【ep.1】 遭遇 (作戦決行50日前)
熱い。
酷使している足が、早鐘を打つ心臓が、何より喉からこぼれ出る息が熱い。
柴沢天於は、霧が漂う夜明け前の街を駆けていた。
短髪がよく似合う17歳の男子高生だ。
目尻に向けて下がった優しげな瞳に力が漲り、強い気迫を発している。中背だが筋肉質な身体を持ち、脚で地面を噛むような走り方は、豪快そのもの。制服の白シャツと紺のスラックスがずいぶんくたびれていて、汚れが目立つ。
手押しで運ぶショッピングカートには、食料や雑貨が大量に積まれている。
もうひとつ、大きな荷物があった。
少年が積み荷の上に腰掛けている。
10歳になったばかりで顔にあどけなさが残っており、栗色のくせ毛が印象的だった。
「天於、あれ……!」
指を差した先に、『靖国通り』と書かれた標識があった。
天於はどうにか呼吸を整え、得意げに言った。
「ほら、もうすぐ駅だ。楽勝だっただろ、春人」
春人と呼ばれた少年が、強張った顔で首を横に振る。
「すっごく怖かった。こんなに霧が濃いところ、もう二度と――」
春人は言葉を切り、弾かれるように顔を上げて東の空を見た。
霧の向こうにそびえるビルの輪郭に、じわりと朝日が滲む。
狂暴なまでに明るい光が霧の一部を払い、あたりを照らし出した。
そこは都市というより亜熱帯の樹林の中だった。
建物の壁という壁が植物で覆われている。窓を突き破った枝葉や根、道を挟んでビルからビルへ渡る巨大な太い枝。アスファルトはあちこちひび割れ、隙間から草木が伸び放題だ。
「天於、何かあるよ!」
春人が天於に注意を呼びかけたときだった。
カートの車輪が、地面に横たわる太い根を踏んだ。
カートが大きく跳ね上がり、春人の尻の下から積み荷がこぼれ落ちる。
天於は背筋を垂れる汗を急に冷たく感じた。
ザワッ――
周囲の緑が震える。まるで、街そのものが悶えているようだ。
「……来るぞ」
天於はカートを停めてあたりを見回した。
それは、雑居ビルの壁に垂直に張りついていた。
天於たちが踏んだのは、怪物の尻尾……否、根っこだったのだ。
高所にあった頭部がゆらりと壁から剥がれ、重力に身を委ねて落下し――
ズンッ……!
重い地響きを立てて、長い胴体が十字路に着地する。
その姿は巨大な竜を想起させた。太い胴体は四本の脚に支えられ、長く伸びた首の先に、大きな頭が乗っている。粗くひび割れた表皮は、年を経た樹木の幹のようだ。
「草獣……!」
春人が声を震わせて言った。
草獣がノソリと頭を持ち上げ、青みがかった光彩を放つ眼を天於たちに向ける。
大きく開いた口からは、粘度の高い液体がひっきりなしに垂れていた。
カートに乗る春人は、さながら皿の上のご馳走だ。
「春人、降りろ。ゆっくりな……」
ささやく天於に春人が無言でうなずいて応え、そっと足を伸ばしてカートを降りる。
と、草獣が、目にも止まらぬ速さで首を伸ばしてきた。
「――!」
天於は春人に飛びついて押し倒した。
バクン!
一瞬前まで春人の頭があった空間を、草獣の大きな牙が抉る。
天於は機敏な動作で身を起こした。
ショッピングカートの下の籠に差し込んでいた手製の火炎瓶を引き抜き、ライターで着火して、至近距離にある草獣の頭を目掛けて投げ込む。
ボウッ!
火炎瓶は草獣の頭に命中し、渇いた表皮に炎が燃え広がった。
草獣が苦痛の叫び声を上げ、頭を天於たちから遠ざける。
天於は呆然と倒れている春人を抱き起こした。
進行方向に見えている角を指して、
「あの角を曲がれば、三丁目駅の入り口が見える。生き残っている人たちがいるはずだ」
「天於は……?」
「あのバケモノと、ひとっ走りしてくる」
「だめだよ。死んじゃうよ……!」
少年の目に、これまでに見た死の影がいくつも映っている。
天於は優しい顔で、春人のくせ毛の髪を荒っぽくかきまわした。
「おれの足の速さ、知ってるだろ? あんなノロそうなやつ、余裕でブッちぎって追いつく」
足元に落ちていたカップ麺を拾うと、春人に手渡した。
先ほどカートからこぼれ落ちたものだ。
「おれの大好物をおまえに託すからな。大事に持っててくれ」
真っ赤な蓋に、『辛味増し増しマキシマム』とある。
春人が顔を大きく歪ませた。
「……なにこれ、まずそうすぎる」
「と、思うだろ? まろやかなんだな、これが。一口、食べてみるか?」
「……うん、食べたい。天於と一緒に。だから絶対……絶対、死なないで」
「ああ!」
天於は力強くうなずいてみせた。
草獣が吠えた。顔を覆った炎はもう消えている。
口の脇が黒ずんでいるのは、わずかに火が表面を炙っただけのようだ。
「春人、行ってくれ!」
「……待ってるからね!」
胸にカップ麺を大事そうに抱えて、少年が走り出す。
草獣が頭を巡らせ、逃げる獲物を背後から襲おうとする。
その首は太い節を持つ茎に似ており、不気味に蠕動を繰り返していた。
「おい、木トカゲ……じゃ、カッコつかないな。植物トカゲ? いや、トカゲじゃなくて……おい、竜! 木竜! こっちだ!」
天於は声量が大きく、声がよく通る。
注意を引くことに成功し、怪物の頭がゆっくりと旋回して天於を正面に捉えた。
天於は身を屈め、木竜に背を向けて地面に両手をついた。
クラウチングスタートだ。
「用意――」
木竜が短い四肢を動かし、図体に見合わぬ素早さで天於に迫る。
「ドン!」
天於は爆発的な瞬発力で駆け出した。
下生えがアスファルトを覆い、地面を蹴るごとに沈む感触がある。
それでも、中学から高校2年まで陸上で鍛えた足は衰えていなかった。
走る、走る。
天於は一瞬、息苦しさと疲れを忘れた。
体が軽い。このまま、どこまでも駆けていけそうな気がする。
行く手に突如、不気味な影が現れる……小型の草獣の群れだ!
