第三話 ルールの存在理由
学園もの作品のあるあるとして、授業のシーンは飛ばされがちというものがある。当然のことながら授業でおこなっているのは他でもない勉強であり、読者視聴者が現実を思い出して辟易してしまうことを避けるための措置であると俺は勝手に考えている。
だが、いくら授業がつまらないとは言っても、この変な教師のことだけはどうしても取り上げておかねばならないだろう。
授業開始のチャイムと同時に、タバコとコーヒーの匂いが教室に流れ込んでくる。それは、ドアから入ってきた、白髪まじりで猫背のオッサンが放っているものに他ならなかった。彼は腰を伸ばしながら教壇に立って授業開始の挨拶をする。パラパラと自分が今日教える単元を確認し、軽く舌打ちした。
「国語は関係ねえってのに巻物の単元が入ってやがる。巻物の読み解きなんざ心底やらせたくねえが、仕事だからな」
机を叩いて、クラス一の真面目くんが立ち上がる。
「巻物は先祖が積み上げてきた誇るべき歴史書です! 愛とは何たるか、あなたは教えられて育たなかったのですか?」
巻物の侮辱は許されない。軌貴島の子供たちは絵本より先に巻物を与えられて育ち、その教えを胸に刻み、片時も忘れることなくその魂の内に秘めて生きていく。
谷口先生は、無精髭で汚れた口角を少し上げる。
「愛なんかなかったよ。どこにもな」
「貴様……!」
谷口先生を睨みつける男子生徒の形相は、怒り狂った鬼よりも恐ろしいものを感じた。谷口先生はそんな生徒の姿を意にも介さず、マイペースに言い放つ。
「お前らも、大人どものジョークは聞き流す程度にしとけ。何かにハマりすぎると脳が腐るぞ」
谷口洋平。常に無気力なくせに、巻物のことをコケにしてはクラス中から反感を買いまくるやばい教師だ。何故わざわざ、首を切られるリスクを背負ってまでこんなに危ない発言をするのだろうか。
「あのセンセー、本当になんで消されないんだろうな」
礼央がボソッとつぶやいた声が聞こえただろうが、谷口先生はヘラヘラ笑ったまま授業を始めたのであった。
◆◇◆◇◆◇◆
時は昼休み。俺は現在、食堂に続く廊下を歩いている。連れは深佳だ。
廊下には校庭を一望することができる窓がついており、野球グラウンドやその先にある射撃訓練場がよく見える。さらに敷地を飛び出してその奥を見れば、蜃気楼で若干歪んで見えるが、海の方へ迫り出している滑走路やヘリポートが確認できる。
代わり映えのしない景色から視線を戻して、廊下の突き当たりにある古めかしい扉を見る。どでかいプレートに『食堂』と達筆な字で書いている。
「最近、キミの方からご飯に誘ってくれるようになって嬉しいな」
深佳が形のいい目を細めながらそんなことを言う。
「いくら美少女の相手といえども、いつまでも照れてばっかじゃ恋人らしくないからな」
「それもそうだね」
さりげなく褒めたつもりなのだが、言われ慣れているのかさらっと流されてしまった。
さて、切り替えて券売機に向かい合うとしよう。この食堂は、品揃えはそれなりに豊富だ。しかも、味もなかなかのもの。日替わりメニューも取り揃えられており、毎日来ていても飽きない工夫が施されている。財布に優しく机に備え付けられている調味料も使い放題のため、時折とんでもなく美味い食い合わせと巡り会えたりする。
俺たちは食券を購入して、ガヤガヤと騒がしい食堂内を見渡した。どこもかしこも、料理の温かく美味しそうな香りに満ちている。
端の机から友人や恋人と食事をとっている生徒たちに順番に目をやっていると、やがて桂井の姿も目に入った。彼は隅の方の席で、目立たないようにポテトを食べている。
そういえば、桂井はなぜあんなに大事そうにしていたノートを教室に持ってきたのだろう。大切なものなら、元から持ってこなければいいのに。
「おーい、きみ、聞いてる?」
「あ、ごめん。何の話だっけ?」
