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50話

 男は久木野邸の屋根の上に座って冷たい夜空を見上げていた。

 あの日から利津に血を与えては記憶を消し、また与えては消して。今日もまた利津に血を与えなければならない日で男は窓が開くのを待っていた。

 ガチャリ、と錆びた金属が擦れる音が男の耳に届く。血が足りなくなると利津は無意識に窓を開ける。そう仕向けた。男の口角は自然と上がる。しかし、その喜びも束の間だった。ふわっと香ってきた利津の匂いに混じって甘い血の香りが男の方へ流れてきたのだ。


「……なんで」


 嗅ぎ慣れた利津の血の匂い。何故、どうして。浮かぶ疑問に答えるように利津の嬉々とした声が空を裂いた。


「さぁ、来い。俺は約束を違えた。貴様以外の者に血を与えたぞ」


 湧き上がる怒りに男の目の前は真っ暗になり、気づけば身体は動いていた。すぐ下にいる利津の部屋の窓の桟を掴んで中に滑り込んでいた。窓の前に立っていた利津を押し倒す形で男は利津に馬乗りになって首を絞めた。


 男は許せなかった。利津が他の者に血を与えたことが。


「あぁ、本当に、貴様のこと……嫌いなのだな」


 まるで他人事のように紡がれる言葉は掠れていた。ヒューヒューと音を立て狭い気道を空気が通る。利津は苦しさを滲ませながら口角を上げた。


「世那」


 掠れた声で利津が借りた名を呼ぶ。男、世那は目を見張った。手の力がわずか弱まるのを見逃さず利津はその手に手を重ね強く握ると力の限り振り払った。


「っ……」


 咄嗟の出来事に世那は反応できず、利津の肌に爪を立て引っ掻き傷を作って手を離してしまった。古い匂いよりも新しい甘い血の香りが鼻腔をくすぐる。世那は眉間に皺を寄せ飛ぶように背後に下がった。


「何故呼べるのか、という反応だな」


 三日に一度、世那は利津に血を与えにきていた。だが利津は記憶を消され、嫌悪だけを残され日々を過ごしていたはず。

 世那の瞳が戸惑いで揺れると利津はゆらりと立ち上がって世那を見据えた。


「貴様を憎み、忌み嫌い、俺に何の得がある」


 少ない光を吸い込んだ翡翠色の瞳がフードの中に隠れた漆黒の瞳を射抜く。その問いに世那はきゅっと口を結んだ。理由など答えられるわけがない。世那の勝手なエゴでしかないのだから。


「今日まで稚拙な呪詛に従ってやったのだ。ここからは俺が貴様を従わせる」


 大人びた言葉の向こう側に幼さが滲み出るとだんまりを決め込んでいた世那はふっと鼻を鳴らして笑った。


「俺を?」


 フードの影になっていようともわかる世那の挑戦的な表情に利津は応えるように微笑んだ。


「16年前。東の眷属が人間を殺した事件があった。その男は叔父が可愛がっていた眷属だったからよく覚えている。あの者は臆病で自ら何かをするような男ではない。軍や国が保管していた書類も曖昧で何の手掛かりにもならず、70を超える老齢の夫婦が標的にされた理由もわからない」

「何が言いたい」


 世那の問いに利津はふっと口元を緩めて首を傾げた。


「影島世那という人物が現れたのは調度その頃だった」


 ゆったりと告げると利津はフードの影になって窺えない世那の表情を射抜くように見つめた。


「出自も身分も問わない軍の募集に影島世那は応募してきたのはその事件からすぐの出来事だった。簡単な面接ではあったがその時の状況は軍に残されている。面接官が問うと影島はこう言った。『影島武と美津子の息子だ』と。当然面接官は疑問に思って問い返す。影島とは先日事件のあった老夫婦の名では、と。すると影島は激昂し、『軍に所属したい。それ以外の理由が必要か』と言ったそうだ。……元々前線に送るためだけの兵集めだ。面倒な者がやってくることは承知の上だったのだろう。面接官はそれ以上問わず影島世那、貴様を軍に所属させた」


 外から冷たい風がふわっと舞い込む。雲で陰っていた月が少しだけ顔を出し、窓を背にした世那の影がより一層濃く伸び、利津の白い着物が青く光る。先ほど傷つけた鮮血が花のように生え、世那はぎろりと利津を睨んだ。


「で?」

「事実を言っているだけだ。何か不快か?」

「あぁ、気分がいいもんじゃねえな。ごちゃごちゃ人のこと調べて、気持ち悪ぃ」


 露骨な拒否反応を見せる世那に利津は反してうっとりした目で笑った。


「見せてやろう。俺がどれだけ貴様に執着しているか」


 ひらりと着物が翻るのを厭わず、利津は部屋の奥にあるスライドドアを開けた。そこにはびっしりと書類を綴ったファイルが並べられていた。日付順、事象順、多種多様な大きさのファイルが綺麗に置かれている。

 利津はその棚の一角を指さした。ふふんと鼻を鳴らして笑い、世那を見やった。そこに並べられているファイルに世那は目を見張った。タイトル全てに「世那」という文字が記載されていたからだ。