背後にいる木竜と比べれば小柄だが、上背だけなら天於よりも大きい。
二足歩行の個体が混じる群れは、どこか人間の集団を思わせた。
「来い――全部、おれに来い!」
天於が叫ぶ。
自分が標的になれば、その分、春人が安全になるはずだ。
脇腹が激しく痛み、酷使してきた肺はいまにも破裂しそうだった。
それでも、止まらない。飛び掛かってくる小型草獣の牙や爪を紙一重で避け、道路に放置された車のボンネットを乗り越え、命がけの障害物レースを続ける。
木竜が、砂埃を上げて体を反転させた。
ブオッ!
長い尾がしなり、地面スレスレに走って、車や小型の草獣ごと天於の体を吹き飛ばす。
天於の体は半壊したビルの壁に激しく叩きつけられた。
「……ッ!」
後頭部を強打し、視界が真っ暗になる。
朦朧とした意識の中、天於は地面に手をつき、よろめきながら立ち上がろうとして――腰が半分も持ち上がる前に、膝を着いて倒れ込んでしまった。
「……!」
天於はあまりの激痛に両目を閉じた。
抵抗せよ――
耳の奥に響く言葉がある。
その音には、熱があった。
天於は目を開け、自分の膝を叩いた。
「動け。もう少し、動いてくれ……!」
近くに非常階段があるのを見つけ、歯を食いしばり、両腕を交互に進めて這っていく。
しかし、気持ちの強さに体がついていかない。
天於の背後から、複数の影が迫る。
先ほど天於と一緒に木竜の尾に吹き飛ばされた、小型草獣の群れだ。
その後ろには、近づく木竜の姿がある。
ここで死ぬのか―――
天於の意識に絶望が忍び込んでくる。
こんな状況でも、自分より春人のことが心配だった。
この3か月間、変わり果てた東京で力を合わせて生き延びてきた。
新宿を出発し、都内を放浪したが、まさか旅の終着点も新宿になるとは。
春人は無事に新宿三丁目の駅にたどりつけただろうか。
生き残りの人たちがいるという噂が、本当でありますように。
天於が約束を守らなかったことを知ったら、春人は怒るだろう。
ごめんな、と天於は心の中で詫びる。
やれるだけ、やったよ。
そう自分にも言い聞かせて目を閉じた。
そもそも、人間がこの怪物を倒すことは不可能だ。
東京の外で何が起こっているかは分からないが、この3か月間、なんの助けも来なかった。
軍隊を総動員したところで、『やつら』には敵わなかったのだろう。
ああ――力が欲しい。コイツらをブッ倒す力が……!
天於は心の奥でそう願った。
切実に、強く、強く、強く。
ズンッ――
重々しい地響きが聞こえた。
ズン、ズン、連続して一定のリズムを刻んでいる。
何か巨大なものが、背後から近づいているようだ。
まさか、もう1体……?
反射的に振り返った天於の頭上を、大きな影が通過していく。
鋼鉄の足が、天於と草獣、そして木竜の間に着地した。
灰色の甲冑で全身を覆った巨人。
それが第一印象だった。
上背は、高く頭を掲げた草獣とほぼ同じ、10メートル前後だろうか。
厚い装甲の隙間に草獣の体に似た茎の束が覗き、まるで植物と機械が融合しているようだ。装甲はグレーを基調に、ところどころ差し色のように青く塗装されている。両肩から垂れた巨大な肩当ては、円に鋭い切れ込みが1本入っており、睡蓮の葉を思わせた。
巨人が両手で抱える大きな銃を、小型の草獣に向ける。
銃身に特徴があった。
一般的な円筒状ではなく、筒が平たく潰れていて四角に近い。
女性の声が降ってきた。
『両耳を塞ぎなさい!』
天於が両耳を掌で覆うのと銃が吠えるのは同時だった。
ド ルルルルッ!
