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51話

 静かだ、と利津は思った。窓枠の向こう側から差し込んでいた月明かりは雲に隠れ、ちらちらと雪が舞い始めている。切り付けるような冷えた空気が頬を撫でるので、窓を閉めるべきだったかと利津は内心後悔した。


「っ、……ふ」


 熱い吐息が聞こえ、利津は目線を窓から下へ下ろした。後ろに手をつき長座位で床に座っている利津の足元には四つん這いになった世那がいる。上等な純白の着物は赤で染まっており、その先にある太腿に世那は顔を埋めている。

 その様子を利津はうっとりした目で眺めた。気付薬のように銀の短剣を突き刺したことは間違っていなかった。おかげで始祖の瞳に囚われながら始祖の命に抗えたのだ。結果は上々。いや、それ以上の成果を得られたと言える。

 利津の太腿を這う厚い舌がそれだけで意思を持ったように次から次へと溢れる血を舐めている。まるで犬のようだと利津は首を傾げながら口角を上げた。


「満足できぬなら噛み付いても構わんぞ」


 世那の舌が止まった。ゆっくりと顔をあげ黒い瞳で利津を見遣るとバツが悪そうに目を逸らした。


「噛み付いたらどうなるかわかってて言ってんのか」

「無論」


 真祖同士に眷属化という概念はない。そもそも真祖は互いに血を与え合うことは禁忌とされているためだ。どんなに仲が良くても、友人、恋人、夫婦でさえ噛み付くことはしない。利津が隆に血を与えたのは例外も例外で他の真祖に気づかれればタダでは済まない。

 利津はわかっていて世那に誘いをかけたのだ。その悪戯な言動に世那はぎりっと奥歯を噛んだ。


「ふざけんなよ」

「どちらが」

「あ?」

「俺に血を与えることはよしとし、貴様が俺の血を貪らない理由はあるまい」

「応急処置だ。お前の血が欲しかったわけじゃねえ」


 言い訳がましいその言葉を利津は聞き流し、今まで世那が舐めていた方の膝を立て、そっと傷のあったところに指を滑らせた。さすが吸血鬼殺しの銀で傷つけただけあって完璧には傷口は塞がっていないものの、先ほどまで致命傷と言ってもいいほど溢れていた血は止まっている。放っておけば時間が解決してくれるまで治癒していた。


「吸血鬼の持つ回復力のせいか。あるいは貴様の始祖の力か」

「さぁな」

「ふっ、否定せぬか」


 始祖の力と言うものがどういうものか、正直利津は知らない。試すような言葉をあっさり肯定され、利津は感嘆の溜息を漏らし世那に視線を向けた。世那は身を引きその場に座り込んでいて、利津と目が合うと口元を手の甲で拭ってじっと睨んだ。


「いつ気づいた」

「さぁ」

「しらばっくれんな」

「始祖の力を使って吐かせたらよかろう」

「んなことしたらまた自傷すんだろ」


 利津は肩をすくませて笑った。肯定の意としかとれない反応に世那は舌打ちをした。


「どこまでわかっている」

「答える義理はない」

「利津」


 世那は強い殺気を纏い利津を睨んだ。答えろ、と命じるその見目は人間と何ら変わらない。だと言うのに、利津の背にひやっとした汗が伝う。利津は悟られぬように拳を強く握って肌に爪を立てることで誤魔化し、世那をじっと見つめた。


「逆に問おう。貴様の目的は何だ」

「んなもんねえよ」

「ならば何故俺の前に現れる」

「意気地なしが。血が足りてねぇくせにベラベラ喋ってんじゃねえよ」


 世那の問いに利津の喉がひくっと動いた。人間でさえ、喉が渇いていれば水の音が聞こえるだけで喉を鳴らす。吸血鬼も同じこと。血という単語だけで避けていた欲が一気に押し寄せる。


「っ……」

「そう。素直になっときゃいいんだよ」


 瞳孔が開きっぱなしになった利津の目がまっすぐ世那を捉える。まるで獣のような欲の強さに世那は同じように喉を鳴らし微笑んだ。

 世那が次に何をするか容易に想像できる。利津は身を引こうと床に手をつき僅か尻を浮かせた。

 しかし脚が思うように動かない。思った以上に銀の刃が深く食い込んでしまっていたのか痛みはないと言うのにどこに力を入れていいかわからず、利津の眉間に自然と皺が寄る。


「怒んなくたっていいだろ。大丈夫。好きなだけ飲ませてやるよ」

「っは……」


 溶けていく思考が手に取るようにわかる。利津は世那の言葉にとうとう陥落した。利津が瞬きをした瞬間、瞳は真っ赤に染まり、大きな牙を見せつけるように口が開かれる。手を差し伸べ、世那の腕を掴むとすかさず自分の方へ引き寄せた。

 世那は利津の脚を踏まぬように気をつけながら利津の太腿の上に跨った。同時に頭を掴まれ髪を引かれ、日に焼けた首筋を無理やり曝け出される。呻き声のような音が利津の喉から鳴ったかと思えばあっという間に世那の首に牙を突き立てた。


「くっ……」


 刺さる瞬間は変わらず痛い。世那の口から漏れる苦しい声に利津は更に強く噛みついた。

 主人と眷属にでもなれば噛みつかれても甘い快楽を感じることが出来るというのに世那は利津に噛みつこうとしない。二人は他人だと言われているようで利津は気分が悪かったがその感情もすぐに消える。

