59話
雲ひとつない澄みきった空に、耳が痛むほどの冷たい風が吹きつける。吹くたびに利津は身をすくめた。寒がりならばダウンジャケットのようなものを羽織ればよさそうだが、利津は白のロングコートを着用している。
世那は人気のない朽ちた集落に息が詰まりそうになりながら、利津の横を歩いた。
「世那は何故東へ行こうと?」
利津の問いに世那は足を止めた。その場にとどまる世那に利津も足を止め振り向く。視線が交わっても世那は答えず黙り込む。
利津は左手を世那の顔の前に出し、人差し指を上にあげた。
「俺が東を選んだ理由を教えてやろう。1つ、帝国の息がかからない。2つ、祖母が俺を匿うと思ったから」
その言葉に、世那は僅か口を開いて、閉じた。
無謀な賭けだ、と世那は思った。もし、祖母である梅子が帝国とつながっていたら、拒まれていたら……。
世那は閉ざした口をゆっくりと開き、嘲笑した。
「適当だな」
ぼそりと呟く世那に、利津は目を細めて笑った。
「世那がいればいい。世那も、俺さえいればいいと思っているのだろう」
利津はほうっと白い息を吐いて空を見上げた。翡翠色の瞳が銀色の睫毛の向こう側で揺れる。
「母に言ったな。俺にはもう貴様しかいないと」
「あぁ」
「昨夜、貴様はこうも言った。俺が世那なしで幸せになることを許せぬと」
一つずつ事実を積み上げられ逃げ場を失わされる。次に問われたことはあまりにも単純だった。
「何故?」
世那は言葉を失った。理由など、利津もわかっているはずだ。なのに、どうして尋ねてくるのか。
「皆、外側だけに囚われている。爵位、軍位、家柄、真祖、始祖……。くだらぬ社会性のみで俺を評価し、俺も他をそのように評価していた。だが、世那は違う。貴様が人間であった時、吸血鬼に堕ちていた時、……始祖に戻った時。どんなときも世那は世那だった。力に溺れることなく、周りを恨むことなく、己の立ち位置を理解し、何も欲さず愚直に生きる。……そんな世那に俺は惚れている」
射抜くようにまっすぐな言葉が集落の更に向こうの海へと投げられる。
愚直な愛の告白だ。普通ならば甘やかな幸福感に浸るだろうが、世那は違っていた。墨を水に溶いたように罪悪感が滲んでいく。
始祖は孤独であるべき存在。人の社会に深く関われば、また同じ悲劇を繰り返す。神にも等しい始祖は、同時に凶器だ。誰より世那自身が理解している。
――断らなければならない。利津を思えば、ここで。
「共に歩みたい」
核心を突く言葉がついに告げられ、世那は背けていた顔を利津に向けた。利津は感情の乗らない目で世那を見つめていた。
普段の格式ばった言い方ではないどこか少し甘えた表現は幼い頃の利津と重なる。ずるい、そう思った。
「ここに長居するつもりはない。更に東へ行き、俺たちを知らぬ者の中で生きる」
「馬鹿言うな」
世那の口内には、しょっぱい味が広がっていた。海風が運ぶ塩気だけのせいではない。ほろ苦さを帯びたその味に、世那は再び俯いた。
利津は変わらない。己がしたいように貫き、楽しもうとする。幼稚で独善的な性格。ただ、肝心なところは弱気になって決断が鈍る。それは育った環境のせいかもしれない。
もしここで世那が断れば、利津は感情を抑えきれず再び乱暴に世那を繋ごうとするだろう。感情を抑えながらも、結局は乱暴な手段だけが彼の中で残る。
果たしてそれは幸せだろうか。
びゅっと冷たい風が二人の間を抜けていく。
世那は一度強く目をつぶって、ゆっくりと開いた。黒い瞳には拒絶がのっている。
「会えなくなんだよ。梅子ばあさんにも、母親にも。西和田隊長だって、佐藤もリリィも。俺と共にあるってのはそう言うことだ。俺は始祖だ。お前だけが歳を重ね、死んでいく。そんなのお前にとって……あんまりだろ」
捲し立てるような世那の言葉を利津は表情ひとつ変えずじっと聞いていた。息急く世那がひとつ呼吸を入れた時、利津は両手をそっと上げ、世那の頬を包み込んだ。
「世那が始祖で死ねぬと言うならば、残りの生涯をかけて俺が貴様を殺してやる」
「俺を、殺すって?」
世那は鼻で笑った。何を馬鹿な、と嘲笑するその笑みはどこか歪んでいた。利津は純粋な目で世那を見つめ首を傾げた。
「俺が亡き世で生きられぬだろう」
「はっ……んだよ、それ」
「悠久の時を生きてきたのだろうが、最期は俺が決める。俺があの世へ送ってやる」
なんとも傲慢な言葉に世那は二の句も告げられず押し黙った。しかし、不思議と利津の言葉は嫌ではなかった。むしろ世那の心内はホカホカと温かくなっていく。
怜悧な視線は世那を見抜く。もう一歩、利津が世那に近づく。靴先が触れるほどの距離は利津の澄んだ香りをいとも簡単に運んできて、世那の思考を鈍らせた。
