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55話

 街行く人々は二人を見ることなく通り過ぎる。夕方特有の強い日差しが男の影を伸ばし、その影が男を更に大きく見せたのか少年はその場から逃げ出そうと飛び上がった。


「ぁ……」


 びちゃっと聞きなれない音がした。少年と男の視線が下に向く。少年の片足が水たまりにしっかりはまっていた。しかも靴は履いておらず靴下のままで。飛び上がった拍子に脱げてしまったようでそのローファは図らずも男の足元に落ちている。

 少年は何かを悟ったのか目を見開き固まった。


「ふふっ……」


 男はつい笑ってしまった。相手は怖がっていると言うのになんと不謹慎なことかと更に笑いがこみあげてくる。

 少年は口を引き結び頬を強張らせた。小さな反発に男の胸が何だかくすぐったくなる。愛らしい。その言葉がぴったりだが、口を押えて耐えた。

 すると遠くから何かを探す声が響いてきた。


「〜さま! どちらにいらっしゃるんですか!?」

「皆心配しておりますよ!」


「っ……」


 少年がヒクっと動いた。濡れた片足を気にせず地面を踏み男の脚に抱き着いてきた。


「だっこ」


 ガラスの鈴を鳴らしたような澄んだ声が男の耳に届く。男は発せられた言葉の意味がわからず片眉を上げた。


「は?」

「はやく!」

「お、おう」


 ボソボソ話していた少年が突然大声を張り上げ、男は言われるまま片方のローファを拾って少年を抱き上げた。誰かを探す声はだんだん近づいてきていて、遠くから人込みが割れていく。少年は男の背中を強く叩いた。


「いって、なんだよ!?」

「あれイヤだ。あっちいって」

「あ? あれはお前のことか?」

「はやく!」


 少年に急かされるまま男は声のする方とは反対に駆けだした。だが、声たちは男の姿を見逃さなかったようで二人に向かって声が上がる。


「いたぞ!」

「おい、止まれ! その方が誰か知っているのか!?」

「ただでは済まんぞ!」


 男はなるたけ面倒ごとは避けてきた。なのに今抱えている少年はとんでもなく面倒でしかない。この場で捨て置いたっていいはずだ。

 男の感情が伝わったのか、不意に小さな手が男の胸元を握った。

 今更、捨てられはしない。

 男はひとつ息を飲んだ。少年を肩に抱き直して空いた手でフードを被る。

 

ーー解放しよう。人ならざる力を。


 そうして念じた次の瞬間、空を切る風が一層強くなった。


「ぅわっ」


 少年から悲鳴に似た声が漏れる。男は安心させようと強めに抱きしめ裏路地に入り込んでいった。何度も何度も角を曲がり、人が二人通れるのがやっとの狭い路地に入ると壁に足をつけ飛び上がった。


「っ!」


 タタン、タタンと次から次へと壁を蹴りリズミカルに空へ駆け上がる。近かった地面があっという間に離れていった。


「はぁ、ここまで来れば大丈夫か」


 屋上に着くと男は安堵のため息を漏らした。下では人が行き交っているもののこちらを見るものはいない。

 少年を肩から下ろしてローファを地面に置いた。


「靴下、脱いだ方がいい。……ほら、肩につかまって」


 そう言いながら片膝を地面について濡れた少年の足に触れた。少年は小さく震えたが、おずおずと手を伸ばし肩に触れて足を上げた。

 男は濡れた靴下を脱がせ、ローファをそっと少年の足に嵌めてやった。少し湿っているためグッと押し込んで履かせる。


「よしっ。……あぁ、靴下、片方だけ脱いでたらチグハグか? こっちも脱ぐか?」


 男が窺うように少年を見上げると少年の目がきらりと輝く。翡翠色の瞳が男の瞳を捉えて息を詰まらせる。

 男は慌てて俯いた。そうだ、今自分は人間の見た目をしていない。始祖である金色の瞳に囚われれば真祖の吸血鬼でさえ魅了させてしまう。それに……と思考を巡らしていると男の頭上から無邪気な声が上がった。