重い回転音が轟き、凄まじい速さで銃口から弾が飛び出していく。
それは流線形の弾丸ではなく、薄い刃だった。
小型の草獣たちが、スパスパと切断されていく。
『下がって!』
再び、女性の声。
天於はその声に聞き覚えがある気がした。
巨人は流れるような動作で、接近する木竜に狙いを切り替えた。
刃が長い首を次々に貫くが、草獣の速度が落ちない。
むしろ加速していく。
木竜は巨人に肉薄すると、細長い頭をグイッと持ち上げた。
大きな口を広げ、巨人の肩口に食らいつこうとする。
巨人はアスファルトを覆う草木を捲り上げながら脚を広げた。
銃を体の前に立て、銃床が上にくるように構えると――
ゴッ!
急降下する竜の頭を迎え撃ち、被せるように銃床で後頭部を殴打した。
打ち下ろされた竜の頭が、ゴポッと口から大量の液体を吐き出す。
巨人は打撃具として使った銃を半回転させ、銃口を前に向けた。
それを眼前にある木竜の首に押し付け、撃つ。
バシュウッ!
接射箇所だけではなく、これまでに撃ち込んだ場所から一斉に青い血が噴き出した。
草獣の首が千切れ飛び、巨大な頭がボトリと地面に落下する。
天於は全身に鳥肌が立つのを感じた。
爽快感と同時に恐怖が湧きあがる。
この巨人は、一体、何なんだ……?
自衛隊か米軍の新型兵器?
いや、そもそも人間が造ったものなのか?
巨人の腕の装甲が外に開いたかと思うと、筒状のものが突き出した。
炎が噴き出し、頭部を喪失した木竜の首を焼く。
胴体にも炎が回り、瞬く間に轟々と燃え上がった。
強い熱波に皮膚の表面が痺れ、あたりに鼻を突く異臭が漂う。
天於は瞬きをした。視界の隅に、じわりと暗い色が滲む。
強い異物感を覚えて目元を拭うと、指の腹にべっとりと青い血がついていた。
あの怪物たちと同じ、青い血。それが自分の体から流れてきた。
「ああ、ちくしょう……」
どうあっても、今日死ぬ運命にあるらしい。
街を覆う霧の正体が、人体に害のある微小の花粉だということは知っている。これまでに、いくつも死を目の当たりにしてきたが、草獣に喰い殺されるよりも『花粉症』で命を失う方が多かった。年齢が高いほど発症しやすいらしく、稀に出会う生き残りは十代ばかりだ。
目や鼻から流れる青い血は、発症の予兆だった。
ついに、おれにも順番が回ってきたか――
天於がうなだれた時、鋼鉄の巨人がゆっくりと振り返った。
シュウッ!
空気が勢いよく噴出され、巨人の胸部装甲が浮き上がって手前に倒れる。
中のスペースに、小柄な人影があった。
狭い出入口を潜り抜け、地面と水平に展開しているコクピットハッチの上に立つ。
黒髪をショートボブにした少女だ。
宇宙飛行士が使うような厳つい服を着て、体の輪郭が歪に膨らんでいる。
「……!」
天於は見ているものが信じられず、ゆっくり瞬きをした。
少女は大きなつり目の持ち主で、瞳は鮮やかな翡翠の色をしていた。
夜道の猫のようだ。顔立ちも、どことなく猫に似ている。
小ぶりな鼻の下で口が「へ」の字に結ばれていて、不機嫌そうだった。
天於は少女の名前を口にしようとした。
「……シ……」
しかし、口の周りの筋肉が痺れて、うまく喋ることができなかった。
全身が重い。
地面に手をついて上体を支えているのがやっとだ。
少女の強張った頬が弛緩し、満面に喜びが溢れる。
「――やっと会えた」
天於は一瞬、状況を忘れてその笑顔に引き込まれた。
と同時に、ついに手の感覚がなくなって、体が横倒しに地面に崩れ落ちる。
「……! 『花粉症』? おバカ。ここまで来させておいて死ぬとか、ありえないでしょう。いっそ昨日までに死んでくれれば無駄を省けたのに、あなたって本当に昔から間が悪いというか、空気が読めないというか……!」
早口で捲し立てる。
ひどい言いぐさだが、半分は本音だろう。
ハッチの縁から蔓に似た紐が垂れ、少女はそれを伝って音もなく地上に降りた。
おれはもう助からない。
それより、春人を助けてくれ――
天於はそう言おうとしたが、少しも口が動かなかった。
少女が天於に歩み寄り、膝をついて頭を優しく抱き寄せる。
天於の耳元で少女の声がした。
「――死なせないから」
狭まっていく視界の中、自分の右手首に巻いた赤いブレスレットが輝いている。
3か月前、彼女から受け取ったものだ。
あの日、天於を取り巻く世界は一変した。
はっきり覚えている。
2035年、7月。
うだるような暑さの昼下がり。
水泳の授業のあとで、教室全体に、うっすらと消毒液の匂いが漂っていた。