「貴様はどうしたい。俺から離れたいのか、一緒にいたいのか」
軍人とは思えぬ艶やかな指先が世那の頬を撫でる。その指の温もりは冷えた心を溶かすようだった。細やかな動きが世那の肌を優しく撫でる。
誰が抗えると言うのか。晴れ渡る空の下、煌めく雪の道の真ん中で美しい男が是を望む。否定という選択肢は消えていく。
「ほんと、お前ってずっと俺のこと好きすぎんだろ。……狂ってる」
「狂いついでだ」
その声は冗談とも本気ともつかない。だが、そこには確かな覚悟が滲んでいた。
「世那、俺を眷属にしろ」
思いもよらなかった契りに世那は目を丸くした。眷属。その意味を最も理解しているはずの利津が自ら望んでいることに驚いたのだ。
翡翠色の瞳は少しの恐怖を滲ませながら、審判の時を待っている。
「要するに噛みつけってことか?」
世那は敢えて尋ねた。
「それ以外に何がある」
利津は微動だにせず淡々と答えた。
確固たる意志のもと紡がれた言葉は強く世那の心を打った。頬を包むように添えられた手に世那は甘えるように擦り付いた。抗う気はもう失せていた。
「そういえばお前、俺に噛まれるの好きだったな」
「人を好きものみたいに言うな」
「好きものだろ?」
世那は辺りを見渡して利津の手を掴むと寂れた小屋の後ろへ隠れるように入り込んだ。世那の手が利津の顔の横に来て壁に添えられる。世那と小屋の間に挟み込まれ、逃げ場を失った利津は口角を上げた。
「随分と大胆な……」
「噛んでやるよ。どうなるか教えてやる」
ぼそぼそと紡がれた利津の言葉を一蹴し、世那は利津の首筋に顔を埋めた。自然と近くなる距離に利津の身体が強張る。それを感じながら世那は晒された白い首筋に舌を当て、間を置かず牙を突き刺した。
「っぐ……」
世那の見目は始祖のものへと変貌し、銀色の髪が潮風に乗って揺れる。利津はその髪に指を入れて強く首元へ引き寄せた。
「……」
吸血行為は吸血鬼にとって悦びだ。噛む方も噛まれる方も極上の快楽に夜の営みを思わせる者もいる。
だが今、利津にやってきているものは快楽ではなかった。ただの痛み。世那はそれをわかっていて牙を突き立てたのだ。
「ふふっ、ははは」
地鳴りのような低い声が笑う。利津はわかったのだろう。始祖・世那に眷属化の力がないと言うことを。痛みの向こうからやってくるはずの快楽はいくら待ってもやって来ないのだから。
それでも世那は利津の皮膚から溢れる鮮血にむしゃぶりついた。世那にとって久しぶりの吸血ということもあるが、愛しい男の血が咥内いっぱいに流れ込んでくる。利津の澄んだ匂いと、甘い血。鼻も舌も喉も、何もかもが利津で満たされていく。
利津は吐息交じりに溜息を吐いて呟いた。
「始祖であろうと、単なる吸血鬼であろうと、世那が俺に与えるのは痛みだけか」
諦めにも似た声とは裏腹に、世那の頭に添えた手には力が入り、反対の手は腰を引き寄せ更に身体を密着させた。
世那の牙がずるりと皮膚から抜かれる。ふるりと震えた利津の身体を世那は強く抱きしめた。互いの身体が出来うる限り重なる。
「俺は誰も眷属にできない」
呟いた世那の声は僅か震えていた。
利津は世那の首筋に顔を埋め、甘えるように唇を這わせた。
「眷属とは人間の血が混じる我々、真祖が独自に生み出した力と言うことか」
嬉々とした利津の声に反して、世那はただ強く抱きつく。
眷属化出来ない。それはつまり何の契りも交わせないということ。生の縛りも、眷属化も、血を啜り合う悦びもない。ただ痛みを与え続けるだけの存在だと改め気付かされ、世那は途方に暮れた。
利津の視線が世那に向く。小馬鹿にした笑いはなりを顰め、代わりに優しい笑みを浮かべていた。
「どうすれば溶けるのだ」
「……は?」
利津らしからぬ情緒的な言葉に、世那はつい素っ頓狂な声をあげてしまった。
何を、と世那が問う隙も与えず、利津は足元の雪を払い地面に靴を滑らせた。
「永遠を願い、否定し、また願い、否と言う。なんとも人間臭い」
まるで歌うような言葉に世那は二の句も告げられなくなった。翡翠色の瞳が雪から愛しい存在へ向かい、世那はひくっと身体を震わせた。
「答えのない答えを探すよりも、他と我々の違いを楽しめばいい。……違うか?」
時折見せる年不相応の達観した言動。世那はその言葉に何度翻弄されてきたか、もう数えることは出来ない。
世那は眉尻を下げ口元を緩めた。利津の頭に手を添え額と額を合わせるように顔を近づける。最後の勇気をかき集めて世那はゆっくりと口を開いた。
「利津、俺は……」
一瞬、雪を巻き上げるほどの潮風が通り抜けた。