「今週末、どこ行こうかって話。まあ、この前ある程度一緒に歩いたから、徒歩で行けるところはあらかた行き尽くしてると思うけどね」
「深佳は、どこか行きたいところはないのか?」
「そうだなぁ……カラオケにでも行く?」
「駅前にあったあそこか。混むのが早そうだし、午前中から部屋は確保しておいた方がいいだろうな」
「いいね。じゃあ、お昼もそこで済ませようか」
二人で話しながら、楽しくなりそうな休日に思いを馳せる。思わず頬が緩みそうになっていたところで、深佳から話を切り出された。
「そういえば、最初の方ぼんやりしてたけど、君は何を考えていたの?」
「ルールって、何のためにあるんだろうなってこと」
「そうなんだね。なんでまたそんなことを?」
「今日はちょっと色々あったからな」
「ふーん、どんな?」
俺は素直に、授業中にあったことを深佳に話してみた。
「……まあ、結局あいつはノートを破られちまったわけなんだけどな」
深佳はオレンジジュースをストローから一口吸い上げて嚥下した後、うっすらと口元に微笑みを浮かべた。どこまでも優しげで、慈愛さえも感じさせる。しかし、その表情は、次の瞬間に彼女の口から紡がれた言葉には到底そぐわないものであった。
「それの何が問題なの?」
まるでわからない、というように、穏やかな笑顔で首を傾げる。
「俺もわかんない、けど……なんか、違うじゃん」
「何も違わないよ。ルールは私たちを守るためにあるんだから。守られる権利を擲つ生徒がいたら、生徒を守らなきゃいけない教師が少し厳しい指導をするのは、当然じゃないかな」
落ち着いた声で彼女に懇々と諭されていると、どうしようもなく俺の心をかき乱していた違和感は霧散していく。何に対して、俺はそこまで疑問を覚えていたのだろう?
「とはいえ、生徒指導にかまけて授業をおざなりにしたり、その後君に詰め寄ったりした赤松先生もどうかとは思うけどね」
こそっと、深佳は付け加える。
自分の胸のうちに渦巻く感情をなんと説明したものか考えながら、俺は2割ほどしか食べ進んでいなかった親子丼を腹に収める。
不意に食堂のドアを開いて一人の男子生徒が転がり込んできたのは、深佳と談笑していた時であった。
「おいテメェっ! 俺をここまで痛めつけておいて、タダで済むと思うなよ!」
礼央だ。今日は一体何をしでかしたというのか。
「繰り返す。あまり私の手を煩わせるな」
その後ろから、まるで白金の弾丸のようにもう一人の生徒が飛び込んでくる。ボイスチェンジャーを通した抑揚のない忠告とのアンバランスさだけでも、その存在の異質さを十分に形容することはできよう。
後から飛び込んできた彼は特別な地位についている人間だ。通常の生徒とは違うところがいくつも存在する。制服の上から白いローブを羽織り、腰には真っ白な鞘に収まった刀を携えている。頭髪はローブについたフードで、顔は金色の細い線で花が描かれている美しい仮面によって隠されている。生徒が自治するこの高校の最高権力、異端審問委員会の正装だ。
「……あら、今日もやってるのね」
「そうみたいだな。毎日毎日あいつを追っかける異審委員も大変だな」
平然を装って言いながらも、俺は心中穏やかではなかった。
呻き声と、それを遮るような鈍い打撃音がこだましながらこちらににじり寄ってくる。異端審問委員に制裁されている以上は間違いなく礼央が何か問題を起こしたからだが、歯が吹っ飛ぶまでボコボコにされる様ははっきり言って見ていられなかった。せめて目の前で繰り広げられている壮絶な惨状が目に入らないように、意味もなく空になった丼鉢を見つめる。
「なぜ目を背けるの?」
深佳の声が頭上に降ってきてはっとする。そうだ。目を逸らしたら同罪になってしまい、俺も制裁される。心苦しいが、俺はただ殴られ続ける礼央を見続けるほかないのであった。