60話
風光る季節。桜は既に散り際にあり、枝の先で柔らかな薄緑色の若葉がふわふわと揺れる。緩やかな風に乗ってわた雲が空を流れる。
一方、室内では時計の音すら大きく聞こえるほどの静寂の中にあった。その中でコポコポとお湯が注がれる温かな音が鳴っている。ソファに腰かけている西和田隆は、ふんわり漂う豆の香りに僅か鼻を動かした。
「らしくねえの」
キッチンとリビングの境もあいまいなこの場所では隆のぼやきは当然、本人に伝わる。言われた当人は落とすように笑うのみで返答もしない。以前では考えられないほどの穏やかな様子に隆は更に煽るように言葉を紡いだ。
「今まで人にやらせてたくせに、さも普段通りですって顔でコーヒー煎れやがって」
「元より料理は得意だ」
「嘘つけ」
軽口を叩き返され、隆はとうとう諦めてソファに身体を沈めて辺りを見渡した。
ここは庶民向けの一軒家。部屋数も外から見てリビングの他に2つあるかくらいの大きさだ。リビングには隆が座るソファの他に食卓テーブルと椅子が2脚、ソファ前のローテーブル、本棚があるだけで華美な装飾はない。そんな家に暮らしているのは嘗て公爵だった男、久木野利津。
利津は丁寧に煎れたコーヒーをカップに注ぐと隆の座るソファ前まで来てそっと膝をついた。二つの内、来客用であるカップを音もなくローテーブルに置いた。所作一つ一つに育ちの良さが垣間見え、隆は大きく溜息を吐いた。
「らしくねえよ」
「さっきも聞いた」
「適材適所ってあるんだよ。お前はこんなことするような奴じゃねえだろうが」
「俺が何のためにいるか、俺が決めて何が悪い」
「はぁ……頑固なとこは変わんねえのか」
隆は呆れた声色を隠すことなくぶっきらぼうに言うと置かれたカップを手に取り、そっと口付けた。深く静かな苦味が舌を撫でる。喉を流れる時でさえ一瞬の甘みもない。まるで利津を体現するようなその味に隆は身を固くした。
「美味いか?」
膝をつき見上げる利津に、隆は眉間に皺を寄せふいっと視線を逸らした。
「悪くねえ」
「だろう?」
そう言うと利津は立ち上がり、スツールを一つ持ってきて隆の向かいに座った。
利津の身なりは変わらない。元々貴族らしからぬ気負いのない服装を好んではいた。白い襟付きのシャツに黒いスラックス。体躯がいいのもあってそれだけで十分格好がつく。そのくせ、筋肉の動かし方だろうか、妙に品を感じさせる雰囲気がある。なので利津は今も貴族だと言えば誰もが納得するであろう。自然と滲み出るその品格に、隆は内心舌打ちをした。
反して、利津は気を良くしたように微笑み首を傾げた。
「俺をジロジロ見るために国境超えて来たのか?」
「まさか。これを届けに来たんだよ」
隆はショルダーバッグから大きめの封筒を一つ取り出しローテーブルに置いた。利津は真っ白なその封筒を視界の端に入れるだけで手に取ろうとはせず、自分のコーヒーに口をつけた。
「また失敗か」
呆れを装いつつ、利津の声はどこか諦観の色を隠せずにいた。
「あーね。無理だっつってんだろ」
「隆と友之がやれば見つかるだろう」
「俺らのことなんだと思ってんだよ」
「清廉な医者と闇医者」
「はっ、どっちがどっちなんだ?」
また、利津は落とすように笑った。
昔も笑ってはいた。が、それは人を見下したり、貶したり、負の感情が現れた冷たいものだった。今はどうだろう。春の陽気にぴったりの穏やかな笑みを浮かべている。
らしくない、隆はもう一度内心で呟いた。
「大体、共に生きたいってんなら普通は不老不死の方を探すだろ? なんたって殺す方を探すんだ?」
利津の長い銀色の睫毛が揺れ、翡翠色の瞳が隆を見る。
「美しいものは全て一時しかない。そうだろう?」
「自分を美しいって言ってんのか? アンタは」
「生の話をしている。貴様も、虫や花もこの世にある全てが儚く美しい」
「虫と同類だって?」
隆は片眉を上げさもおかしなものを見たような目で利津を見つめ、やがて諦めたようにカップをテーブルに置いてソファに身体を沈めた。
「あの日、久木野の邸宅から出てから大変だったんだぜ? 軍が押し寄せて来るわ、西和田の家が燃えてるわでよ。……アンタと違って俺の家族は仲が良かったんだ。俺だけは生き延びられてよかったと思う反面、一緒に死ねば良かったと未だに思う」
隆の言葉を聞きながら利津はコーヒーカップの縁をなぞりながらぽつりと呟いた。
「貴様が死ねば俺の願いは永久に叶わない」
その言葉に隆は目を剥いた。
「軍が攻めてくること知っていたのか?」
利津は肩をすくめた。その表情は肯とも否ともとれない。
いずれにせよ、隆が利津を責めることは出来ない。仮に知っていたとしたら利津は隆を助けたことになり、知らなかったとしたら利津も被害者なのだ。
隆は大げさに溜息を吐くと両手を上げて降参の姿勢をとった。
