53話
車内に響いた銃声が静まった頃、利津は喉を鳴らして笑い、振り返った。自ら引き金を引いたというのに韮山の身体は小刻みに震えていた。
「どうした。撃たねば俺は何をするかわからんぞ」
「動かないで、どうか。久木野大尉」
「今更何を言う。手錠をきちんとせず、吸血鬼用の銀製のものを使用せず、そのうえ……」
「黙れ!」
フーフーと荒い呼吸を繰り返しながら韮山は銃を構え直した。銃口が利津の額を狙う。
「俺に、撃たせるな。あなたは俺にとってヒーローなんだ。だから、……」
韮山の目には涙が滲んでいく。隙があれば逃がしたい。そう思って利津を強く拘束することはなかった。尊敬する上司を撃ち殺したくない、罪人をむざむざと逃すわけにはいかない。その狭間で揺れながら韮山が今できることは銃口を向けることしか残っていない。
動けなくなった韮山に利津は口角を上げ鼻で笑った。
「貴様は見たことがないのだろうな。本物のヒーローという存在を」
「……え?」
利津は柄を握りわざと抜く動作を見せつけた。
撃つしかない。韮山の選択の余地は無くなり、トリガーに指をかけた。
そのとき、突然ガタンと車体が大きく揺れた。韮山の身体は大きく振れ、反射的にトリガーが引かれた。狭い車内に二度目の発砲が響く。しかし銃弾が利津の頭を貫くことはなかった。
利津は咄嗟にしゃがみ、すかさず地を蹴り鞘が抜けぬように握り締めるとそれを使って韮山の足を払った。
「っ!」
人間を優に超える素早い動きに韮山は成す術なく鉄板の床に尻餅をついた。肩からベルトを通すことを忘れていたアサルトライフルは無惨にも床を滑り利津の方へ転がっていく。利津は足でそれを受け止め韮山から遠い位置に蹴って滑らせた。
韮山は這いつくばりながら利津を睨み見上げた。対する利津はじっと韮山を見下ろしている。その表情に笑みはなく、冷たい。
――あぁ、殺される。
韮山がそう思ったところで鉄が擦れる煩わしい音が鳴り後方のドアが勢いよく開けられた。真っ赤な空を背負いながら一人の男が現れた。その男は利津を見つけると安堵の表情を浮かべた。
「大丈夫だったか?」
「遅いぞ、世那」
「ハッ、嬉しそうな顔してんじゃねえよ」
この人は一体誰なのだ、と尋ねるような韮山の視線に利津は口角を上げ笑った。さっきまでの射殺すような視線はない。
久木野大尉という男は軍では全くと言っていいほど感情を露わにすることはなかった。嫌味を言われ、煽られ、時には賞賛されても何も感じていないと言うほど冷たいままだった。
だが今はどうだろう。突然現れた救世主に素直な喜びを向けている。年相応の青年らしさが垣間見えて韮山は言葉を失った。
「さて、とりあえずここから離れるぞ。追手が来ないうちに」
世那は車内に乗り込み転がっているアサルトライフルを取って当然のように自分の肩から下げた。それは俺のものだと韮山は口を開きかけたが、次の世那の言動で遮られた。
「バックパック持ってねえか?」
「え?」
「弾薬とか、色々入ってるやつだよ」
「え、あ……」
「くれないなら力づくでもらう。手荒な真似したくねえんだけど」
ガリガリと後頭をかきながら世那はさも面倒くさいと言いたげに首を傾げる。闖入者は見た目も雰囲気も何から何まで人間でしかない。確かにガタイはそれなりにいいものの身震いするほど恐れるようなことはない。だというのに、韮山の背に冷たい何か嫌なものが撫でる。まるで獣に睨まれたような恐怖が身体を支配する。
「な?」
たった一音に全てが集約されていた。どことなく似ているのだ。久木野利津に。同じ空気を纏う男に韮山は抗う気をすっかり削がれてしまった。言われるまま腰からぶら下げていた最低限の荷物が入ったバックパックを世那に投げ渡す。世那は受け取ると「ありがとな」と爽やかな笑みを浮かべた。
「動けるか?」
「見ての通りだが」
「心配してんだよ。ここからは歩きだ。雪山を越えて東に行こう」
逃げるならば帝国の息がかからないほうがいい。誰だって思いつく提案だが何故東を選んだのか。韮山とは違い提案された利津はすぐに頷いた。
「よかろう」
韮山という敵が存在するにも関わらず二人はこれからの行動を躊躇いもなく口にした。利津はポケットに手を入れティッシュに包まれた錠剤を一つ手に取り口に含んだ。その様子を見て、問いただすように世那はわざと低い声を発した。
「何を食った?」
「気付だ。身体に害はない」
