろりとした花粉の霧が流れてきて、ゆっくりと二人の姿を飲み込んでいった。