「生きててやるよ。北のダンピールと一緒にいるのは癪だけど、アンタの頼みならいくらでも聞いてやる」
「友之には友之なりの思惑がある。隆も思うままにやればいい。俺はそれを否とは言わぬ」
居場所や地位は変わってしまったが本質は全く変わらない幼馴染に、隆はくすぐったそうに笑ってもう一度コーヒーに口をつけた。苦くも香る甘い匂いに気づき、舌の上で転がした。
「そいや影島は? 一緒に住んでんだろ」
「墓参りに行っている」
「は? 誰の」
「父と母の墓参りだ」
「んなのいねえだろ。何言ってんだ」
隆は片眉を上げ、小馬鹿にするように笑った。吸血鬼の祖である世那に親などいるはずもない。
そんな隆の言動に利津は無表情でじっと見つめた。翡翠色の瞳に以前の影が落ちる。
「愚弄するか?」
春の陽気を体現したような空間が一気に冷える。隆はひゅっと喉を鳴らし首を横に振った。これ以上問うことはないと暗に告げた行動に利津は再び柔らかな表情で話し始めた。
「血の繋がりがなくとも世那にとっては親だ。……貴様にはわかるまい。未だ真祖、ダンピールと差別するようでは……」
「区別はする。俺もアンタも真祖だ。一時は帝国で爵位を持つほどだったんだ」
「その帝国すら今は無いだろう」
隆の視線が鋭くなる。利津はコーヒーをローテーブルに置くと膝を組んで座り直した。天井を仰ぎ見て細く息を吐いた。
「くだらんな。何もかも」
低い声がまるで歌うように言葉を紡ぐ。見下したその物言いは変わらない。それでもどこか温かみのある雰囲気を持ち始めた元公爵の男は視線を窓の外へ向けた。
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嘗て繁栄を築いた帝国は歴史書の中にのみ存在する。現在、王政は崩され反政府軍だったレジスタンスが国の実権を握り支配している。はじめこそ人々は嘆いた。しかし、今ではそれを慮るものはいない。王を作らず、人々は自分たちで国のリーダーを決めるようになった。
人々の生活は変わろうと季節は変わらず移ろう。空は青く、雲は流れる。温かな風に吹かれて木々が揺れている。
世那は親と称した人々の墓の前で跪き、見上げていた。鳥の囀り、足元で飛び回る昆虫、花の甘い香り。人間の手が加えられた墓だけが異様な姿で聳え立っている。
「絶好の墓参り日和っすね」
世那の背後の男が明るい声で語り掛ける。嘗て、久木野利津の運転手兼世話人のようなことをしていた男・佐藤だ。
世那は振り向くことなく明るい声で答えた。
「命日なんだ」
「あー、だから今日なんすね」
「ついでにはちょうどいいだろ?」
「どっちが本命だったんすかねえ」
乾いた砂利が音を鳴らす。佐藤がそれらを踏み締め世那の隣に来て、横にしゃがむと手を合わせ目を閉じた。
少しの静寂が過ぎ、佐藤は膝に手をついて勢いよく立ち上がった。
「利津様、元気にしてます?」
「あぁ」
「そりゃ、何よりです」
世那はもう一度だけ墓を見て、ゆっくりと立ちあがった。そうして振り向き、この日初めて佐藤を視界に入れ、目を瞠った。
佐藤は以前よりも痩せていた。元々筋肉質な方ではなかったが、明らかに病的な痩せ方をしている。
世那の驚きに佐藤は声を漏らし、首を振って笑った。
「あーあー、やめてくださいよ。しんみりはナシで。知ってるでしょ? 俺の身体は色んな薬キマッてて長くないの。まあ、そのおかげで俺の血は腐ってて、利津様の役に立てたっつーんだから、万々歳っすよ」
佐藤は務めて明るく答えているようだった。そうでもしなければ精神が保てないと言った方が正しいのかもしれない。
世那は佐藤の話を黙って聞いた。反論するでも同情するでもなくじっと耳を傾けている。間が持たず話し始めたのは、また佐藤だった。
「まさか帝国が滅びるなんて誰が思います? あの日、俺とリリィは年始休暇をもらってて街で遊んでた。年相応に喜ぶリリィを見たのはあれが最初で最後。そのあとは、もう、ただ逃げるだけの日々だった。たまたま西和田様に会えたから俺たちは北で暮らせてるけど、久木野で働いてた他の連中は。……嫌いな奴らだったけど、無事に生きていればいいって思っちまう。我ながらお人好しにも程があるっつーか……」
墓標を囲むように生える木々が風に揺られて葉を鳴らす。そんな音すら聞こえるのに世那は何も言わない。
佐藤は口を真一文字結んだ。急くように今まであったことを羅列した。そう、ただ羅列したのだ。世那が答えないことで、佐藤が保っていた理性のタガがここから徐々に崩れていく。
「俺、利津様といる時が一番楽しかったなぁ。あの人といる時だけ俺は人間になれてた。ほんとは、今日も世那さんじゃなくて利津様に会いたかった」
佐藤の声が震え始める。