そう答え飲み込んだ。世那は納得がいかないと言いたげな表情を浮かべたものの車外に降りた。利津は世那に続いて降りようとしたが足を止め、韮山に向き直った。
「貴様にくれてやろう」
握っていた刀を一度強く握り、そして韮山の方へ投げ捨てた。ゴトンと音を鳴らし刀が地に落ちると韮山は刀から利津に視線を向けた。
「何故」
「唯一俺が自分の褒美としてつくらせた代物だ。貴様は銃よりも刀剣の方が向いている」
答えにならない答えを言い、誇らしげに微笑む利津に韮山はぐっと言葉を飲み込んだ。
「我々はこれから東へ向かう。貴様は軍への報告を怠るな」
「何を言って……」
韮山の声は掠れていた。恐怖ではない。いつもと変わらない大尉の命だったからだ。
戸惑う韮山を置いて利津は世那を追いかけ森の中へ入っていった。
「……」
韮山は車体に手をつきふらつく身体を支えながら運転席へ向かった。運転席にはぐったりと倒れている先輩兵がいた。規則正しい寝息を立てている。世那という男が乗り込んで気絶させたのは一目瞭然だ。殺されることなく寝かされたことに安堵する一方、闖入者の心根が見えて韮山は独りごちた。
「大尉も、あの男も、馬鹿だ」
失礼を承知で先輩を跨ぎ、無線に手を伸ばす。ガーガーと雑音が鳴った後、焦った声が入り込む。
「こちら、久木野邸前。聞こえますか?」
『こちら、第一隊。そちらの状況は?』
韮山は現状をあるがままに報告した。久木野邸が爆破されたこと、隊員たちの安否が不明なこと、そして久木野利津が逃げ出したこと。
無線の声は一つ溜息を吐いて問う。
『……了解した。それで、久木野は何か言っていたか』
韮山は頭に浮かんだ言葉を飲み込んだ。この情報は確かなものだし、伝えれば利津を捕まえる確率がぐんとあがる。
しかし、と韮山は唇を噛んだ。果たしてそのまま伝えても良いものだろうか、と。
韮山は無線を握り、一つ息を吐いてこう告げた。
「……わかりません」
『そうか。……おそらく西和田を頼るだろうから西へ増援を向かわせよう。お前は応援が来るまでそこで待機せよ』
無線機から雑音が鳴り、やがて車内はシンと静まり返った。
韮山は深いため息を漏らしてシートに身体を預けた。これくらいで逃げられるとは思えない。けれども少しでも時間稼ぎになるならいい、そう思った。
先程までチラチラとしていた雪が風を含んで叩きつけるように降り始める。韮山の手には利津が置いて行った刀が握られていた。
ーーーー
利津と世那は城下町には出ないよう王城のある山の裏を回り、国境となっている大きな山を登っていた。舗装されていない道なき道を歩くため足元は冬だと言うのにぬかるんでいる。
韮山と別れてから十数分。先程までふわふわと降っていた雪は風に乗り真下に落ちることを忘れて横に流れるようになった。
「世那」
「ん?」
「歩いて国境まで行くつもりか」
世那の黒髪から積もった雪が少しだけ地に落ちる。自信ありげに微笑む世那に利津の表情は険しくなる。
「そんな効率の悪いことするかよ。お前が凍死しちまう」
この極寒の地、しかも闇に沈んだ夜空の下ではロングコート姿は確かに寒い。だがそれ以上に軽装な世那が何を言っているのかと利津は鼻白んだ。
「始祖は死なぬ、と」
「もう少し行ったらいいモン見せてやるよ。ついてこい」
始祖に戻ってから世那はずっと誤魔化し続ける。その事実に苛立ちを覚えるが利津は何も言わず、世那の後をついて行った。
ふと世那が足を止めた。そこは何の変哲もない山の斜面。月明りもままならない暗がり。人間の目では目視できないだろう影の中に目的のものは埋まっていた。枯れ木と枯葉の中に隠れるように大型のバイクがあった。
「これは動くのか」
「動かなかったら意味ねえだろ」
「誰のものだ」
世那は微かな笑みを浮かべ、目を細めて利津を見返した。枯れ木を避け、森の中からバイクを出した。少し古ぼけてはいるがビンテージものと言うほど古くはない。かと言って最近乗られたとは到底思えないその様相に利津は言葉を飲み込んだ。そんな利津の気持ちを知る由もなく世那はフルフェイスのヘルメットを一つ取り出し利津の前に差し出した。
「一気に超えるぞ。吸血鬼だって言ってもこの寒空の下じゃそんなに乗ってられねえ」
「……」
「死なせない。お前は生きるべきだ」
そういった世那の表情は利津が憧れた人間の頃のものと何一つ変わらなかった。




