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56話

 ルームサービスの食事は悪くなかった。おそらく冷凍物を温めた程度のものだろうが味も食感も値段相応だった。

 リツはあさりが大好物だといい、迷うことなくボンゴレパスタを選んだ。男が理由を問えばリツはにっこり笑って答えた。


「お母さんのおうちはね、あさりがたくさんとれるの」


 それは幼くもリツはしっかり理解していると言うことの表れだった。

 全てを手に入れたと言われる真祖・久木野でさえ東の地に向かうことはそう簡単ではない。この時東が独立していたわけではないが、不穏な状況であることに変わりはなかった。好き好んで帝国の都市からそちらへ向かう物好きはいない。

 東は海に恵まれている。海産物はもちろん、広大な土地では酪農が盛んで食べ物に困ることはない。


 男の疑念は確信へと変わる。リツが純粋な久木野ではなく東の血を混ぜた存在だということを。


「はーっ。ごちそうさまでした」


 半分以上一人で平らげたリツは手を合わせて礼儀良く挨拶をした。男はリツの頭を撫でて無言で褒める。リツは嬉しそうに笑って僅か頬を染めた。


「始祖さまは食べないの?」

「あぁ、残り食べてもいいか?」

「いいよ」


 男が食事をしている間、リツはじっとその様子を見ていた。食べづらいと思いながら男はそれを否定せず好きにさせた。数分もせずに男はパスタを全て平らげると皿をテーブルに置いて水を飲んだ。リツにも飲ませようかとデキャンタから水を注ぎ振り向くと、さっきまでニコニコしていたリツがどこか気恥ずかしそうにモジモジしていた。男はリツの顔を覗き込んだ。


「どうした? 具合悪いのか?」

「だ、だめっ」

「吸血か?」


 男の問いにリツが大袈裟に肩を上げた。わなわなと震えながら、男を見上げる。


「いらないっ」


 リツは男との距離を取ろうと両手を前に突き出した。

 恥ずかしがることはない。吸血鬼にとって吸血は必要不可欠なもの。水を欲することと変わらない。だというのにリツは頑なに拒絶し、男は大きく溜息を吐いて首を傾げた。


「知ってるか? ちゃんと吸血しとかねえと誰彼構わず襲っちまうようになるんだぞ。お前は真祖だ。適当な人間に噛みつくことは許されねえの」

「りつはしないっ」

「しちまうんだよ。……ったく、しょうがねえな」


 飢えられては困る。男は自分の犬歯に親指を当て皮膚を切り裂いた。一瞬の痛みのあと少量の血が指を濡らした。

 リツの鼻先がヒクっと動く。少しであろうと視覚と嗅覚が甘く誘ってきたのだろう。リツの目は瞬く間に真っ赤に染めあがっていった。


「ははっ、ちっちゃくてもやっぱ吸血鬼だな。身体は素直だ」

「う……っ」


 揶揄う男の言葉をものともせず、リツは欲に飲まれることなく踏みとどまった。差し出された指に触れぬよう男の手首を掴んで押して離したのだ。


「りつが飲んだらみんなおかしくなるの」

「は?」

「だめ」


 弱弱しくも最大限に力を込めるリツの爪先が男の皮膚に食い込む。揺るぎない拒絶に男は大人しく手を引っ込めた。


「だめなの。みんな、りつが飲んだらきもちわるくなる。わらって、きもちいいきもちいいって。変になる」


 吸血鬼は本能から己よりも上位の者に従属したがる。元人間の吸血鬼は主人に絶対服従となり、始祖に近ければ近いほど真祖の中でも階級が出来上がる。

 リツが言うことは正しい。久木野の嫡男であるリツに噛まれれば大抵の吸血鬼たちの身体と気持ちが悦ぶ。そのことを噛みつかれた者たちは言っているのだろうが、幼いリツから見れば異様な光景でしかない。

 だが、と男は思う。必要不可欠なそれを拒絶し続けることはできない。


「俺はならねえよ」

「うそ」

「ほんとだ」

「ぜったい?」

「絶対」

「始祖さまだから?」

「あ? ……あー、あぁ」


 短い押し問答にリツの表情が和らいでいく。


「始祖さまはみんなとちがう?」

「違う。あぁ、それは絶対だ」

「始祖さまはみんなみたいにりつを見ない?」

「皆がどう見てるか知らねえけど、まぁ……俺はお前のことちっちゃいなって思ってるよ」

「どゆこと?」

「だから、あー! なんつったらいいんだ? お前の嫌なことはしない。それだけだ」


 確信づく言葉を見つけられぬまま話し続けていたが、リツは何か合点がいったのかふっと落とすように笑った。


「のむ」

「いいこだ」


 男は血濡れた親指を自分の首筋に当てた。リツの瞳は誘われるように男の首筋を見つめる。男の隣に座り直し首を傾げて大きく口を開けた。次の瞬間、細く鋭い牙が男の静脈に突き刺さった。


「っ……」


 皆が言う快楽は男の身体にやって来ない。リツの牙が食い込めば食い込むほど叫びたくなるような痛みが走る。それでも男はリツが飲み終えるのを静かに待った。

 