「ヒーローなの?」

「……は?」

「へんしん、かっこいいね」

「いや……」

「ないしょ」


 こそこそと話す声の後にしーっと歯に空気を当てる音が聞こえ、男はもう一度顔を上げた。金色の瞳のまま男と少年は目を合わせた。少年はくすぐったそうに笑った。

 見られてしまったからには仕方がない。少年はヒーローだと言った。その線で話を進めようと男は決めた。

 男は一度頭を下げて力を押し込んだ。研ぎ澄まされた感覚は閉じていき、目の端に見える髪も元の黒色に戻っていった。

 少年は「ふぁあ」と感嘆の声を上げ、口を手で押さえていた。


「俺のことはいい。お前はどうする? 家に連れて帰ればいいのか?」


 男の問いに少年の顔は一気に青ざめた。


「い、イヤだ!」

「んなこと言ったってどうすりゃいいんだよ」

「結婚したくない」


 およそ子どもから出てくるとは思えない拒絶の理由に男は閉口した。


「りつよりずっと大人の女の人、あの人イヤだ。こわい。りつは結婚したくないの」


 階級社会ではよくある話だ。生まれながらに許嫁がいることもある。年が離れていることだって不思議ではない。

 嫌だと言われても仕方がないことがあるし、男にはどうしようもできない。言われるまま逃げたがやはり帰すべきだと意を決したその時、少年ーリツの目から大粒の涙が溢れ始めた。


「泣かれてもよ……」

「いやっ、いや!」

「……」


 泣きじゃくる子どもに向かって帰れと突き放せるほど男の心は冷たくはなかった。いや、もとより流されやすい性格が悪さをしたのだ。


「俺と一緒に来るか?」


 一夜だけ。少しでもこの子どもの気持ちが楽になるならば、少しでも落ち着けるならば、と男は安易に提案してしまった。

 案の定、リツは帰らなくて良くなったのだと思ったのだろう。潤んだ目を更に輝かせ大きく頷いた。


「うん、うん!」


 やっと見せた年相応の子どもらしい笑顔。どことなく見覚えのある優しい笑みに男はあっという間に絆されていった。


 

 二人は街の中にある小さなホテルに入った。幸い受付には以前世話になった親なし吸血鬼のホテルマンが一人いるだけ。ホテルマンは男を見てもにっこり微笑んで向かい入れた。覚えていないのだ。男に血を啜られたことも、宿を貸したことも。


「ありがとうございます。ではセミダブル一室、添い寝のお子様一人でよろしいでしょうか?」

「あぁ、子ども用の浴衣はあるか?」

「えぇ、サイズは100からありますが……」


 聞き慣れないサイズ感に男は押し黙った。自分の服はLかMで、その規格にもやっと慣れてきたというのに……。

 男が黙り込んでいるとリツは受付台からひょっこり目だけを出して答えた。


「110」

「かしこまりました」


 ホテルマンは丁寧にお辞儀をして背後にある棚から110cmの浴衣を取り出して男に渡した。


「その他ルームサービスもございますのでお気軽に」


 目的の部屋番号につくと男はルームキーで鍵を開け、中に入って電気をつけた。暗かった部屋はパッと明るくなり狭い部屋の中が露わになる。

 入ってすぐ右にはドアが一つ。まっすぐ向こう側には飾り程度の窓。左の壁伝いになけなしの机が窓際まである。大人一人が通れるほどの道をリツは目を輝かせながら入っていった。


「ちっちゃなへや!」


 はしゃぐリツを眺めながら男は鍵を閉めた。びしょ濡れのコートを脱ぎ、細長いドアを開けてハンガー取り出して適当な場所にかける。靴を脱ぎ、壁際に斜めに立て掛けると靴下も脱いだ。濡れて気持ち悪かった感触が一気に解放され、男から自然と溜息が漏れる。


