54話
利津は夢を見た。
それは幼い頃の記憶だ。懐かしさよりも苦さの方が際立つ嫌な記憶。
田南部美玖との婚約が決まった日、利津はパーティ会場となっているホテルから逃げ出した。齢5歳。邸宅から碌に出たことのない幼子がどこへ行けるというのか。幼いながらもわかっていた。けれども逃げ出さずにはいられなかった。
久木野は吸血鬼の中で最も尊い存在だと教えられてきた。人間の血で穢すことなく純血に始祖の血だけを引く者。父と祖母は何にも変えられない存在だと。教えられながら利津は疑問に思った。父の血を引く自分は尊くはないのか、と。すると父は激昂した。
「なくなく繋いだだけのお前の存在が尊いわけがない。東の血を混ぜた混血児如きが私と母と同種などと思うな」
真祖の男児は誰も彼も名を一字とする。久木野清然り、西和田隆然り、田南部健然り。
ならば利津は? 聞かずとも生来聡い利津にはわかっていた。久木野を純粋に継いでいない証の名だと。ダンピールである北佐倉友之と同様、差別の対象であると。
そして、田南部美玖に初めて会った時、利津は直感した。この人が本当の久木野だと。作られた笑み、小馬鹿にした視線、父と祖母と一緒だと思った。冷たいその目は幼い利津を更に孤独にした。まるでお前は必要がない。そう言われているようで怖くなった。
――たすけて。
「っ!!」
悪夢を断ち切るように利津の上体は反射で起き上がった。
べっとりとした汗が額を濡らし、癖のある銀髪は更に巻かれて肌にくっつく。バチバチと聞きなれない音と光景に利津は目を見開いた。
「気が付いたか?」
聞き馴れた愛しい声が問いかける。利津は視線だけでその者を探した。
バチバチと言っていたのは部屋の真ん中に置かれた囲炉裏の火の音だった。古臭くもきちんと機能しているそこは部屋中を暖かくし照らしている。その囲炉裏の向こう側にはパーカー姿の世那が座っていた。
「びっくりしたぜ。ヘルメット渡した途端にぶっ倒れやがって。仕方ねえから、ほら。凍死しねえようにありったけの布でぐるぐる巻きにして俺の身体に縛り付けてバイクでここまで来た。外は生憎、つーか幸運にも猛吹雪だから追手も来ないだろうな」
「ここは……」
「さあな。狩猟用の山小屋か何かだとは思う」
ここは6畳もない小さな小屋。木でできた壁にはいつの物かわからない狩猟用の唐笠や袋がぶら下がっている。
世那は囲炉裏の火を火箸で転がしながら利津に視線を向けた。
「妙な薬で身体を壊すな」
「妙策と言え」
「……」
「貴様に助けられずとも脱することは出来た」
「その後はどうするつもりだったんだ」
額に張り付く銀髪をかき上げながら利津は鼻白んだ。
「貴様の問いに答えるつもりはない」
「利津」
呼ばれ、利津は上目使いで睨むように世那を見た。世那はその視線に火箸を手放して居住まいを正した。
「うなされていた」
「貴様のいう妙な薬のせいだろう」
「本当に?」
「貴様の考えていることはわかる。安全な地に俺を置いた後いなくなるつもりだろう」
世那は薪を一つ手に取って火の中へ放った。拍子に火が弾けて火の粉が宙を舞う。肯定も否定もしない世那に利津は小馬鹿にしたように笑った。
「……くだらん。始祖である貴様に取って俺は幼子と変わらぬのか? 俺はもう成人し一人で立てる」
「ぶっ倒れたのに?」
「……」
次は利津が口を閉ざす。火から利津へ視線を向けると世那は溜息を漏らして後ろ手に手をついて身体を引いた。
「俺にとってお前はずっと子どもだ。お前は恋慕と勘違いしているみてえだがそれは違う。まあ、俺に対する執着もお前の生い立ちを鑑みればわかる。俺はお前の親じゃあない」
「ハッ、何を言い出すかと思えば。親? 馬鹿馬鹿しい。俺と大した変わらぬ年のような見目で、思考で、俺を侮るかっ」
利津の声は段々と大きくなり、ついには苛立ちを露わにした怒声を世那に向けた。
世那を親だと思ったことは勿論ない。利津にとって世那は愛しい対象で、家族愛のような庇護ではない。対等であり確かな恋慕だ。
「試してみるか?」
そういうと世那は立ち上がり、利津の横に片膝をついて座り直した。利津はじっと睨むように見上げたまま微動だにしない。揺るがぬ信念に世那は落とすように笑うと利津の頬に手を伸ばした。指先が利津の頬を撫でる。それでも利津は動かずじっと世那を見つめた。
翡翠色の瞳が漆黒の瞳を捉える。どちらとも付かぬまま互いの額を合わせるように顔を近づけた。
「怖がらねえの?」
「記憶を取られるかを聞いているのか? ならばそれはなかろう。やるならば東の地に着いてからだ」
「聡いな」