 大きな牙を伝い、新鮮な血が利津の咥内に流れ込んでくる。始祖の血はどんな血液よりも濃く甘い。利津の思考は一気に本能に支配され、小さな怒りも溶けていった。


「ん、ふ……ぅ」


 ごく、ごくっと利津の喉が鳴る。鼓膜に直に響き世那もつられるように吐息を漏らした。気づけば世那は利津の頭を抱き寄せていた。


 好きだ、好きだ。


 世那も利津も思うところは同じだ。相手を思い、自分のものにしたい。だというのに素直になれない。互いが互いを思うあまり不必要なものに縛られているなど知る由もない。


「っ……」


 ずるりと利津の牙が抜け、世那は身震いした。抜ける瞬間の何とも言えない悦が心地よく、利津の頭を優しく抱きしめながら世那は利津の耳元で溜息を漏らした。


「ぅぁ……っ」


 甘えた声が利津から上がる。吸血とは違う欲が世那の、利津の思考を掠める。利津は歯を食いしばり世那の肩を掴んで強く引き離した。


「出て行け」


 利津は息もぎれぎれに言い放った。顔は真っ赤に染まり、迫力のない睨みを世那に向けている。

 世那は利津を冷たい眼差しで見下ろすと顔を背けた。これ以上ここにいるわけにはいかない、そう思うと身体は勝手に動いていた。窓枠に手をかけ、一言も発することなく世那は寒空の向こう側へ消えていった。


「……意気地なしはどちらだ」


 外から吹き込む風が室内のものを小さく揺らす。その音に混ざるように利津は呟いた。

 すると部屋の隅に置かれていたスマートフォンが震え出した。ほとんど鳴ることを知らないそれに利津は首を傾げ近づくなり画面を見やった。見慣れた番号にほっと息を吐くと受話器を取るボタンを押して耳に当てた。


「どうでした? 上手くいきましたか?」

「……」

「あれ? あぁ。ダメでしたか」

「そんなことはない」

「へぇ、そりゃあよかったっすね」


 端末から聞こえるお気楽な佐藤の声に利津はわざとらしく大きく溜息を吐いた。その音に佐藤はくつくつと笑い、騒がしい街の雑音を混ぜながら話し続けた。


「リリィも楽しかったみたいで今も、ははっ。初売りだか何だかわかんねえけど、なんか利津様にピッタリだとか何とか言ってまだ店の中にいます」

「あぁ」

「年始休暇、ありがとうございました」

「休めたならばいい」

「もう少ししたら帰りますよ。俺たちのことは気にせず利津様はゆっくり休んでてくださいね」

「誰が……」

 

 言い返そうと口を開いた瞬間、邸宅を囲む柵の向こう側にちらりと光が見えた。利津は窓に近づきじっと目を凝らし、その光の正体がわかると口早に命じた。


「帰ってくるな」

「はい?」

「リリィを連れて遠くへ逃げろ」

「え? え?」


 状況が掴めない佐藤の言葉に利津がこれ以上答えることはなかった。

 利津は通話を切るとスマートフォンを操作してあるボタンを押した。ピッと甲高い音が鳴り画面が残り1時間だと伝えると間を置かず電源が切れた。今はわからずともすぐに端末の異変に気づき佐藤は、リリィは対応できる。そう確信して利津はスマートフォンを机の下に滑りこませるとクローゼットへ向かった。時間はない。先ほど見た光は既に邸宅の鉄柵の前に並んでいた。


 突如強い光が差し込んだ。太陽が降ってきたとかと思わせるその光は一斉に邸宅を照らす。

 キーンとハウリングの音が聞こえたかと思うとガサガサした音と共に人の声が鳴った。


「こちら帝国軍第八部隊だ。屋敷にいる吸血鬼ども。お前らの命運はここまでだ。人間に仇をなす獣どもを処分する。聞こえたか。これから武装した我々が突撃する。抵抗はするな」


 邸宅の眷属たちは悲鳴をあげた。どの吸血鬼たちの中でも最も安全に幸せに暮らしてきたであろう久木野の眷属たちは信じられない現状に怯えている。

 対して主人である利津は落ち着いていた。クローゼットから目的の白いコートを取り出しベッドの上に放るとびしっと糊で固められた白いワイシャツ、黒いズボンに着替え、靴はいつもの革のものではなくトレッキングシューズを選んで履いた。


「……回復まで少しかかるか」


 ズボンに足を通そうとしたとき、僅か違和感が残っていた。一人で軍隊と戦うほど無謀ではないが隙があれば何かできるだろうとは考えている。だが、完全となっていない身体ではその奇跡すら起こりえない。

 利津は独り言ちて苦笑した。しかしどうだろう。自分でやったとはいえ、成果はあったことは確かだ。


「世那のことを忘れていない」


 危機的状況だと言うのに利津の口角は上がった。愛しい名を思っても嫌な気持ちはない。それだけでも十分だ。

 ベッド横のサイドテーブルの引き出しから小瓶を取り出す。小さな白い錠剤が小気味い音を立てる。利津はそれを一粒手に取り口に含んだ。残りをティッシュに包み込みロングコートのポケットにしまい込んだ。ここから先引き返すことは出来ない。もう後戻りはできない。

 

「返答がないようだな。今から突撃を開始する。両手を上げ投降しろ」


 拡声器から威圧的な言葉が吐き出されると同時に「おー!」と低い怒号が響き、頑丈な鉄柵が壊され数十人の兵たちが銃を構えながら邸宅に向かって駆けてきた。バタバタと石畳を踏みしめる音を聞きながら利津は白いコートを羽織り部屋を後にした。


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