「おい」

「ん?」

「靴と靴下脱いじまえ」

「ん」


 リツは一音だけの返事をして言われるまま靴と片方だけ履いていた靴下を脱いだ。育ちがいいらしくその場に脱ぎ捨てることはなく、ローファを重ねて持ち、言われずとも男の靴の横にローファを同じように立て掛けた。その様子を見て男は「へぇ」と感嘆の声を漏らした。


「なに?」

「あ? あぁ、利口だなって」

「5さいだからこれくらいできる」

「そうか」

「服びちょびちょ」

「あぁ、だったら先に風呂入った方が……」


 そこまで言って男は口を閉ざした。風呂ということは男がこの子どもの風呂の世話までしなければならないということだ。どうやればいいのかもわからないし、そもそも見知らぬ子と風呂に入ることは良いのだろうか。

 男は人間ではないし、社会に生きているわけではないため法で裁かれることはない。だが、何となく気が引ける。

 

「ひとりではいれる」


 男の気持ちを察し、リツはどこが自信満々に答えた。


「無理だろ」

「かみ洗うのと、からだ洗うの」

「あぁ、わかってんのはいい。……一緒に入ろう」


 相手は男だ。女児と入るのとは訳が違う。男はガシガシと頭をかいて意を決した。視線を合わせるようにしゃがみリツの服を脱がし、続いて自分も衣服を脱いで玄関横にあった扉を開けた。


 適当に身体や髪を洗ってタオルで水気を拭きとった。リツにホテルで借りた浴衣を着せ、自分も大人用の浴衣に袖を通す。お互い下着の替えはないため妙にスース―するが仕方がない。どこかで下着の一つでも買ってくればよかったが、男の頭ではそこまで及ばなかった。

 男はリツを部屋に戻し、テレビをつけた。子供番組でもやってるだろうかとチャンネルを回していると、国営放送の内容に男の手は止まった。


『久木野公爵の長男、久木野くぎの利津りつちゃん、5歳。本日17時ころ、帝国ホテルから行方が分からなくなっております。警察は誘拐と見て……』


 息を詰まらせる男に反してリツはふふっと子どもらしからぬ笑いを漏らした。


「りつさがしてる。始祖さまがゆーかいしたから」


 誰のせいだと思っているんだ、と文句の一つでも言おうと男は口を開きかけた。が、ふと沸いた疑問を先に尋ねた。


「なんて言った?」

「ゆーかい」

「その前」


 聞き捨てならない言葉に男の視線は鋭くなる。リツはバフンと布団を叩いて上半身を起こした。眉間に縦筋をつくり、怪訝な表情でこちらを見つめる男の視線にリツはくすぐったそうに笑って小首を傾げた。


「始祖さま」


 男は雷に打たれたが如く体に電流が走った。


 なぜ、どこで。いや、正体が明かされるようなことはした。けれどもヒーローだと思ったのではなかったか。

 戸惑う男をよそにリツはベッドに座り直して胸を張った。


「お母さんがいってたの。始祖さまはおひさまみたいなお目目なんだよって」


 久木野の女がそんなことを知っているとは思えない。そもそも久木野が始祖について知る由など……。

 そう思ったところで男は合点がいった。リツから発せられる甘い血の香り。真祖と言えど濃く誘惑的なその匂いは久木野だけでは成り得ない。


「お前の母親って……」


 男の戸惑う声にリツは人差し指を立て自分の唇に当てた。


「ないしょ」


 およそ子どもとは思えない妖艶な仕草に男は息を飲んだ。こんな子どもにあっという間に絆され、何も言えなくなるなど誰が想像できようか。

 

「わあったよ。内緒な、内緒」

「ありがと、始祖さま」

「……」


 その名で呼ぶな、と言いたくもそれ以外の呼び名を持たない男は半ば諦めの溜息を吐いた。リツが楽しいならそれでいい。そう思った。

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