「ぷはっ……」


 傷口が塞がったところでリツは顔を離した。勢い余って後ろに倒れそうになるリツを男はしっかりと支え、自分の胸の方へ倒してやった。

 リツは惚けたまま男の腕の中で身を翻し仰向けになって男を見上げた。赤から戻った翡翠色の瞳は吸血の余韻を残して潤み、手を虚空へ伸ばし甘えるように男に身を預ける。


「しそさまぁ……」

「なんだ?」

「おとなになったらけっこんして」

「ぶふっ」


 突然の告白に男は笑ってしまった。真剣なリツの眼差しに、男は笑いを堪えるように腕で顔を覆った。


「無理だろ。だって俺もお前も男だぞ?」

「こどもほしい?」

「は?」

「始祖さまがほしいなら、おんなのこになる」

「はははっ、馬鹿じゃねえの」


 子どもの発想は突拍子もない。そしてなんて愛らしいのだろう。叶わないとわかりながらも叶えてやりたくなる。


「でも、そうだな。もし大人になってもお前がいいってんなら叶えてやりてえな」

「ほんと?」

「あぁ」

「ほんとのほんと?」

「約束だ」


 覚えているわけがないとわかっていながら男は事もなげに残酷なことを告げる。

 なぜなら今夜限りの出会いであり、リツの記憶を消し去ろうと決めているからだ。男の約束に嘘偽りはない。ただ、叶う事もない。


「やくそく」


 リツは無邪気な笑みを浮かべて男に抱きついた。


「ほら、もう寝るぞ」

「はみがき」

「はいはい」


 その後二人は歯磨きを終え、布団に横たわった。始めこそリツは楽しそうに話していたが眠気に勝てずいつの間にか眠ってしまった。男はリツの寝顔を見て溜息を吐き天井を見上げた。


 小さな身体に抑え込まれた不安と恐怖。少しでも拭ってやることができればいいが、できない。このまま誘拐してもいい。けれどその後はどうするというのだ。日々寝床を探し、親なし吸血鬼たちを騙して血を啜る様を見せ続けることになる。それはリツにとって不幸せなことだ。


 朝になったら記憶を消して帰そう。帰っても辛い思いをすることになるがリツならきっと大丈夫。賢く素直なまま大人になってくれるはずだ。そう願って男も眠りについた。



ーーーーー





 触れ合っていた唇がゆっくりと離れていく。どちらからともなく目を開け、眼前の相手を見つめる。草原を思わせる翡翠色と夜を映した漆黒の瞳が交わる。

 自分の腰くらいの背丈しかなかった小さな利津。当時世那は利津を守るべき存在としてしか見ていなかった。

 だが今はどうだ。同じ目線まで成長し、たくさんの言葉を覚え、苦労を知り愛を育んでいる。全ては影島世那を手に入れるため。たったそれだけの目的が久木野利津という男をここまで大きくしていた。なんて甘い目標なのだろう。


「一つだけ聞かせてくれ。……お前は幸せか?」


 世那の問いに利津は数回瞬きをして妖艶に微笑んだ。


「世那がいれば幸せだ」


 世那の口から吐息が漏れる。諦めでも馬鹿にしたわけでもない。感嘆の溜息だった。嬉しさと怖さの背後にある背徳的な愛が愛しい。孫やひ孫よりもずっとずっと遠い自分の子孫に恋をしてしまったことを呪いながら世那は困ったように笑う。 

 それを見て利津はフンと鼻を鳴らし尊大に笑った。


「認めろ。貴様は俺から離れられない」


 一握りの理性がサラサラと砂のように指の間から落ちていく。人間となり、記憶を失って、また吸血鬼に堕ち、それでも出会ってしまった。今更拒絶したところで変えられない。

 利津の言う通りだ。世那はもう愛してしまった。久木野利津という青年を。目の前の男を。


「世那」


 幾度となく紡がれた名はもう仮のものと呼ぶには馴染みすぎた。利津が呼ぶたびに甘く響き、世那の中にある理性が溶ける。

 利津の両頬に手を添え自ら顔を近づけた。額と額が触れ合う。世那は細くゆっくりとした溜息を漏らした。


「ごめん、……好きになっちまって」


 唇が僅かに歪み、泣き笑うように口許を震わせながら更に紡ぐ。


「わかってんだ。いけないことだって。でも……利津が俺なしで幸せになることを許せない」


 草原のような温かく、それでいてどこか非現実的な翡翠色の瞳に吸い込まれるように世那は顔を傾けて利津の唇に自分の唇を重ねた。


「……ん」


 利津の体は強張ることなく口付けを受け入れた。利津の指が世那の身体を這う。その手が頭と背中に到達すると世那を強く引き寄せた。

 触れるだけでは足りないようで、利津はうっすらと口を開き、吸血鬼特有の牙で世那の唇を甘噛みした。傷を付けぬよう何度も何度も。


「世那」

「……ん?」


 世那は瞼を開けうっとりした目で利津を見つめる。このまま食ってしまおうか。乱暴な言葉が思いついたのも束の間、利津から紡がれた言葉はとんでもないものだった。


「俺は女にならぬぞ」


 甘い空気はかき消え、世那は利津の肩を掴んで顔を離した。今しがた思い出した幼い利津が言った言葉を大人になった利津が突然言い出し、世那は目を丸くした。


「お前、なんでそれを」


 驚愕する世那とは裏腹に利津はきょとんとして小首を傾げた。


「愛し合うとなればどちらかが女とならねばなるまい」

「は? あぁ? お、お前……」


 狼狽える世那に気をよくしたのか利津はふと小さく笑って人差し指を自分の口元に当てた。

 利津は幼い頃を思い出したわけではない。単純に2人のこの先を語っただけだ。世那は呆れと嬉しさが入り混じった苦笑を漏らした。


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