「悔しいなぁ。……なんつーのかな。利津様、きっと今はとっても幸せなんでしょう? 世那さん見たら、わかっちまった」
佐藤の指先は震え、口を抑えた。目からは大粒の涙が溢れ頬を濡らし顎を伝って地面に落ちた。
「……」
すぅっと息を吸う音が聞こえ、佐藤は世那を見た。世那は少しだけ笑みを浮かべて首を傾げた。
「幸せに決まってんだろ」
佐藤は口から手を離し、目元を拭いながらつられるように笑った。
「そうっすよね」
佐藤が利津といたのはほんの数年。長かったようで短かった時間は戻っては来ない。永遠に続くと思っていたことも一時の夢のように儚く遠い。
佐藤はもう一度だけニカッと笑うと片手をひらりと上げた。
「じゃ、俺帰ります。利津様によろしく」
「佐藤」
凛とした声が響き、森に隠れていた鳥たちが一斉に羽ばたいた。うっすらと浮かぶ雲がより一層青を引き立て、その中を自由に鳥たちが旋回する。
佐藤はくるりと振り返り、慣れた目のまま首を少しだけ傾けた。世那は一度口をつぐみ、そうしてゆっくりと開いた。
「利津のそばにいてくれて、ありがとう」
時が止まったように風が消える。うららかだった空間が一変し、佐藤の顔から笑顔が消えた。
「何様のつもりだよ」
自然と敬語は取れていた。恨み言にも似たそれを世那は小さく笑って首を横に振った。
「次は利津も連れてお前とリリィに会いにいく。これでいいか?」
「世那さんはいらないなぁ」
「わぁったよ」
悪友のような軽い問答の後、二人は目を合わせ笑い合った。
もう語ることはない。次があるならばその時に昔話に花を咲かせればいい。
世那は佐藤の横を通り過ぎ、先にその場を後にした。佐藤は墓標の前で見送った。
雪は永遠になく、時間がかかろうとも太陽が草原の雪を溶かす。翡翠は漆黒に憧れ、やがて黄金を見つけ熱を孕む。
偏愛によるものか、純愛か。その答えは二人だけの秘密である。
end...
ここまでお読みいただきありがとうございました。
前作「月夜のハルジオン」を書いてから2年と少し経ってからの新作でした。
はじめに、このお話を書く起点として「男×女」ではなりえない対等の関係を書けないかな? というところから始めました。男と女ではどんなに強気な女の子でも「最後は守ってもらうんでしょ?」と思われるし、弱気すぎる男の子は見ていられません。※あくまで個人の感想。
それで「守り守られ、お互いに支え合う関係になるお話を書きたい!」と思い、初めてでしたがBLを書かせていただきました。
始祖の末裔と言われる男・久木野利津、全てをなくした元人間の吸血鬼・影島世那。ここまでお読みになった方ならお分かりだと思いますが、途中で立場が逆転します。(前作も神か魔王かで逆転する書き方をしていました。逆転大好き)
翻弄される世那、自分の思い通り事を運ぼうとする利津。それは時に逆転していることもありました。
一章では利津×世那。
二章では美玖×利津で男女逆転にしつつ、利津がヒーローで世那を助ける、と見せかけて本当のヒーローは世那で。と、女の子に引っ掻き回してもらってました。(女の子つよつよのお話大好き)
三章では世那×利津に。
……見えていたでしょうか?(汗)
BLを楽しみに来てくださった方は、おそらく二章あたりでざっと消えてしまったかなと思います。BL苦手だけど読んでみようかな? と思ってくださった方は比較的、残ってくれた気がします。ありがとうございます。゜(゜´Д`゜)゜。
いずれにせよ、ここまでいらしてくださった皆様に感謝と感謝と感謝を!
筆を折らず、最後まで書き続けられたこと、皆様の応援のおかげです。
「小説家になろう」では、ブクマ、コメント、評価。コメントが時々ポコンと来るたびに震えていました。叫んでもいました。泣いてもいたかも。
「ノベルアッププラス」では、更新のたびに感想をくださる方、定期的にザッと一気読みしてくださる方。毎回の更新のたびに本当に勇気付けられていました。改めてありがとうございました。
「エブリスタ」では100を超えるスターをくださる方のなんと多いこと! 毎日ぽちぽちと押してくださっていたのだろうと思います。此方ではスターをたくさんくださった方、限定のお話をいくつか置いています。もしご興味があれば是非よろしくお願い致します。
このお話はここで完結です。
ですが、「BLしてねえじゃねえか!」とキレてくださる方のために番外編「世那と利津」を近々上げる予定です。此方は基本R15でお話が展開しますが、「エブリスタ」のスター特典限定で「大人版」を上げます。初めてR18に挑戦しました。
奇特な方は是非スター特典の方もよろしくお願い致します。
あとがきはここまでです。
改めまして、「ユキトハレ」を最後までお読みいただきありがとうございました!!
2025年8月4日 江川オルカ




