7話
利津がいなくなって次の日は何事もなく過ぎて行った。世那の部屋へリリィがやってきて軽口を叩き合っては笑い合い。日課の筋トレをしてシャワーを浴びる。
ただいつもと違ったのは日がすっかり沈んだ頃だった。リリィが運んできた夕飯の盆に血液の入ったパウチが乗っていた。
「これは?」
「夕餉には出すように言い使ってますので」
「誰から?」
世那にはわかっていた。でも聞かずにはいられなかった。世那を人として扱わず獣以下と言っても過言ではない対応しかしない利津が世那を思って何かをしたとは認めたくはなかった。それにこのパウチも何が目的かわからない。懐柔したいのか、ならばいつもの対応は何なのか。
リリィはきょとんとして小首を傾げた。
「ご主人様からです。もうご存知だと思いますが、私は吸血鬼ではありません。私のご主人様はご自分で吸血鬼を作ろうとはなさらない。扱いにくいと分かっていても近くに人間を置く方なんです」
「……」
「こんなに奇特な真祖は1人しかおられません」
冷たくそれでいて凛とした声でリリィは言った。人間であることを誇りに思い、吸血鬼化させない主人を尊敬している。
世那は軍でたくさんの吸血鬼たちを見てきたから知っている。元人間であるはずの吸血鬼たちはこぞって人間を馬鹿にしていた。主である真祖が現れれば思考を取られてしまう癖に。
自分で考える術を失われて何が素晴らしいのか、世那は吸血鬼が大嫌いだ。大嫌いな吸血鬼、まさか自分がそうなってしまうなんて考えたことはなかった。主がわからない親なし吸血鬼なんて最低も最低だ。
「まぁまぁ、難しい話はこれくらいにして。食べちゃってください。あとでまた取りにきます」
リリィはいつもの明るい雰囲気に戻っていた。両手を目の前で振り、気恥ずかしそうに笑いながらそそくさと部屋を出て行ってしまった。
騒がしかった部屋がシンと静まり返る。世那は大人しく椅子に座った。食事はいつも温かく、コップに入っている水には氷が浮かんでいる。鼻腔をくすぐる美味しそうな香りに世那はごくりと喉を鳴らした。
姿勢を正した時にジャラリと鎖が床に当たった。聞き慣れた足枷の音も、この部屋での生活も当たり前になり過ぎている。
いつの間にか初めの頃のようにいかに逃げ出すか考えることもなくなっていた。親なしだろうがなんだろうが所詮元人間の吸血鬼。肉を切り裂く牙を手に入れた代わりに大事な何かをなくしてしまっている。
「バカくせえ」
情けない。そう思うと悔しさから拳を強く握り俯いた。今更逃げられたとしてその後はどうなる。ここの甘い暮らしを思い出しては戻りたいと願ってしまうのではないだろうか。そもそも世那にとって何かしたいことはあっただろうか。
父母が亡くなってから世那の目標は何一つなくなっていた。思い返せば一人になってからいい思い出など一つもない。
―――
世那は両親に愛されていた。父は工場で働き、母は弁当屋のパート勤め。ごく普通の温かな家族。お金持ちとは程遠かったが、それでもボーナスが入れば少し高い牛肉ですき焼きをしたり、年に一度は家族で近場の旅行をしたりした。
世那にとっては十分すぎるほど満たされており、いつも一生懸命な父母が大好きだった。
生活が一変したのは世那が10歳。暦の上ではまだ真夏とは程遠いはずにも関わらず汗がにじむ程の暑さの日だった。
夏休み前でウキウキする気持ちを隠しきれない世那は終業式を迎え、大荷物を抱えながら帰路を歩いていた。友達と別れ、人気の少ない裏道に入った時、こつんと誰かにぶつかった。どさどさと袋からものが零れ落ちる。
「あ、ごめんなさい」
世那はすぐに謝り、自分の荷物を拾い始めた。
一方ぶつかった大人は動かずじっと世那の前に立ち続けている。荷物を抱えながら世那は恐る恐る見上げた。
30を優に超えた男がぼろぼろの服でぼうっとどこかを見つめている。世那のことは見えていないようにただまっすぐ虚空を眺めていた。日陰のせいではっきりと顔を見ることはできないが妙に鉄臭い。
「っ……」
世那は気味が悪くなって荷物を抱え逃げるように男を抜かして家の方へ走った。背後から追いかけられいたらどうしよう、そう思って振り返ることを忘れ全速力で走った。
じりじり焼けるような道路を駆け抜けやっと家に着くと扉を開けて中に入り鍵をしめた。
よかった、逃げ切れた。
そう思ったのも束の間、いつもは出迎えてくれる母の声が聞こえない。それに綺麗にそろえられている玄関の靴が四方八方に乱れている。
「ただいま……」
ぎゅっと抱えた荷物に更に力がこもる。鍵は開いていた。なのにどうして母が出迎えてくれない。
世那は靴を脱ぎ、荷物を下ろすとリビングの方へ歩いた。涼しいエアコンの風が廊下を抜け、汗だくの世那の体を冷やす。リビングのドアも開けっ放しだった。
自然と足音を消し、世那はゆっくりリビングに入った。探すまでもなく母の姿を見つけ、仕事に出かけていたはずの父と共に2人そろってソファにもたれかかっていた。緊張の糸が解け世那は深いため息を吐き、持っていた荷物を下ろした。
「お父さん今日お休みになったの?てか、おかえりくらい言ってよね」
2人から返事はなかった。それどころか2人は何も映らないテレビの方を向いたまま世那を見ようとすらしない。世那は苛立ちと恐怖から足の先だけで歩き近づき、テレビの方へ回りソファに座る2人を見た。
「っ!」
思いもよらない光景に世那の足から力が抜け、受け身をとることを忘れ尻もちをついた。
父と母はソファに座っていたのではない。首から真っ赤な血を流し仲良く寄り添うようにソファに置かれていた。
何が起きているか世那はわからなかった。床に手をついたと同時に指先に何か触れた。見慣れない紫色の部隊章が地面に落ちていた。
―――
世那はテーブルに置かれた血液のパウチを手に取り、封を切った。そして飲み口を咥えると一気に口内へ流し込んだ。
飲み慣れていたはずの誰かの血液。これで満足していた頃が懐かしい。
味を知ってしまった世那には物足りないものだった。真祖の血に勝るものがないことを身をもって知らされている。全て利津の思惑通りだろうと思うと胸のあたりに何かつっかえたように感じ、世那はパウチを握りつぶしテーブルに置いた。
両親を殺したのは吸血鬼だった。今の世那と同じ、元人間の吸血鬼。その吸血鬼は程なくして見つかった。世那がひろった紫色の部隊章は東の真祖に与えられるものだったと後で知ることになる。
「……」
忌み嫌う吸血鬼に自分が成り下がっていることに世那は耐えられなかった。自死してしまえば楽だろうが、吸血鬼の再生能力に勝るダメージを自分で与えることはできない。
そのくせ、日に当たれば苦しさから逃れ、血を与えられればこうして貪ってしまう。
「くそっ……」
咥内に残る血の味のせいで食欲が失せてしまい、世那は食事をとることなく現実から目を背けるようにベッドに倒れて眠りについた。
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