地についていた利津の手が上がり、倣うように世那の頬に触れる。額だけではなく、互いの鼻先が当たったその時、利津に電撃が走った。いつだったか、この距離で世那を見つめたことがある。それは疑問から確信へと変化し、答えを得た子どものように悪戯に微笑んだ。
「世那が始祖に戻る瞬間、俺が何をしたか覚えているか?」
「あぁ?」
「口付けだ」
銀色の睫毛が翡翠色の瞳を覆う。利津は僅か顔を傾けた。
次に何が起こるか、子どもでさえわかったはずだ。拒めばよかった。だというのに世那は拒めなかった。恋慕ではない。親を欲する感情だと口では言っておきながら利津の行動を否定することはできなかった。自分が何者か、何をすべきか、わかってはいる。利津も世那も間違った道へ向かっていることも。けれども今更拒絶なんてできない。
そう思った時には世那の唇に利津のそれは重なっていた。世那の身体は硬直した。利津は内心で笑った。
しかし、その緊張も長くは続かなかった。頬に触れていた手が利津の後頭に回され力任せに引き寄せられる。そうして世那は唇をうっすらと開けて利津の柔らかなそれを食んだ。
囲炉裏の火が不自然に音を鳴らす。まるで心の奥底で燻っていた何かが弾けたように。少しの静寂の後、世那の中から感情が怒涛の勢いで溢れてきた。
勝手に作った社会性があっただけでそこに本来障害はない。欲しいまま貪ればいい。地位も名誉もない。ただ二人は互いを思えばいい。血を欲するように本能のまま掴めばよかった。この手に愛する人を。
ふと木で出来た壁の隙間から強い風が吹き抜けた。囲炉裏の火が揺れる。間近にある利津の香りが世那の鼻腔をくすぐる。甘く澄んだ穢れを知らない血の香り。
世那は思い出した。その昔、小さな利津と一緒に過ごした一夜の夢を。
ーーーーーー
あれは10数年前の5月下旬。世那が名を持たなかった頃の話。
頬にぽつんと冷たい何かが当たり、世那ーー男はゆっくりと目を覚ました。
ここは高架下の河川敷。静かな雨が降り注ぎ、その雫が水たまりに当たるたびにまるで木琴のような澄んだ音を響かせる。
男が眠ったときはまだ昼過ぎだった。いつのまにか昼寝をしてしまっていたようで、さっきまであった日の光はない。時を確認しようと男は拾った腕時計をポケットから取り出す。時刻は17時。
「どうすっかな……」
誰にいうでもなく呟くとそれに応えるようにぽたっとまた頬に水が当たった。ここにいても仕方がない。簡易的でもいいからどこか宿でも探すかとコートのボタンを数か所とめ、黒髪を隠すようにフードを被り雨の中へ入っていった。
土でできた道は少しぬかるんでいた。石で出来た階段を一段飛ばしで駆けのぼる。そのたびにぐっしょり濡れた靴が嫌な音を鳴らし気分を最悪なものへと変えていく。
全て上り終えるとそこは少し小高くなった丘になっていた。視線を遠くに向けると街の明かりが見えた。
そういえばと男は先日の出来事を思い出す。ホテルに勤めている親なし吸血鬼に会い泊めてもらったことがあった。また世話になろうか、記憶も処理しなおせばいい。今日の宿を決め男の足は自然と街の方へ向かう。
男は吸血鬼の祖だ。生に終わりはなく、目的もない。適当な住まいと適当な食事、そして血液をくれる吸血鬼がいればいい。そんな風にだらだらと過ごしている内に時代も変わっていた。が、男にはそんな変化も興味はなかった。
街の入り口に着くと雨はやんでいた。雲間から残照が差し込み、濡れた歩道が淡く輝く。
男は濡れたフードを脱ぎ水気を振り落とした。綺麗に乾くことはないが多少は良くなったなと溜息を漏らす。
街は人が多い。さっきまで人っ子一人いなかった河川敷と比べ街中は人であふれかえっていた。
「っ……あ」
靴が濡れている苛立ちから男は周りに気を使うことを忘れていた。不意に足元に小さな何かが当たり足を止めた。ぶつかった何かは反動でこてんと尻餅をついて倒れていた。子どもだ。男は咄嗟にしゃがみ顔を覗き込んだ。倒れた子どもは痛かったらしく臀部を撫でながら顔を上げた。
「悪い」
「……」
形ばかりの男の謝罪に少年はゆったりと顔を上げた。
ふわっとした銀髪が揺れ、同色の睫毛が持ち上がり少し涙ぐんだ翡翠色の瞳が男を見上げた。服装は今どき珍しい上品な身なりだった。黒の短パンをサスペンダーで持ち上げ、白のワイシャツに赤いネクタイ。
少年と目が合う。同時にふわりと甘い匂いが舞い込み、男は咄嗟に身を引いた。
ダメだ、この匂いは。
そう思った時には既に遅かった。意に反して少年が発する真祖の匂いに男の咥内は濡れていく。元人間では出せない甘く溶けるような純血の香り。
これが吸血鬼の祖である男と始祖を語る久木野の混血児・利津との初対面であった。