「貴様が俺に何をしたかはわからない。だが、世那がこの邸宅に来る前よりずっとずっと前から俺は貴様のことを調べていた。最近植え付けられた嫌悪など何の役にも立たない」

「狂ってやがる」

「誉め言葉だな」

「ははっ……すげえ」 


 子どもが自分の集めたものを自慢するような純粋さに世那は渇いた笑いを漏らした。世那の様子を利津は肯定的に受け取りごくりと喉を鳴らして生唾を飲んだ。 


「友之……北佐倉が以前貴様の血を抜いたことがあった。覚えているか?」

「さぁな。どうだったか」

「奴が言うには貴様の血は人間とは全く異なった形をしているらしい。どんな真祖も必ず人と同じ型を持つはず……」


 そこまで聞いて世那は遮るように言った。


「ダンピール同士の子が真祖になっただけだからな、お前らには人の型があって当然だろ」


 常識のように語られた思いもよらない言葉に利津は片眉を上げ、世那を見やった。


「なに?」

「そこまで調べてもわからなかったか?そうか。……そうか」


 噛み締めるように言葉を繰り返し世那はふっと顔を上げた。自然とフードが後ろに落ち、黒色の髪と瞳が露わになる。

 利津ははっと息を飲んだ。今までは世那と対していると分かっても理性が植え込まれた嫌悪、憎悪を抑え込んでいた。しかし、どうだ。顔を見た瞬間、意思とは関係なく偽りの憎悪が沸々と湧き起こってくる。どんなに押さえても作られた感情が先立っていく。


 久木野利津は影島世那が嫌いだ。


 利津はぎゅっと拳を握り肌に爪を立てた。自分よりも上位の吸血鬼の命令は絶対だ。本能が始祖の命を信じる。利津本人の気持ちとは裏腹に。


 一方、世那は利津の戸惑いに気づくと形勢逆転と言わんばかりに艶っぽく微笑み唇を舐めた。


「話は終わりだ。お前に血を与え記憶を奪って元の生活に戻してやるよ」


 そう言って世那は利津に詰め寄った。一歩、一歩世那が進むたびに利津の身体が硬直していく。

 世那の瞳は一度瞬きをすると太陽の輝きに似た黄金へ、漆黒の髪は月にも似た銀色へと変わっていった。真祖である利津は始祖に抗えない。始祖は視線を合わせればあっという間にその者の記憶も思いも全て取ることができてしまう。

 意思とは関係なく利津は始祖の瞳に囚われる。呆然としたその表情をするか、または拒絶するために顔を背けるか、どちらかだろうと予想していた世那は次の出来事に目を丸くした。


 利津は自分の意思で世那の瞳を見つめていたのだ。目と目が合うと利津の身体はひくりと震え、あっという間に世那の瞳に囚われた。だというのに利津の意志は揺らいでいなかった。


「どう言うことだ」


 詰まるような声で呟かれた世那の言葉に利津は苦悶の表情を浮かべながら口角を上げた。


「世那は俺を捨てられない。俺が世那を捨てないからだ」


 あきらかに様子が違う利津に世那は眉間に皺を寄せた。何か起きている。そう思った時、あることに気づいた。窓の向こうから吹く冷たい風があり得ない香りを運んできている。利津の血の匂い。先程の首を引っ掻いたレベルではない。鼻腔をくすぐり、味までわかるほど濃く多量のそれに世那の本能が期待で喉を鳴らした。


「何をした」


 笑ってはいるが利津の額にはじわっと脂汗が滲む。何かに耐えるような表情に世那の視線は下へ向かった。


「なっ……」


 真っ白な着物の向こう側。利津の太腿には銀でできた短剣が突き刺さっていた。柄を握る利津の手は震え、それでも更に食い込ませようと力を込めている。

 吸血鬼の回復を以てしても銀で作られた傷の治りは圧倒的に遅い。下手をすれば致命傷となり死に至ることもあるというのに、利津は痛みに耐えながら始祖の黄金の瞳を見つめながら叫んだ。


「さあ、とれるものならばとってみろ。俺の記憶を、思いも、何もかも」

「んなことしたって真祖は始祖に抗えるわけねえだろ」


 世那の声は焦っている。反して利津は落ち着いた声で反論した。


「抗う?勘違いするな。従わせると言っただろう」


 足から力が抜け、ガクッと体勢が崩れて利津はその場に片膝をついた。自ずと目線も下に向き思いもよらない幸運によって利津は始祖の瞳から逃れることができた。世那自身が動揺したことも一つの要因だが、痛みに思考が奪われたことが最大の理由だ。


「俺を死なせたいか、世那」

「何言って……」


 翡翠色の瞳がもう一度黄金を見上げた。


「世那は俺を殺せない」

「っ、……」

「俺に血を与える理由は。俺から離れる理由は。……全ては俺を生かすた、め……」


 言葉が詰まる。利津は油汗をダラダラと流しながら狂気に似た笑みを浮かべた。


「世那は俺から離れられない。永遠に」


 利津は太腿に刺さった短剣を引き抜くと世那の足元に向かって投げ捨てた。着物を捲り上げ血濡れた皮膚を見せつけるように脚を伸ばし黄金の瞳を見つめる。


「どうする」


 音にならない声が上がったのとほぼ同時。世那は利津の前に跪いていた。月明かりで照らされた白い太腿に流れる鮮血に顔を近づけ、差し出された脚に手を添えると真っ赤な舌を肌に這わせた。


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